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記憶の記録  作者: とも
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15/19

第15話 名前を書く

 水曜日。


「黒瀬」


「何」


「大会のゼッケンって自分で書くの?」


 朝。


 西野大地が、妙に真剣な顔で聞いてきた。


「知らん」


「油性ペン?」


「知らん」


「字ミスったらどうする?」


「知らん」


「名字でかく書く?」


「知らん」


「黒瀬」


「何」


「お前、大会出るんだよな?」


「お前もだろ」


「何も知らないじゃん」


「お前もな」


 二人で黙る。


「……」


「……」


「今日聞こう」


「そうだな」


 ちょうどそこへ。


「おはよう」


 佐伯美咲が来た。


「おはよ」


「何その顔」


「大会について何も知らないことに気づいた」


 西野が言う。


「今?」


「今」


「来月でしょ?」


「そう」


「何するの?」


「走る」


 湊。


「それは知ってる」


「俺らもそれしか知らない」


「大丈夫なの?」


「先生がどうにかする」


「人任せ」


「高校一年生だから」


「便利だね、その言葉」


     *


 一時間目。


 英語。


「来週、単語テストやるぞ」


 教師。


 教室から小さな悲鳴。


「範囲は五十個」


「多!」


 西野。


「西野」


「はい」


「特にお前は声に出す前に覚えろ」


「はい……」


 湊は単語帳を開く。


 隣。


 西野も開く。


 三十秒。


「黒瀬」


「何」


「覚え方」


「書け」


「もっと楽なの」


「ない」


「語呂合わせ」


「自分で作れ」


「competition」


「大会」


「覚えた」


「それ前もやった」


「important」


「重要な」


「インポータント」


「そのまま」


「importantな大会」


「日本語混ぜるな」


「大会important」


「退化してるぞ」


「でも意味分かる」


「テストでは書けよ」


 西野がノートに書く。


 important。


 その下。


『大会』


「また大会かよ」


「覚えやすい」


「頭の中そればっかじゃん」


「最近は」


 湊は少しだけ笑った。


「本当に楽しみなんだな」


「うん」


 西野は迷わず答えた。


「初めてだし」


「緊張しない?」


「すると思う」


「なのに楽しみ?」


「するからじゃない?」


「分からん」


「黒瀬は?」


「朝七時集合が嫌」


「それまだ言ってる」


     *


 三時間目。


 体育。


 バスケットボール。


「黒瀬!」


「はい!」


 ボール。


 受ける。


 前。


 二人。


 味方が右。


 パス。


 戻る。


 また受ける。


 シュート。


 リング。


 入る。


「よし!」


 声が出た。


「黒瀬今日本気じゃん」


「普通」


「今ガッツポーズしたぞ」


「入ったから」


「陸上でもしてるじゃん」


「勝った時な」


「同じじゃね?」


「違う」


「何が」


「知らん」


 ゲーム再開。


 走る。


 止まる。


 切り返す。


 また走る。


 バスケの走るは。


 嫌ではなかった。


 不思議だった。


 走る。


 跳ぶ。


 息が上がる。


 脚も疲れる。


 やっていることだけ見れば、陸上と大して変わらない。


 でも。


「黒瀬!」


「そこ!」


 パス。


 声。


 相手。


 味方。


 ボール。


 判断。


 全部が動く。


 だから。


 たぶん。


 同じ「走る」でも。


 全然違う。


     *


 授業後。


「なあ黒瀬」


 クラスの男子が言った。


「何」


「マジでバスケ部入らないの?」


「入らない」


「もったいなくね?」


「またそれ」


「また?」


「よく言われる」


「だって上手いし」


「上手かったら入らないと駄目?」


「いや、駄目じゃないけど」


「じゃあいいじゃん」


「でも陸上やってるんだろ?」


「うん」


「走る方が好きなの?」


「嫌い」


「は?」


「走るの嫌い」


「意味分かんねえ」


「俺も」


 男子が笑う。


「変なやつ」


「よく言われる」


     *


 昼休み。


「バイトの面接決まった」


 佐伯が言った。


「映画館?」


 湊。


「うん」


「いつ」


「金曜」


「受かりそう?」


「知らない」


「志望動機」


「映画が好きだから」


「強い」


「普通でしょ」


「俺なら受かる」


「何で」


「映画好きだから」


「同じじゃん」


「年間本数なら勝つ」


「面接って勝負じゃないよ」


「黒瀬は何でも勝負にするから」


 西野。


「お前に言われたくない」


「俺は陸上だけ」


「昨日数学の点数で勝負しただろ」


「二点差だった」


「低い方でな」


「勝ちは勝ち」


「俺がいつも言ってるやつ使うな」


 佐伯が笑う。


「二人って本当に似てるね」


「似てない」


 二人同時。


「また」


「……」


 湊が西野を見る。


「やめろ」


「黒瀬が真似した」


「同時だろ」


「俺が先」


「〇・一秒くらい?」


「十二秒三」


「今その話する?」


「俺も十二秒三」


「まだ二出てないの?」


 佐伯。


「……」


 西野が静かになった。


「佐伯」


「何」


「それは言っちゃ駄目」


 湊が笑いをこらえる。


「黒瀬も笑うな!」


     *


 放課後。


 部室前。


 久米先生の手には。


 白い布。


 束。


「ゼッケン配るぞ」


「来た」


 西野。


「朝の疑問解決」


 湊。


「何の話だ」


「こっちの話です」


 部員が集まる。


「大会用のナンバー。なくすなよ」


 一人ずつ。


 番号。


 名前。


 確認。


「西野」


「はい!」


「一〇八七」


「おお」


「何がおおなんだ」


「大会っぽい」


「数字だけで?」


「はい」


「単純だな」


「黒瀬」


「はい」


 渡される。


 一〇九一。


「……」


 白い布。


 黒い数字。


 それだけ。


「これ付けるんですか」


「そう」


「自分で書かないんですね」


「何を書く気だったんだ」


「名字」


「駅伝じゃないんだから」


「西野が朝言ってたんで」


「黒瀬!」


「お前発信だろ」


 周りが笑う。


「縫うんですか?」


「ユニフォームに安全ピン」


 夏目。


「安全ピン?」


「四隅」


「走ってて刺さらない?」


「普通は刺さらない」


「普通って怖いな」


     *


「黒瀬」


 一ノ瀬澪奈が隣へ来る。


「番号何番?」


「一〇九一」


「私は一〇四三」


「覚えるんですか?」


「別に」


「じゃあ何で聞いたんですか」


「大会っぽいから」


「西野と同じこと言ってますよ」


「嫌だなあ」


「ひど」


 少し前。


 二年生の男子がゼッケンを受け取っていた。


「安藤」


「はい」


 細身。


 短髪。


 どこか真面目そうな顔。


 湊は見覚えがあった。


 毎日いる。


 長距離。


 何度か一緒に走っている。


 でも。


 まだほとんど話したことはない。


「一ノ瀬先輩」


「何」


「あの人」


「安藤?」


「はい」


「二年。安藤直人」


「種目は?」


「千五百と五千」


「千五百?」


「うん」


 湊が見る。


 安藤はゼッケンを丁寧に畳んでいた。


「速いですか」


 一ノ瀬は少し考える。


「普通」


「またそれ」


「でも本当に普通」


「何分?」


「四分二十五くらいだったかな」


「……」


 湊がもう一度見る。


「俺と近い」


「今は黒瀬の方が速いね」


「四分十九」


「嬉しそう」


「事実確認です」


「はいはい」


     *


 その日の練習。


 長距離。


 四百メートル六本。


 つなぎ二百ジョグ。


「嫌い」


 湊。


「始まる前から言うな」


 藤原。


「四百を六回走る意味あります?」


「速くなる」


「それで全部説明するのやめません?」


「便利だからな」


「一ノ瀬先輩みたい」


「何が?」


 遠くから一ノ瀬。


「地獄耳」


     *


 一本目。


 設定。


 七十秒。


 湊。


 藤原。


 安藤。


 一ノ瀬。


 数人。


 走る。


「七十一!」


 久米先生。


 二本目。


「七十!」


 三本目。


「六十九!」


「黒瀬」


 藤原が言う。


「上げるな」


「上げてません」


「上がってる」


「身体が」


「その言い訳お気に入りだな」


 安藤が横で笑った。


「黒瀬って、いつもこんな感じなの?」


 初めてまともに話した。


「こんな感じって何ですか」


「毎回先生に止められてる」


「誤解です」


「昨日も止められてなかった?」


「……」


「一昨日も」


「安藤先輩、結構見てますね」


「同じ長距離だからな」


「名前昨日まで知りませんでした」


「ひどいな」


「すみません」


 安藤は笑った。


「俺も最初、四分二十六って呼んでた」


「最悪だ」


     *


 四本目。


 少しきつい。


 五本目。


 さらに。


 六本目。


「最後だけフリー!」


 久米先生。


「来た」


 湊。


「絶対行くと思った」


 藤原。


 スタート。


 二百。


 藤原。


 湊。


 安藤。


 三百。


 藤原が上げる。


 湊も。


 安藤も。


「……っ!」


 残り百。


 湊は藤原を追う。


 その横。


 安藤。


「っ!」


 一瞬。


 並ぶ。


 湊が驚く。


 安藤。


 まだいる。


 最後。


 藤原。


 湊。


 安藤。


 ゴール。


「六十一、六十二、六十二!」


 久米先生。


「はあ……」


 湊は止まる。


「安藤先輩」


「何」


「速いじゃないですか」


「最後だけな」


「普通じゃない」


「一ノ瀬に聞いた?」


「はい」


「一ノ瀬の普通は信用するな」


「本人が言うんだ」


「自分にも普通って言うだろ」


「言います」


「だろ?」


 二人で息を整える。


「黒瀬」


「はい」


「四分十九出したんだって?」


「はい」


「速いな」


「……」


 その言い方。


 嫌味でもない。


 悔しそうでもない。


 普通に。


 褒められた。


「ありがとうございます」


「俺、高一の時四分三十七だった」


「今二十五?」


「二十四八」


「細かい」


「大事だぞ〇・二」


「西野に聞かせたい」


「短距離?」


「はい」


「一秒の重み全然違うからな」


「確かに」


「でも」


 安藤は少し笑う。


「黒瀬、すぐ抜きそう」


「……」


「俺のこと」


「抜きたいです」


 湊は即答した。


「正直だな」


「駄目ですか」


「いや」


 安藤は笑った。


「抜かれないようにする」


「じゃあ勝負ですね」


「そうなるな」


 軽い。


 本当に。


 ただの会話だった。


     *


 練習後。


「黒瀬」


 夏目。


「ゼッケン忘れないでね」


「鞄入れました」


「家で出してなくすタイプ?」


「そこまで馬鹿じゃないです」


「西野は?」


「なくしそう」


「おい!」


 少し離れた場所から西野。


「聞こえてるぞ!」


「じゃあなくすなよ」


「もう鞄入れた!」


「家で出すなよ」


「何でみんな俺に同じこと言うんだ!」


「信用」


 湊。


「お前まで!」


     *


 その日。


 珍しく。


 長距離組の何人かで駅まで帰った。


 藤原。


 一ノ瀬。


 安藤。


 湊。


 少し後ろに別の二年生。


「腹減った」


 安藤。


「コンビニ行く?」


 一ノ瀬。


「行く」


「黒瀬は?」


「行きます」


「即答」


「今日六本走ったんで」


「飯のために走ったみたいに言うな」


 藤原。


     *


 コンビニ。


「これうまいよ」


 安藤がパンを持つ。


「何ですか」


「メロンパン」


「普通」


「中にクリーム入ってる」


「甘そう」


「甘い」


「じゃあこれにします」


「決断早」


 一ノ瀬はヨーグルト。


 藤原はコーヒー。


「高校生がコーヒー」


 湊。


「何だよ」


「大人ぶってる」


「三年だぞ」


「高校生じゃないですか」


「黒瀬、先輩への敬意ないよな」


「あります」


「どこに」


「言葉遣い」


「ギリギリだぞ」


     *


 店の前。


 立って食べる。


「安藤先輩」


「何」


「千五百出るんですか」


「地区?」


「はい」


「出るよ」


「同じ組?」


「分からん」


「組分けまだだろ」


 藤原。


「じゃあ別々かも」


「たぶんね」


 安藤がパンを食べる。


「黒瀬は決勝狙う?」


「決勝あるんですか」


 三人が止まる。


「お前」


 一ノ瀬。


「そこから?」


「大会初めてなんで」


「予選あるよ」


「何人上がるんですか」


「組によるけど、着順とタイム」


「へえ」


「本当に何も知らないな」


「走れば何とかなるかなって」


 藤原が笑った。


「ある意味正しい」


「一位なら通りますよね」


「そりゃな」


「じゃあ一位取ればいい」


「簡単に言うな」


 安藤が笑う。


「そういうところ一年生だな」


「何がですか」


「怖さ知らない」


「大会?」


「うん」


「怖いんですか」


「俺は」


 安藤は少し考える。


「結構緊張する」


「毎回?」


「毎回」


「二年目でも?」


「二年目でも」


「慣れない?」


「慣れる部分もあるけど」


 パンの袋を畳む。


「スタート前だけは、あんまり」


「へえ」


「黒瀬は?」


「バスケの試合は緊張しました」


「陸上は?」


「まだ」


「大会出てないからな」


「はい」


 一ノ瀬が静かに聞いていた。


     *


「でも」


 安藤。


「緊張するの嫌なら、何で大会出るんですか」


 湊が聞く。


「え?」


「陸上好きだから?」


「まあ、それもあるけど」


「勝ちたい?」


「勝てたら」


「タイム?」


「更新したい」


「じゃあやっぱ結果」


「うーん」


 安藤は少し空を見る。


「それだけでもないかも」


「何ですか」


「分かんない」


「分かんないんですか」


「分かんないよ」


 笑う。


「ずっとやってても」


「……」


「黒瀬は全部理由分かってやってる?」


「いや」


「じゃあ同じ」


「確かに」


     *


 藤原が先に別れる。


「じゃあな」


「お疲れさまです」


 一ノ瀬も途中。


「また明日」


「はい」


 最後。


 安藤と湊。


 たまたま同じ方向。


「黒瀬」


「はい」


「バスケやってたんだって?」


「西野ですか」


「一ノ瀬」


「みんな情報回すなあ」


「別にいいだろ」


「まあ」


「バスケ好き?」


「好きです」


「今も?」


「たぶん」


「じゃあ何で陸上?」


「……」


「ごめん。答えにくい?」


「いや」


 湊は少し考える。


「何となくです」


「何となく」


「四分二十六出て」


「うん」


「誘われて」


「うん」


「西野いて」


「うん」


「気づいたら」


「入ってた?」


「そんな感じ」


 安藤は笑った。


「いいじゃん」


「いいんですか」


「理由なんて途中でできるかもしれないし」


「できなかったら?」


「それはそれで」


「適当ですね」


「部活なんてそんなもんじゃない?」


 その言葉は。


 意外だった。


「安藤先輩、もっと真面目な人かと思ってました」


「失礼だな」


「いや、いい意味で」


「どこが?」


「陸上命みたいな」


「一ノ瀬じゃないんだから」


「本人に言ったら怒られますよ」


「内緒な」


「百円」


「金取るの?」


「最近流行ってます」


「何がだよ」


     *


 駅。


「じゃ」


「お疲れさまです」


「明日な」


「はい」


 安藤が改札を通る。


 湊は反対側。


「……」


 安藤直人。


 二年。


 千五百。


 四分二十四秒八。


 数字だけなら。


 もう近い。


 あと五秒。


「……」


 追いつけそう。


 そう思った。


 でも。


 さっき一緒にパンを食べた人。


 少し前まで。


 名前すら知らなかった人。


 それも同じ。


     *


 夜。


 机。


 英単語。


 important。


 competition。


 記憶。


「……」


 その横。


 大会の紙。


 ゼッケン。


 一〇九一。


 机に置く。


 白い布。


 数字。


 自分の名前は書いていない。


 でも。


 この番号で走る。


「変なの」


 今まで。


 大会では。


 ユニフォームに学校名があった。


 バスケでは。


 背番号があった。


 何番だったか。


 もちろん覚えている。


 陸上では。


 また別の数字。


 一〇九一。


 まだ何の思い出もない番号。


「……」


 スマホ。


 西野。


『ゼッケンどこ置いた?』


『机』


『俺も』


『なくすなよ』


『黒瀬も』


『俺はなくさない』


『絶対?』


『絶対』


 数秒。


 西野。


『大会楽しみ』


「……」


 湊は画面を見る。


『そうだな』


 送る。


 送ってから。


 少し驚いた。


「……まあ」


 嫌ではない。


 走るのは嫌い。


 朝も早い。


 緊張するかもしれない。


 負けるかもしれない。


 それでも。


 四分十九秒。


 安藤の四分二十四秒八。


 一ノ瀬の四分四十七秒。


 藤原の四分十五秒。


 いろいろな数字が。


 少しずつ。


 ただの数字ではなくなってきていた。


 湊はゼッケンを畳む。


 鞄の一番奥へ入れた。


 そして。


 英単語帳を開く。


「competition……大会」


 今度は、


 少しだけ覚えやすかった。

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