第7話:野心家主任の誤算と、就業時間後の秘密
百田ちえは、入社以来ずっと最速での出世街道を走ってきた自負がある。
現在二十八歳。社内で最年少の主任に抜擢された彼女は、近く立ち上がる新商品のプロジェクト部署において、係長を飛び越えて『最年少かつ初の女性課長』になるという明確なキャリアビジョンを描いていた。
そんなちえにとって、直属の上司である松本賢人係長は、完全な『反面教師』であり、自分が踏み台にするべき無能な壁だった。
「……いや、僕にそう言われてもねえ……。上がそう言うなら仕方ないんじゃないかな」
それが、つい先日までの松本係長の口癖だった。
事勿れ主義で、責任から逃げるようにヘコヘコと愛想笑いを浮かべるだけの四十三歳の冴えない中年。ちえは自分の評価を下げないために表向きは丁寧に彼をフォローしていたが、内心では常にこう毒づいていた。
(この無能上司が……! 私が上司になったら、真っ先に窓際に追いやるんだから覚えてなさいよ!)
――しかし。
そんなちえの完璧なビジョンは、あの日を境に音を立てて崩れ去った。
新商品プロジェクトの重要なプレゼン会議。
いつものように愛想笑いでごまかすのだろうと舐めてかかっていた役員やクライアントの前で、松本係長は突如として『覚醒』した。
猫背だった姿勢は真っ直ぐに伸び、どこか虚ろだった瞳には、百戦錬磨の将将軍のような鋭い光が宿っていた。彼は手元の資料すら見ず、完璧なデータに裏打ちされたロジックと、圧倒的な説得力で会議の空気を完全に支配したのだ。
上層部からの的外れな指摘や意地悪な質問に対しても、涼しい顔で理詰めに論破し、気づけばクライアントに首を縦に振らせていた。
(嘘、でしょ……?)
隣で補佐をしていたちえは、全身に鳥肌が立つのを感じた。
それは、自分の指定席だったはずの『次期課長』の座を脅かす、最強のライバルが出現したことへの焦り。
だが、それだけではない。
どんな難題にも動じず、理路整然と事態を切り拓いていくその広くて大きな背中に、異世界のような苛烈な修羅場をくぐり抜けてきた大人の男の『余裕』と『色気』を感じてしまい、心臓がトクンと嫌な音を立てたのだ。
(だ、ダメよ私……! 相手はあの冴えない松本係長よ!? ギャップにほだされるなんて、馬鹿みたいじゃない!)
ちえは、芽生えかけた戸惑いと熱を無理やり振り払うように、仕事に没頭した。
次期課長の座を勝ち取るため、自分ひとりの力で新企画を成功させてみせる。そう意気込んで、睡眠時間を削って根回しを進めていた。
だが、トラブルは最悪のタイミングで訪れた。
「百田主任! 下請けのA社から連絡が……手配していた部品の納期が、全く間に合わないと!」
「……えっ?」
部下からの報告に、ちえの頭から血の気が引いた。
ただの遅延ではない。連携ミスにより、新商品のリリースそのものが根底から破綻するレベルの大失態だった。
(どうしよう……これじゃ、企画は白紙。私の評価も地に落ちる……!)
冷や汗が止まらない。胃が締め付けられるように痛む。今までの無能な松本係長なら「困ったねえ」と逃げるだけだ。私が責任を被って、一人でなんとかするしかない。
「――状況はわかった」
絶望しかけたちえの背後から、低く落ち着いた声が響いた。
振り返ると、松本係長がすでにちえのパソコン画面のメールと、スケジュールの資料に目を通していた。
「係長……」
「A社のラインが止まったなら、代替のB社とC社に今すぐ連絡を入れろ。俺の権限で予算枠を15%引き上げる。足りない部品は分割して発注し、納期を最優先させろ」
「で、でも、そんな急な予算変更、部長の承認が降りないと……!」
パニックになるちえに対し、松本は全く動じることなく、フッと大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべた。
「そうか。じゃあこうしよう」
松本は、ちえの肩にポンと軽く手を置いた。
「何かあったら、全部『俺に言われた』と言え。責任は俺が持つ。お前は自分の企画を信じて走れ」
ドクンッ、と。
ちえの心臓が、今までで一番大きな音を立てて跳ねた。
部下を、企画を、すべてを守り抜くという圧倒的な絶対者のオーラ。それはかつて軍や国を統べた魔王の器そのものだったが、ちえにはただただ『最高にカッコいい頼れる上司』にしか見えなかった。
(あ……ああ……っ!)
悔しい。悔しいのに、顔がカッと熱くなるのを止められない。
野心家のバリキャリ主任が、完全に『陥落』した瞬間だった。
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数日後。松本の完璧なフォローと采配により、トラブルは無事に解決。新企画は無事にローンチを迎えた。
夕暮れの会社の屋上。
ちえは、缶コーヒーを飲んで一息ついている松本係長を呼び出した。
「……係長。あの時、どうして私を助けたんですか?」
「ん? どうしてって?」
「あのトラブルを見過ごしていれば……私が失脚して、係長がすんなりと新部署の課長になれたじゃないですか! 助けなきゃ、係長が課長だったんですよ!?」
思わず声を荒げるちえに対し、松本はきょとんとした後、困ったように笑って頭を掻いた。
「なんだ、そんな事か。今は、お前は俺の可愛い部下だ。部下が困ってたら、身を挺して助けるのが上司の役目だろ?」
「――っ」
「まあ、お前の方が優秀だからな。先に出世したら、今度は俺に何かあった時に助けてくれよ(笑)」
その言葉の通り、本日の人事発表で、ちえは見事に新部署の『最年少女性課長』への昇進を果たした。
そして松本もまた、今までの部署の『課長』へと昇進したのだ。
「同じ課長になっちゃったなあ。俺も優秀なお前に置いていかれないように、少しは気合い入れて頑張るかな」
隣に並び、優しく微笑みかけてくる松本。
ちえは、自分の鼓動がうるさすぎて彼の言葉が半分も頭に入ってこなかった。
ずっと「無能な松本係長」と見下していたはずなのに。今は、彼の大きな背中に、大人の色気に、どうしようもなく惹かれている自分がいる。
「あ、あの……!」
ちえは、ギュッと両手を握りしめ、顔を真っ赤にして上目遣いで彼を見上げた。
「こ、今後は……『松本さん』って、呼んでもいいですか?」
部署が分かれ、同じ課長という立場になる。だからこそ、少しでも彼との距離を縮めたかった。
「ん? ああ、もちろん。よろしくな、百田さん」
松本は当たり前のように、いつもの『百田さん』という少し距離のある呼び方で返してきた。
それが、今のちえには無性に焦れったかった。
「……百田さんじゃなくて、モモ、で良いです……」
「え?」
「私のちえって名前、古臭くて嫌いなんです。友達からはみんな『モモ』って呼ばれてるから……松本さんにも、そう呼んでほしくて」
消え入りそうな声で、乙女の顔をして決死のアピールをするモモ。
松本は少し驚いたように目を見張った後――優しげな大人の微笑みを浮かべた。
「社内で、課長同士が『モモ』呼びは、流石にまずいだろう?」
「あ……」
拒絶された、と思い、モモの顔がサッと青ざめる。
しかし、松本はモモに少しだけ顔を近づけ、誰にも聞こえないような内緒話のトーンで囁いた。
「じゃあ……『就業時間以外』は、モモって呼ぶわ。俺のことも、仕事が終わったら賢人でいいよ」
「――――ッ!!?」
モモの顔が、ポンと音を立てて爆発したかのように真っ赤に染まった。
終業時間後の、プライベートな時間だけの秘密の呼び名。それはつまり、仕事終わりに二人で食事に行くことすらも肯定する、恐るべき無自覚なタラシのキラーフレーズだった。
「じゃ、お疲れ様。モモ。また明日な」
ヒラヒラと手を振りながら、残業もせずに定時で帰っていく賢人の背中。
(ずるい……っ、あんなの、絶対ずるい……!!)
モモは屋上に一人取り残され、両手で真っ赤な顔を覆いながら、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
まさかその松本賢人の家に、絶世の美女三人(と妖精とトカゲ)による、決して入り込む余地のない『超絶甘々なハーレムバカップル空間』が形成されているなどとは夢にも思わず。
野心家の最年少女性課長は、中年オジサンへの初恋の熱に、一人身悶えし続けるのだった。




