第85話 好かれる世界
獣人たちの住宅区画は、テーマパークのすぐ隣にあった。
バスを降りると、区画を囲むように作られた観覧エリアに、観光客たちがずらりと並んでいた。ちえが抽選で選んだ三万人で、ヘルパンギーナが一人ずつ見て、よこしまな考えを持つ者は最初から弾いてある。入れるのは決められた場所までで、そこから見たり手を振ったりすることしかできない。例外は、ちえが招待した視察の政治家たちくらいだった。
観光客の中には、猫耳のカチューシャをつけて泣いている人や、両手を合わせて拝んでいる人までいた。
獣人たちはどうしていいか分からずに、バスの前で固まっていた。犬の獣人の若者が、ケントのところへ来て小声で聞いた。
「あの、ヴォルガン様。あの人たち、私たちを見て泣いてるんですけど……」
「嬉しくて泣いてんだよ。慣れろ」
ケントはそれだけ言って、さっさと歩き出した。
◇
荷物を部屋に置くと、獣人たちは広場の練習場に集められた。
配られたのは、ちえが用意した魔法の手引き書だった。獣人には字が読めない者も多いので、絵がたくさん入っている。手のひらに力を集めて、外へ押し出す。それだけのことが、何枚もの絵で丁寧に描かれていた。
獣人たちは、恐る恐る手をかざした。だが、何も出なかった。何度やっても、手のひらには風一つ起きなかった。
年寄りの獣人たちが、諦めたように手を下ろした。
「やっぱり、私たちには無理なんだよ」
「昔から、獣人は魔法が使えないって言われてきたんだ。今さら……」
ケントは頭をかいて、前に出た。
「力むな。お前らは魔力が無いんじゃなくて、体の中に溜め込んじまうだけだ。外に押し出すつもりでやってみろ」
獣人たちは顔を見合わせて、もう一度手をかざした。
最初に成功したのは、ミーナだった。
指先に、ぽっと小さな火が灯った。ろうそくの火くらいの、本当に小さな火だった。それでも、ミーナ自身が一番びっくりして、ケントの方を振り返った。
「ご、ご主人様! 出ました! 出ましたニャ!」
「おう。やればできるじゃねえか」
それを見て、周りの獣人たちの顔色が変わった。あちこちで、小さな火や風が起き始めた。手のひらから水がちょろちょろと流れ出して、慌てる者もいた。
「で、本番はこっちだ」
ケントが呼ぶと、ザラとレナが前に出てきた。
「溜め込むのが得意ってことはね、体ん中で回すのは得意ってことなんだよ」
ザラが、腕を組んで言った。
「外に出さないで、体の中で巡らせるんです。力が全身に行き渡るのを、感じてみてくださいねぇ」
レナが、にこにこしながら付け足した。
二人が教えたのは、身体強化だった。溜め込んだ魔力を外に出さずに、体の中で巡らせる。ザラとレナが一番得意な戦い方だった。
試した途端、犬の獣人の若者が、軽く跳んだつもりで三階建ての建物の屋根まで飛び上がってしまった。
「うわあああっ!」
若者は、屋根の上で腰を抜かしてへたり込んだ。
別の男は、練習用の丸太を持ち上げようとして、そのまま握り潰してしまった。年寄りの女性が試しに走ってみると、広場の端から端まで一瞬で着いてしまって、自分で尻もちをついた。
広場が、しんと静まり返った。
獣人たちは、自分の手を見つめて震えていた。誰かが、小さく呟いた。
「こんな力……人間に知られたら、また狩られる」
その言葉に、何人もが青い顔で頷いた。向こうの世界で、獣人の力は、恐れられるか、使い潰されるかのどちらかだった。身体強化ができる獣人は「獣神」と呼ばれて、戦場に駆り出されるか、見世物にされるかしかなかったのだ。
ケントは、呆れたように頭をかいた。
「何ビビってんだ。お前らの力が役に立つ場所は、こっちにはいくらでもある」
ケントは、観覧エリアの方を親指でさした。
「……つうか、引っ張りだこだぞ? 消防も、救助も、工事現場も、スポーツも。お前らが来るって決まってから、ちえのとこに問い合わせが何万件来てると思ってんだ」
獣人たちは、観覧エリアの方を振り返った。
屋根まで跳んだ若者を見て、観光客たちは怖がるどころか、拍手して歓声を上げていた。「すごーい!」「もう一回跳んでー!」という声まで聞こえてくる。
獣人たちは、バスを降りた時のことを思い出した。泣きながら手を振っていた人たち。拝んでいた人たち。あれは、本当に自分たちを歓迎していたのだ。
ここでは、本当に自分たちが好かれている。獣人たちは、ようやくそれを実感した。
年寄りの夫婦が、抱き合って泣き出した。
「何百年も、使えないって言われてきたのに……」
「こんな日が、来るなんてねえ……」
◇
そんな大人たちの横で、ナルとネルの親子が、覚えたての水の魔法で遊んでいた。
ネルは、手のひらから水が出るのが楽しくて仕方がないようだった。くるくると回りながら、水を出しては笑っている。
「ネル、あんまりはしゃがないの」
ナルがそう言った時には、もう遅かった。調子に乗ったネルが勢いよく出した水が、観覧エリアの柵を越えて、最前列の観光客たちを頭からずぶ濡れにしてしまった。
ナルは真っ青になって、ネルを抱きしめた。そのまま、その場に膝をついた。
向こうの世界なら、人間に水をかけた獣人の奴隷がどうなるか、考えるまでもなかった。ナルは、ネルを守るように体を丸めて、目をぎゅっとつぶった。
ところが、聞こえてきたのは怒鳴り声ではなかった。
「獣人の子の魔法、浴びちゃった!」
「ありがとー!」
ずぶ濡れの観光客たちは、笑っていた。髪から水を滴らせながら、二人に向かって手を振っていた。
ナルは、しばらくぽかんとその光景を見ていた。
それから、ネルの手を取って、おずおずと手を振り返した。
観覧エリアから、さらに大きな歓声が上がった。ネルが嬉しそうに両手をぶんぶん振ると、歓声はもっと大きくなった。
ケントは少し離れたところで、それを黙って見ていた。
隣に立っていたミーナが、ケントの袖をきゅっと握った。
「ご主人様。ナルさん、笑ってます」
「ああ」
ケントは、それ以上は何も言わなかった。ミーナは、ケントの袖を握ったまま、尻尾をゆっくりと揺らしていた。




