第13話 四分一九秒
月曜日。
「黒瀬」
「何」
「土曜の映画さ」
朝。
西野大地が椅子を後ろ向きにして座っていた。
「うん」
「次いつ行く?」
「知らん」
「今週?」
「早い」
「来週?」
「大会近いんじゃないの」
「あ」
「忘れてた?」
「忘れてない」
「今の間は何」
「映画が楽しすぎて」
「お前、陸上好きなんじゃなかった?」
「映画も好き」
「欲張り」
「一ノ瀬先輩みたいなこと言うな」
「何で?」
「何でもない」
湊は教科書を机に出す。
「そういえば」
西野。
「今日タイム測るって」
「百?」
「俺は」
「俺は?」
「千五百」
湊の手が止まった。
「誰が言ってた?」
「昨日グループに先生が」
「見てない」
「見ろよ」
スマホ。
通知。
二十三件。
「多」
「昨日橘先輩が漫画の画像ずっと送ってた」
「だから通知切ってた」
遡る。
久米先生。
『月曜は大会前の現状確認。短距離100m、長距離1500mのタイム計測』
「……」
「黒瀬」
「何」
「顔」
「何」
「嫌そう」
「千五百は長い」
「大会も千五百だろ」
「知ってる」
「じゃあ予行演習」
「本番一回でよくない?」
「練習の意味なくなるだろ」
「走る回数減る」
「発想が陸上部じゃない」
「ずっとそう言ってる」
*
二時間目。
数学。
「黒瀬」
「無理」
「まだ何も聞いてない」
「どうせ問題だろ」
「ここ」
「昨日やった範囲」
「昨日?」
「授業」
「覚えてない」
「終わってるな」
「黒瀬」
「何」
「四分二十切れそう?」
湊は横を見る。
「授業中に何の話してんの?」
「今日」
「知らん」
「狙わないの?」
「走ってみないと」
「でも四分二十六だろ?」
「うん」
「最近練習してるし」
「まあ」
「縮まるじゃん」
「たぶん」
「じゃあ十九」
「何で一秒刻み」
「十九ってかっこよくない?」
「意味分からん」
「四分十九」
「数字にかっこよさ求めるな」
「十二秒二もかっこいい」
「まだ出してないだろ」
「今日出す」
「先生」
「黒瀬!」
前から教師の声。
「はい」
「西野と話すのそんなに楽しいか?」
「いいえ」
「即答すんなよ!」
教室が笑った。
*
昼休み。
「大会ってさ」
佐伯美咲が言った。
「制服で行くの?」
「知らない」
湊。
「本当に何も知らないね」
「初めてだから」
「何時?」
「朝七時集合」
「早」
「だろ?」
「そこだけすごい嫌そう」
「そこが一番嫌」
「走る方じゃなくて?」
「走るのも嫌」
「じゃあ何がいいの?」
「……」
湊は止まる。
「何が?」
「陸上部」
「西野に勝つ」
「それだけ?」
「今のところ」
「ひど」
「でも本人喜んでるぞ」
「何が?」
西野が弁当から顔を上げる。
「黒瀬が陸上部いる理由」
「俺?」
「お前に勝つためだって」
「俺、重要人物じゃん」
「嬉しそう」
佐伯。
「親友だからな」
西野。
「違う」
湊。
「またそれ」
「本当に違う」
「じゃあ友達?」
「……まあ」
西野が止まった。
「え」
「何」
「今認めた?」
「何を」
「友達」
「うるさいな」
「佐伯聞いた?」
「聞いた」
「証人」
「今のなし」
「無理」
「黒瀬くん照れてる」
「照れてない」
「顔赤い?」
「暑いだけ」
「教室涼しいけど」
「パン食ってるから」
「パンって体温上がるの?」
「知らん!」
二人が笑う。
*
放課後。
グラウンド。
いつもより少し空気が違った。
短距離。
長距離。
それぞれがタイム計測。
ただの練習。
正式記録でもない。
なのに。
みんな少し静かだった。
「緊張してる?」
一ノ瀬澪奈が聞く。
「別に」
湊は靴紐を結ぶ。
「本当?」
「大会じゃないし」
「タイム測るよ」
「いつも測ってるじゃないですか」
「千五百ちゃんと一本は初めてでしょ」
「体育以来ですね」
「四分二十六」
「もうその名前やめてください」
一ノ瀬が笑う。
「今日更新したら呼ばなくて済む」
「じゃあ更新します」
「簡単に言うなあ」
「先輩は?」
「何が?」
「今日走らないんですか」
「走るよ」
「何秒狙い?」
「……四分四十五」
「ベスト二秒更新?」
「うん」
「じゃあ俺は」
「四分二十?」
湊は少し考える。
「十九」
一ノ瀬が見る。
「何で十九?」
「西野がかっこいいって」
「何それ」
「俺も分かりません」
*
長距離。
男子と女子で組を分ける。
湊は男子。
藤原。
二年生二人。
一年生一人。
五人。
「黒瀬」
藤原が横に来る。
「はい」
「最初突っ込みすぎるなよ」
「分かってます」
「体育のノリで走るな」
「何でみんな俺を信用しないんですか」
「顔」
「また?」
「最初の一周で前出そうな顔してる」
「どんな顔ですか」
「負けたくない顔」
「普通の顔です」
「じゃあその普通を抑えろ」
久米先生が説明する。
「最初の四百、六十八から七十くらい。黒瀬は特に突っ込むな」
「はい」
「聞いてるか」
「聞いてます」
「返事だけはいい」
「信用ないなあ」
笑いが起きる。
スタート地点。
湊は前を見る。
千五百。
体育以来。
あの時。
何も知らなかった。
ただ。
前の人間を抜いた。
それだけ。
今は。
一周何秒。
呼吸。
腕振り。
ペース。
少しくらいは知っている。
「位置について」
静かになる。
湊は一度息を吐く。
音。
スタート。
*
最初の百。
藤原が前。
湊は二番目。
行ける。
もっと。
そう思う。
でも。
我慢。
「黒瀬、抑えろ!」
久米先生。
「分かってます!」
「喋るな!」
一周。
「六十八!」
声。
予定通り。
「……」
遅い。
そう感じる。
でも。
二周目。
少しずつ呼吸が変わる。
藤原の背中。
一定。
湊は追う。
八百。
「二分十七!」
まだ。
余裕。
脚も動く。
「黒瀬」
藤原が前から言う。
「まだ行くな」
「はい」
言われなくても。
分かる。
たぶん。
千。
残り五百。
身体が少し重くなる。
体育の時とは違う。
あの時は。
ただ苦しくなって。
ただ走った。
今は。
残りが分かる。
あと一周と少し。
時計が分かる。
だから。
余計に長い。
「……きつ」
口から漏れる。
残り四百。
「ここから!」
久米先生。
藤原が上がる。
湊も。
「っ……」
ついていく。
差。
二メートル。
三メートル。
「黒瀬!」
誰かの声。
西野。
「行け!」
うるさい。
でも。
少しだけ脚が動く。
三百。
藤原。
前。
湊。
追う。
二百。
苦しい。
胸。
喉。
脚。
全部。
「……っ!」
藤原との距離。
二メートル。
一メートル。
並ぶ。
「お」
藤原が横を見る。
また。
上げた。
「っ!」
湊も。
残り百。
何も考えられない。
ただ。
負けたくない。
それだけ。
ゴール。
*
「っ……は……っ」
湊はそのままトラックの外へ出た。
膝に手。
息。
戻らない。
「死ぬ……」
「生きてる!」
西野の声。
「うるさ……」
「タイム聞けよ!」
「今無理……」
「黒瀬!」
久米先生。
湊が顔を上げる。
「四分十九秒八」
「……」
一瞬。
呼吸が止まった。
「え」
「四分十九秒八」
「十九?」
「十九」
湊は時計を見る。
「……」
本当に。
「っしゃ……」
小さく。
拳を握った。
「十九!」
西野が走ってくる。
「俺言ったじゃん!」
「お前関係ないだろ」
「かっこいいだろ?」
「……まあ」
「認めた!」
「タイムだけな」
湊はまだ息を切らしている。
でも。
笑っていた。
四分二十六。
から。
四分十九。
七秒。
「七秒縮んだ」
「すげえじゃん」
「七秒」
「何回言うの」
「お前十二秒四から二出してから言え」
「今日出す!」
西野が走っていった。
「元気だな……」
*
「黒瀬」
藤原。
「はい」
「最後危なかった」
「でも負けました」
「〇・五くらい」
「次勝ちます」
「怖」
「先輩も速くなればいいじゃないですか」
「簡単に言うな」
「俺七秒縮みました」
「入ったばっかりだからだよ」
「……」
藤原は笑う。
「今は伸びる時期」
「じゃあもっといける?」
「たぶんな」
「四分十五」
「すぐ来そうだな」
「先輩のベストでしたよね」
「そう」
「じゃあ」
湊は笑う。
「抜きます」
「宣戦布告?」
「はい」
「やだなあ」
藤原も笑った。
*
女子の千五百。
一ノ瀬。
スタート。
湊は水を飲みながら見ていた。
「先輩何秒狙いだっけ」
西野。
「四十五」
「ベスト?」
「四十七」
「じゃあ更新か」
「うん」
一周。
一ノ瀬は先頭ではない。
二番目。
三番目。
位置が変わる。
湊は見ている。
二周目。
少し。
前との差が開く。
「……」
三周目。
さらに。
残り四百。
一ノ瀬が上げる。
でも。
前も上がる。
「一ノ瀬先輩!」
西野が声を出す。
湊も。
「先輩!」
一ノ瀬の顔が一瞬こちらを向く。
また前。
残り百。
ゴール。
*
「四分五十一!」
久米先生。
「……」
一ノ瀬は歩く。
息を整える。
誰かが水を渡す。
「お疲れさまです」
湊。
「うん」
「四分五十一」
「聞こえた」
「……」
「何」
「いや」
一ノ瀬は笑った。
「遅かった」
「今日は」
「うん」
「次ありますよ」
「黒瀬に言われると腹立つ」
「何でですか」
「今日七秒縮めた人だから」
「あ」
「十九秒だっけ?」
「はい」
「よかったね」
「ありがとうございます」
「すごいじゃん」
普通の声。
普通の笑顔。
でも。
少しだけ。
いつもと違う。
湊は気づいた。
「先輩」
「何」
「悔しい?」
一ノ瀬は水を飲む。
「悔しいよ」
「……」
「当たり前じゃん」
それだけ。
笑わなかった。
*
短距離。
「十二秒三!」
久米先生。
「くそおお!」
西野。
湊が笑う。
「変わってないじゃん!」
「うるさい!」
「十二秒二は?」
「次!」
「いつ?」
「明日!」
「毎日言ってんな」
「黒瀬だって四分十九出しただろ!」
「出した」
「嬉しそうに言うな!」
「四分十九」
「もう分かった!」
*
練習後。
部室。
「大会の種目、ほぼ決まったぞ」
城戸が紙を貼る。
人が集まる。
「見えない」
「押すな」
「橘、前行きすぎ」
「背低いから」
「俺も見たい!」
湊は後ろから覗く。
男子。
百。
西野大地。
二百。
西野大地。
「二つ出るんだ」
「見て見て」
「分かってる」
千五百。
黒瀬湊。
「……本当に俺だ」
「今さら?」
西野。
五千。
藤原。
女子。
千五百。
一ノ瀬澪奈。
八百。
一ノ瀬澪奈。
「先輩二つ?」
「そう」
一ノ瀬は少し離れたところにいた。
「大変そう」
「慣れてる」
「八百も好きなんですか」
「千五百より嫌い」
「嫌いなのあるんだ」
「あるよ」
「全部好きだと思ってた」
一ノ瀬が笑った。
「陸上好きでも全部好きなわけじゃないよ」
「へえ」
「黒瀬だってバスケ好きでも全部好きじゃなかったでしょ」
「……まあ」
練習。
走り込み。
筋トレ。
試合で負けること。
選ばれないこと。
好きなものの中にも。
嫌なものはいくらでもあった。
「確かに」
「でしょ」
「でも走るの嫌いなのに陸上やってる俺とは違います」
「それはそう」
「そこ否定してくださいよ」
「事実じゃん」
*
帰り。
今日は西野が別の一年生と靴を見に行くらしい。
「黒瀬も来る?」
「帰る」
「スパイク買わないの?」
「まだいい」
「大会あるぞ」
「……」
湊は自分の靴を見る。
古い。
かなり。
夏目にも言われた。
「先生に聞く」
「長距離用買うんじゃね?」
「一万円」
「まだ言ってる」
「高い」
「映画何回分?」
「比べるな」
「三、四回?」
「余計買いたくなくなった」
「でも大会出るんだろ」
「……」
「必要じゃん」
「……」
湊は顔をしかめる。
「陸上、金かかるな」
「バスケも靴高いだろ」
「バッシュなら払える」
「何で」
「好きだから」
言ってから。
湊は少し止まった。
西野も。
「……」
「何」
「いや」
「何だよ」
「黒瀬」
「うん」
「陸上の靴に一万は嫌なんだ」
「嫌」
「バッシュなら?」
「普通」
「へえ」
「何」
「好きってそういうことなのかなって」
「……」
「金払えるか」
「そんな基準?」
「分かんない」
西野が笑う。
「じゃあな」
「おう」
*
湊は一人で駅へ向かう。
途中。
スポーツ用品店。
店の前。
止まる。
「……」
ランニングシューズ。
スパイク。
ポスター。
知らない選手。
知らない商品名。
値札。
「高」
通り過ぎる。
三歩。
止まる。
「……」
戻る。
店に入った。
*
「陸上用ですか?」
店員。
「はい」
「種目は?」
「千五百」
「中距離ですね」
「……たぶん」
「たぶん?」
「始めたばっかで」
「大会用?」
「来月あります」
「スパイクは初めてですか?」
「はい」
いくつか出される。
軽い。
「これ靴?」
思わず言った。
「軽いですよね」
「壊れないんですか」
「普通に使えば」
履く。
「……」
違和感。
普通の靴ではない。
足の前の方。
硬い。
「走ってみます?」
「ここで?」
「試し履きスペースあります」
「……」
少し走る。
「変」
「最初はそう感じます」
「でも」
もう一度。
「速そう」
店員が笑った。
「実際、トラックなら違いますよ」
「へえ」
値札。
一万二千円。
「……」
「どうします?」
「……今日は」
買わない。
そう言おうとした。
四分十九秒。
頭に浮かんだ。
大会。
一ノ瀬。
藤原。
数字。
「これください」
自分で言ってから。
「……」
少し後悔した。
「ありがとうございます」
「一万二千……」
「学生さんなら結構しますよね」
「映画六回くらい見れます」
「映画好きなんですか」
「はい」
「じゃあ大きいですね」
「めちゃくちゃ」
*
夜。
部屋。
箱。
新しいスパイク。
湊はベッドの上から眺める。
「……」
一万二千円。
何度見ても。
高い。
スマホが震える。
西野。
『買った』
写真。
短距離用スパイク。
『俺も』
送る。
すぐ。
『え????』
『何』
『買わないって言ってたじゃん』
『店の前通った』
『入ったの?』
『うん』
『陸上好きじゃん』
『違う』
『一万払ったのに?』
『一万二千』
『もっと好きじゃん』
『違う』
『笑』
「……」
湊はスマホを伏せる。
もう一度。
スパイクを見る。
走るのは嫌い。
それは変わらない。
ただ。
四分十九秒。
あの数字を見た時。
嬉しかった。
次。
四分十八。
十七。
十五。
どこまで行くのか。
少し。
見てみたくなった。
「……」
箱から片方を出す。
手に持つ。
軽い。
「一万二千円……」
やっぱりそこだけは、
全然納得できなかった。




