第84話 ただいま
安全の説明が終わって、ヘルパンギーナが空の画面を消した。
移住者たちが、係の者に案内されて少しずつ動き始めた頃、境内の方から、人波をかき分けて誰かが駆けてきた。
ちえだった。
スーツ姿のまま、髪を振り乱して走ってくる。途中で何人もの獣人やドワーフにぶつかりそうになりながら、それでも足を止めずに、まっすぐケントのところへ向かってきた。
「ちえ。ただい……」
ケントが言い終わる前に、ちえはケントの胸に飛び込んできた。
勢いがつきすぎていて、ケントは一歩後ろによろけた。ちえはケントのシャツをぎゅっと握りしめて、そのまま声を上げて泣き出した。
「遅いですよ……! どれだけ待ったと思ってるんですか……!」
白龍を通して、話はしていた。画面越しに顔も見ていた。それでも、ケントたちがどこにいるのか、本当に無事なのか、触れて確かめることはできなかった。その間、ちえは一人で真龍神子国を回してきたのだ。
ケントは何も言わずに、ちえの背中をぽんぽんと叩いた。
しばらくの間、ちえはケントの胸で泣き続けた。周りの移住者たちも、気を遣ってそっと離れていく。セリーナとザラとレナは、少し後ろで、黙って二人を見守っていた。
やがて、ちえの泣き声が小さくなった。
ケントがほっとして、ちえの頭を撫でようとした時だった。
ちえはケントの胸に顔を埋めたまま、低い声で言った。
「……で」
「ん?」
「そこの猫ちゃんと、エルフさんと、ドワーフさんの件。今夜、じっくり聞かせてもらいますからね」
ケントの背中を、冷たい汗が流れた。
後ろで、セリーナとザラが顔を見合わせて笑った。レナは「ちえさん、怖いですねぇ」と、なぜか嬉しそうに言っていた。
◇
その頃、ナミはまっすぐミーナのところへ走っていた。
ミーナの前で立ち止まると、ナミは目をきらきらと輝かせて、ミーナの頭の上を見上げた。
「ほんものの、ねこみみ……!」
ミーナは、急に知らない子供に見上げられて、少し戸惑った顔をした。ナミは、両手をもじもじさせながら聞いた。
「さわっていい?」
ミーナはケントの方をちらりと見た。ケントがちえに捕まったまま、小さく頷いた。
ミーナはしゃがんで、ナミの前に頭を差し出した。
ナミがそっと耳に触れると、ミーナはくすぐったそうに目を細めた。黒い尻尾が、ふわっと揺れた。
「やわらかい……あったかい……」
ナミがうっとりと呟いた、その瞬間だった。
山の斜面から、雷が鳴ったような音が響いた。斜面を埋め尽くした報道陣のカメラが、一斉にシャッターを切ったのだ。何百台ものカメラが、ナミとミーナに向けられていた。
その写真は、翌朝、世界中の新聞の一面を飾ることになる。
◇
ヘルパンギーナは、空を見上げて目を細めていた。
広場の上空では、白龍がまだヘリコプターに怯えて、ぐるぐると旋回していた。
「……ずいぶん大きくなったのう、我の分体」
ヘルパンギーナがそう呟くと、白龍はその声に気づいて、慌てて地面に降りてきた。地響きを立てて着地すると、白龍はヘルパンギーナの前で、巨体を折り曲げるようにして平伏した。
「は、母上! 皆様の僕である、下賤なトカゲでございます!」
ヘルパンギーナは、首を傾げた。
「……何があったのじゃ、お主」
送り出した時は、手のひらに乗るくらいの、生意気な幼竜だったはずだ。それが十メートルの巨体になって戻ってきたかと思えば、自分のことを下賤なトカゲと呼んでいる。
白龍は、ちらりと後ろを振り返った。
そこには、制服姿のままのレナが立っていた。レナは白龍と目が合うと、にこにこしながら小さく手を振った。
白龍は、ぶるっと全身を震わせた。それきり、何も言わなかった。
ヘルパンギーナは、白龍とレナを交互に見て、それ以上は聞かないことにした。
◇
移住者たちの列の中には、皇帝とルーメルの姿もあった。
皇帝が門の前の参道に降り立った途端、山の斜面から声が上がった。
「ショタ皇帝だ!」
「本物だ! 本物のショタ皇帝だ!」
次の瞬間、フラッシュの嵐が皇帝を襲った。皇帝は何が起きたのか分からずに固まって、慌ててルーメルの後ろに隠れた。
「ル、ルーメル。朕……いや、私は、何かしたのか?」
ルーメルは呆れたように溜め息をついて、皇帝の頭をぽんと叩いた。
「あんた、こっちじゃ有名人らしいわよ」
「なぜだ……?」
映画のことは、本人にはまだ誰も教えていなかった。ルーメルは知っていたが、教えるつもりはなかった。顔を真っ赤にして自分の背中にしがみついている皇帝を見ているのが、少しだけ楽しかったからだ。
◇
神社の麓から延びる道路は、特区へ向かうバスで埋め尽くされていた。十八万人を運ぶために、ちえが日本中から何千台ものバスをかき集めていたのだ。
ケントたちも、獣人たちと同じバスに乗り込んだ。
バスが走り出すと、道路沿いには、ずらりと人が並んでいた。旗を振る人、横断幕を掲げる人、猫耳のカチューシャをつけた人。みんな、バスに向かって手を振っていた。
窓際に座ったミーナが、窓の外をじっと見つめていた。それから、隣に座ったケントの袖を、そっと引いた。
「ご主人様。みんな、私たちに手を振ってます」
「ああ。言ったろ。お前らを見たら、地球の連中の方が腰抜かすって」
ミーナは少しの間、窓の外を見つめていた。
それから、おずおずと手を上げて、窓の外に手を振り返した。
その途端、沿道から悲鳴みたいな歓声が上がった。
ミーナはびっくりして手を引っ込めかけたが、もう一度、今度は少しだけ大きく手を振った。歓声は、さらに大きくなった。
ミーナの尻尾が、座席の上でぱたぱたと揺れていた。




