第2話 走るとは言ってない
翌日の放課後。
黒瀬湊は、グラウンドの前にいた。
「……何してんだ、俺」
自分でも分からなかった。
帰るつもりだった。
六時間目が終わって、教科書を鞄に入れて、教室を出た。昇降口まで行って、靴箱からスニーカーを出した。
そこまでは昨日と同じだった。
違ったのは、靴を履いてからだった。
校門とは反対方向へ歩いた。
渡り廊下を抜けて、体育館の横を通って、気づけばグラウンドまで来ていた。
理由なら一応ある。
昨日の女子生徒。
『四分二十六の人ー!』
名前を知らないと言われた。
なら、教えればいい。
それだけだ。
見学ではない。
ましてや入部するつもりなんてない。
名前を教えて帰る。
「……それだけのために来るか?」
自分で自分に言った。
帰ろうかな。
そう思ったところで、
「あ!」
見つかった。
トラックの向こう側。
昨日の女子生徒がこちらを指差している。
「四分二十六!」
「だから名前で呼べって!」
グラウンド中に響くくらいの声で返してしまった。
何人かが振り向く。
女子生徒は笑いながら走ってきた。
肩より少し長い髪を後ろで結んでいる。
近くで見ると、胸元の校章の色が湊とは違った。
二年生。
「だって知らないし」
「昨日聞けって言っただろ」
「じゃあ名前は?」
「黒瀬」
「下は?」
「湊」
「黒瀬湊」
女子生徒は二度頷いた。
「覚えた。四分二十六の黒瀬湊」
「増えただけじゃねえか」
女子生徒が吹き出した。
「私は一ノ瀬澪奈。二年。長距離」
「どうも」
「で、黒瀬。見学?」
「違います」
「入部?」
「もっと違います」
「じゃあ何しに来たの?」
「……」
湊は黙った。
名前を教えに来ました。
口に出してみると、あまりにもおかしい。
「散歩です」
「学校の中を?」
「健康のために」
「走るの嫌いなのに?」
「歩くのは嫌いじゃないんで」
「面倒くさいなあ、君」
「初対面の後輩に言います?」
「昨日会ったから二回目」
「そういう問題じゃないです」
「一ノ瀬ー!」
トラックから声が飛んだ。
「しゃべってないで次やるぞー!」
「はーい!」
一ノ瀬が振り返る。
その横を男子生徒が走り抜けた。
湊は無意識に目で追った。
速い。
少なくとも、そう見えた。
腕が大きく振れている。
地面を蹴るたび、身体が前へ飛んでいく。
走っているというより、跳ねているようだった。
けれど。
数秒後。
後ろから来た別の男子に、あっさり抜かれた。
「くっそおおお!」
最初の男子が叫んだ。
「また負けた!」
「西野、うるさい!」
「もう一本お願いします!」
「まだアップだぞ!」
「じゃあアップでもう一本!」
湊は少し笑った。
「元気ですね、あの人」
「一年だよ」
「一年?」
「黒瀬と同じ」
改めて見る。
知らない顔だった。
「西野大地。百メートル」
「速いんですか?」
「十二秒後半だったかな」
「それって速いんですか」
「高校の陸上部としては、別に」
「へえ」
「でも十一秒台出すって言ってる」
「出せるんですか?」
「知らない」
一ノ瀬はあっさり答えた。
「まだ一年生だし」
西野は歩いてスタート地点へ戻っていく。
さっき抜かれたばかりなのに、楽しそうだった。
「一ノ瀬先輩は?」
「何?」
「速いんですか」
「……」
一ノ瀬が一瞬黙った。
「普通」
「普通」
「悪い?」
「いや、別に」
「今ちょっと馬鹿にしたでしょ」
「してませんよ」
「した」
「してないです」
「四分二十六のくせに」
「それ悪口になるんですか?」
一ノ瀬は笑った。
「黒瀬は目標とかある?」
「ないです」
「即答だ」
「そもそも陸上部じゃないんで」
「あ、そっか」
「忘れてたんですか」
「じゃあ入れば?」
「嫌です」
「走るの嫌いだから?」
「はい」
「もったいないなあ」
その言葉に、湊は少しだけ眉を動かした。
もったいない。
昨日から何度か聞いた。
体育教師にも似たようなことを言われた。
四分二十六。
それがどれほどのものなのか、湊にはまだよく分からない。
ただ、数字一つで急に知らない人から期待されるのは、少し気持ちが悪かった。
「一ノ瀬!」
「今行く!」
一ノ瀬が走っていく。
「じゃあ、見てってよ」
「帰ります」
「またまた」
「本当に帰りますから」
湊は背を向けた。
今度こそ帰る。
「一年男子、三千いくぞー!」
足が止まった。
三千。
振り返る。
スタート地点に一年生らしい男子が四人集まっていた。
その中に西野もいる。
「短距離なのに?」
「一年は最初、いろいろやるんだよ」
すぐ近くから声がした。
「うわ」
「うわって何だ」
背の高い男子生徒が立っていた。
大きい。
肩幅も広い。
長距離選手には見えなかった。
「君が四分二十六?」
「……黒瀬湊です」
「おお。名前がある」
「最初からありますよ」
男子生徒が笑う。
「城戸蓮。三年。部長。砲丸」
「砲丸」
湊は身体を見る。
「今、納得しただろ」
「してません」
「顔に出てるぞ」
パン、と手を叩く音。
一年生たちが走り始めた。
西野は最初から前へ出た。
「飛ばしすぎじゃないですか」
「分かる?」
「三千ですよね」
「そう」
「あれじゃ持たないでしょ」
二周目。
西野は一人に抜かれた。
三周目。
さらに一人。
さっきまでの勢いがなくなっている。
それでも前を追っていた。
「何で短距離の人が三千走ってるんですか」
「何でもやりたがるんだよ、あいつ」
「物好きですね」
「走るの嫌いなやつにはそう見えるか」
「見えます」
「黒瀬も走ってみる?」
「嫌です」
「一周だけ」
「嫌です」
「四百メートル」
「距離の問題じゃないです」
「西野と」
「嫌です」
西野が目の前を通過した。
呼吸が荒い。
顔も苦しそうだ。
それでも前を見ている。
湊は何となく、城戸の持っているストップウォッチを見た。
「今どれくらいですか」
「ん?」
「西野」
「一キロ三分二十くらい」
「へえ」
「興味あるじゃん」
「聞いただけです」
また一周。
西野が来る。
苦しそうだった。
それなのに、走るのをやめない。
湊にはよく分からなかった。
速くもない。
苦しい。
それでも自分から走る。
昨日の自分なら、体育の授業だから仕方なく走っただけだ。
「……一周だけですよ」
言ってから、自分で驚いた。
城戸が笑った。
「おう」
「競争じゃないですからね」
「もちろん」
「制服だし」
「うん」
「靴も普通のスニーカーだし」
「分かった分かった」
「本気じゃないですから」
「まだ走ってないのに言い訳多いな」
「帰ります」
「ごめんって!」
湊は鞄を城戸に渡した。
ブレザーを脱ぐ。
ネクタイを緩める。
トラックへ入った。
土を踏む。
昨日の体育と同じグラウンドのはずなのに、少し違って見えた。
白線。
踏み固められた土。
何人もの足跡。
汗の匂い。
短距離の部員がスターティングブロックを地面に固定している。
走高跳のマットには女子生徒が一人、大の字になって寝転がっていた。
「橘! マットはベッドじゃない!」
「五分だけー」
「練習中だ!」
顧問らしい教師に怒られている。
寝転がったまま、女子生徒が片手だけ上げた。
「はーい」
「起きろ!」
湊はそちらを見た。
「……自由だな」
「黒瀬!」
前から声。
西野だった。
走りながらこちらを見る。
「一ノ瀬先輩から聞いた! 四分二十六なんだって?」
「そうだけど」
「すげえ!」
苦しそうな顔のまま笑った。
「一緒に走ろうぜ!」
「一周だけ」
「よし!」
「あと俺、制服だから」
「分かった!」
「本気じゃないから」
「分かった!」
こいつも聞いていない。
西野が通り過ぎる。
湊はゆっくり走り出した。
最初は本当にゆっくりだった。
西野の後ろについていく。
百メートル。
二百メートル。
シャツが肌にまとわりつく。
やっぱり嫌いだ。
息が上がる。
脚が重くなる。
何より、ただ前へ進むだけなのが退屈だった。
西野との差が少しずつ開く。
五メートル。
七メートル。
十メートル。
まあいい。
競争じゃない。
一周だけ付き合って帰る。
西野が振り返った。
目が合った。
笑った。
「先行くぞー!」
湊の眉が動いた。
「……は?」
西野が加速する。
十五メートル。
湊の脚も速くなる。
「おい!」
腕を振る。
地面を蹴る。
「競争じゃねえって言っただろ!」
「じゃあ追ってくんなよ!」
「お前が煽ったんだろ!」
差が縮まる。
西野も気づいた。
さらに速度を上げる。
「うおおおお!」
「何で三千の途中でそんな走れんだよ!」
「短距離だから!」
「意味分かんねえ!」
残り百メートル。
湊が並ぶ。
西野が横を見る。
笑っている。
湊は笑っていなかった。
本気だった。
抜く。
絶対に抜く。
胸一つ前へ出る。
そのまま白線を越えた。
「っしゃ!」
声が出た。
「……」
湊は止まった。
制服。
緩んだネクタイ。
普通のスニーカー。
周囲では何人かの部員がこちらを見ていた。
西野が膝に手をついて笑っている。
「めっちゃ本気じゃん!」
「……うるさい」
「走るの嫌いなんだろ?」
「嫌いだよ」
「でも負けるの嫌い?」
湊は答えなかった。
城戸が歩いてくる。
手にはストップウォッチ。
「黒瀬」
「何ですか」
「明日、体操着持ってこいよ」
「何でですか」
「制服で走ると暑いだろ」
「走る前提にしないでください」
「見学だけでもいい」
「入るとは言ってませんよ」
「言ってないな」
城戸は笑った。
それ以上、何も言わなかった。
才能がある。
もったいない。
陸上をやった方がいい。
そんな言葉が来ると思っていた。
来なかった。
「じゃあな、四分二十六」
「部長までそれで呼ぶな!」
笑い声が上がった。
湊は城戸から鞄を奪い取る。
「帰ります」
「また明日ー!」
一ノ瀬が遠くから叫んだ。
「来ません!」
「体操着忘れんなよ!」
西野まで叫ぶ。
「だから来ねえって!」
*
夜。
風呂から出た湊は、机に向かっていた。
数学の宿題。
三問目で手が止まっている。
「……分かんね」
教科書をめくる。
スマホを見る。
また教科書を見る。
結局、スマホを手に取った。
動画を一本見る。
もう一本。
時計を見る。
「やば」
明日の時間割を確認する。
国語。
数学。
英語。
体育。
「あ」
体育がある。
クローゼットを開けた。
体操着を取り出す。
鞄へ入れる。
「……」
手が止まった。
今日のことを思い出した。
『明日、体操着持ってこいよ』
「いや」
明日は体育がある。
だから持っていく。
それだけだ。
陸上部は関係ない。
体操着を鞄の一番下へ押し込む。
ファスナーを閉めた。
ベッドへ入る。
電気を消す。
目を閉じた。
しばらくして。
西野の言葉が浮かんだ。
『でも負けるの嫌い?』
「……」
湊は寝返りを打った。
「うるせえな」
本人はもう、ここにはいない。
翌日の放課後。
その体操着を着てグラウンドに立つことになるのだが、この時点ではまだ、
黒瀬湊は陸上部に入るつもりなどなかった。




