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記憶の記録  作者: とも
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第1話 走るのは嫌い 

 高校に入学して、一週間が経った。


 黒瀬湊は、まだクラスメイトの半分も覚えていなかった。


 顔と名前が一致するのは、前後左右の席にいる人間と、出席番号が近い数人くらい。


 担任の名前は覚えた。


 教室から体育館までの最短経路も覚えた。


 購買の焼きそばパンは昼休み開始から五分ほどで消えることも知った。


 けれど、この学校で三年間をどう過ごすのかは、まだ決めていない。


 部活もそうだった。


「黒瀬、部活決めた?」


 四時間目が終わったあとの休み時間。


 前の席の男子が振り返って聞いてきた。


「決めてない」


「何か入る?」


「さあ」


「中学は?」


「バスケ」


「じゃあバスケ部?」


「いや」


「なんで?」


 湊は机の横に掛けていた体育着の袋を取った。


「別に」


「バスケ嫌いになった?」


「嫌いじゃない」


「じゃあ入ればいいじゃん」


「なんでそうなるんだよ」


 男子が笑った。


 湊も少しだけ笑った。


 嫌いじゃない。


 それは本当だった。


 むしろ好きだったと思う。


 中学では毎日のようにボールを触っていた。


 部活が終わってからも、公園へ行った。


 一人でドリブルをした。


 シュートを打った。


 誰かがいれば一対一をした。


 上手くなりたかった。


 試合に勝ちたかった。


 結果を残したかった。


 ――残せなかった。


「体育行こうぜ」


「おう」


 湊は立ち上がった。


 そこで考えるのをやめた。


 今さら中学のことを考えても仕方がない。


 高校は高校だ。


     *


「今日は千五百メートル測るぞー」


 体育教師の声に、男子たちから一斉に不満が上がった。


「えー!」


「先生、まだ四月ですよ!」


「関係ない」


「体力テストって五月じゃないんですか!」


「今日は記録取るだけだ。ほら並べ」


 湊も小さく息を吐いた。


「最悪」


 走るのは嫌いだった。


 短い距離ならまだいい。


 五十メートル。


 百メートル。


 その程度ならすぐ終わる。


 けれど長距離は違う。


 苦しい時間が長い。


 脚が重くなる。


 肺が痛くなる。


 喉が乾く。


 それでも走り続けなければならない。


 何が楽しいのか分からない。


「黒瀬、長距離速い?」


「知らん」


「中学何部だっけ」


「バスケ」


「じゃあ速そう」


「その理屈ならサッカー部も全員速いだろ」


 スタート地点に並ぶ。


 四月の昼。


 日差しは暖かいが、風はまだ冷たかった。


 グラウンドの砂がスニーカーの裏で小さく鳴る。


 校舎の窓から、別の授業を受けている生徒が何人かこちらを見ていた。


 どうせ千五百メートルだ。


 適当に走ればいい。


「位置について」


 教師がストップウォッチを構える。


「よーい――」


 笛が鳴った。


 一斉に走り出す。


 最初の百メートル。


 何人かが勢いよく前へ出た。


 湊はその後ろを走った。


 速く走る必要はない。


 体育だ。


 順位が成績に直結するわけでもない。


 誰かに勝ったところで何かがもらえるわけでもない。


 だから適当でいい。


 そう思っていた。


 一周目の途中までは。


「黒瀬、遅くね?」


 横から声がした。


 同じクラスの男子が、湊の前へ出る。


「先行くわ」


「……」


 背中が遠ざかる。


 湊は少しだけ速度を上げた。


 別に追うつもりはない。


 ただ、今のペースが遅すぎただけだ。


 百メートルほどで追いついた。


「あれ?」


 そのまま抜いた。


 後ろから「速っ」と聞こえた。


 少し気分がよかった。


 前を見る。


 まだ三人いる。


 一人。


 二人。


 三人。


 湊は眉を寄せた。


 別に。


 どうでもいい。


 体育だ。


 ただの千五百メートルだ。


 けれど。


 前に人がいる。


 それが妙に気になった。


 もう少しだけ。


 湊は速度を上げた。


 一人抜く。


 さらに一人。


 先頭の男子が振り返った。


 目が合う。


 向こうも速度を上げた。


「……は?」


 なぜか腹が立った。


 脚に力を入れる。


 呼吸が荒くなる。


 身体が熱い。


 さっきまで冷たかった風が、今は気持ちよかった。


 三周目。


 先頭との差が縮まる。


 十メートル。


 七メートル。


 五メートル。


 並ぶ。


「黒瀬、お前……」


 何か言われた。


 聞かなかった。


 そのまま前へ出る。


 残り一周。


 教師がタイムを読み上げた。


「三分十七!」


 数字を聞いた瞬間、湊の中で何かが変わった。


 あと四百。


 どれくらいで走れる。


 七十秒。


 いや。


 もっと。


 脚はまだ動く。


 腕を振る。


 地面を蹴る。


 苦しい。


 やっぱり長距離は嫌いだ。


 息ができない。


 喉が痛い。


 太腿も重い。


 なのに速度を落としたくなかった。


 最後の直線。


 誰かの声が聞こえた。


「速くない?」


「一年?」


「誰、あれ」


 グラウンド脇のフェンス。


 体育着ではない生徒が数人立っていた。


 胸元に同じ文字が見える。


 陸上競技部。


 湊は一瞬だけそちらを見る。


 すぐ前を向いた。


 ゴール。


「黒瀬!」


 教師がストップウォッチを見る。


 一拍。


「四分二十六!」


 湊はそのまま数歩進み、膝に手をついた。


「はっ……は……」


 苦しい。


 肺が痛い。


 吐きそうだ。


「だから……嫌なんだよ……」


 走るのは。


 後ろから他の生徒たちが次々とゴールする。


「黒瀬、お前何者?」


「速すぎだろ」


「バスケ部だろ?」


「……だった」


 湊は呼吸を整えながら答えた。


「だった?」


「中学」


「高校も入るんじゃないの?」


「まだ決めてない」


 教師が近づいてくる。


「黒瀬、中学で陸上やってたか?」


「やってないです」


「駅伝とかは?」


「ないです」


「四分二十六?」


「先生が測ったんでしょ」


「そうだけど」


 教師はもう一度ストップウォッチを見る。


 壊れているわけでもないのに。


 その向こう。


 フェンス際にいた生徒たちが何か話している。


 嫌な予感がした。


     *


 体育が終わった。


 湊は教室へ戻ろうとしていた。


「ねえ!」


 後ろから声がした。


 無視する。


「そこの一年!」


 自分ではない。


 たぶん。


「四分二十六の人!」


 絶対に自分だった。


 湊は足を止めた。


 振り返る。


 女子生徒が走ってくる。


 体育の授業中、フェンス際にいた一人だった。


「何ですか」


「君、陸上部じゃないよね?」


「違います」


「中学で長距離は?」


「やってません」


「駅伝は?」


「やってません」


「本当に?」


「何で嘘つくんですか」


 女子生徒の目が輝いた。


「陸上部入らない?」


「入りません」


「早っ」


「走るの嫌いなんで」


 女子生徒が固まった。


「……四分二十六なのに?」


「四分二十六だと走るの好きにならないといけないんですか」


「いや、そういうわけじゃないけど」


「じゃあ」


 湊は軽く頭を下げた。


「失礼します」


「あ、待って!」


 止まらなかった。


 廊下を歩きながら、湊は首筋の汗をタオルで拭いた。


 まだ身体が熱い。


 四分二十六。


 別に何とも思っていなかった。


 ただ。


 教室に戻って席に座ったあと、スマートフォンを机の下で開いた。


 検索窓に文字を打つ。


『高校生 1500m 4分26秒』


 検索。


 数秒眺める。


 スマホを閉じた。


「……ふーん」


 それだけだった。


     *


 放課後。


 湊は一人で昇降口へ向かっていた。


 部活動の勧誘期間ということもあり、校内は騒がしかった。


 吹奏楽部の楽器の音。


 廊下を走る運動部。


 新入生を捕まえようとする先輩。


 中庭では軽音楽部が演奏している。


 湊はどこにも寄るつもりはなかった。


 そのまま帰る。


 はずだった。


 体育館の前を通った。


 キュッ。


 靴が床を擦る音。


 ダン。


 ダン。


 ボールが跳ねる音。


 湊の足が止まった。


 開いた扉の向こう。


 バスケットボール部が練習していた。


 五対五。


 ボールが右へ回る。


 ガードがドライブする。


 ヘルプが寄る。


 コーナーへパス。


 シュート。


 リングに弾かれた。


 リバウンド。


 また攻撃が始まる。


 湊は黙って見ていた。


 懐かしいとは思わなかった。


 胸が締めつけられることもなかった。


 ボールを触りたい、と強烈に思うこともない。


 ただ。


「あそこ空いてる」


 口から出た。


 ガードが逆サイドを見ていない。


 自分ならパスを出す。


 そう思った。


「一年?」


 突然声をかけられた。


 体育館の入口にいた上級生だった。


「はい」


「入部希望?」


 湊はもう一度コートを見る。


 ボールがリングを通る。


 ネットが鳴った。


 中学三年間。


 何度聞いたか分からない音だった。


「……大丈夫です」


「そっか」


 湊は体育館を離れた。


 後ろからまたボールの音がする。


 振り返らなかった。


 昇降口へ向かう。


 外靴に履き替える。


 校舎を出た。


 その瞬間。


「四分二十六の人ー!」


 グラウンドから声が飛んできた。


 湊は立ち止まった。


 昼間の女子生徒が、遠くからこちらへ手を振っている。


「だから名前で呼べよ!」


 思わず叫び返す。


「名前知らない!」


「じゃあ聞けよ!」


「あ、確かに!」


「今気づくな!」


 女子生徒が笑った。


 その周りにいた陸上部員まで笑っている。


 湊は眉をひそめた。


「変な人たち……」


 そのまま校門へ向かった。


 後ろでは、また誰かが走り始めていた。


 一定の間隔で、地面を蹴る音がする。


 湊は振り返らなかった。


 走るのは嫌いだ。


 それだけは、昔から変わらない。

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