第6話:長生の病と、バカップルたちのミスドパーティー
パソコンのモニターには、検索して表示させた人間の『脳の血管』の精緻な画像が映し出されている。
俺は目を閉じ、自らの頭の中に血管に沿って魔力を流し込み、同時にそれが脳細胞の一つ一つに深く染み込んでいくイメージを作った。
時折、神経を直接引っ掻かれるような鋭い引っ掛かりや痛みを覚えるが、頭上に浮かぶ妖精のスーが、両手から微細な調整を送ってサポートしてくれている。
「魔力は十分よ、ケント。あとはバフを掛けるイメージで魔力を動かして!」
「……っ、ああ!」
スーのガイドに従い、俺は脳に直接『インナーバフ』を発動させた。
――その瞬間。
俺の脳内は、まるでビッグバンを起こした直後の宇宙空間のような、果てしない広がりを見せた。
溢れ出したのは、記憶だ。異世界ノキアでの出来事だけではない。前世である『松本賢人』としての記憶の、そのすべてを思い出したのだ。
そう、文字通り『すべて』である。
思い出そうとしていた仕事のプロジェクトやマクロの組み方だけではない。二十年前に一度だけ見た雑誌の表紙、新聞の小さな活字、なんとなく眺めていたテレビ番組のCMまでもが、隅々まで鮮明に思い出せる。
だが、それは同時に『感情の奔流』でもあった。
別れた前妻との出会いや、結婚した時の胸のときめき。娘が生まれた時の、涙が出るほどの喜び。そして――妻との離婚や、娘との別れで受けた致死量の精神的ダメージまでもが、たった今起きた事のように生々しく蘇ってきたのだ。
もちろん、『魔王ケント』として感じたものも同様だ。
剣で腹を貫かれた時の焼け付くような痛みやガルドに受けた爆破の痛み。フェナブの地でのコーレルを救えなかった絶望感。
二つの人生で受けた、常人なら一生かけて消化するほどの膨大な喜びと悲しみが、一瞬にして脳を直接殴りつけてきた。
「がっ……あ、あ、あああぁぁぁっ!?」
俺は両目を限界まで見開き、椅子から転げ落ちて床で激しく痙攣した。
「ケント!?」
「旦那!!」
「ケント様ああぁぁっ!」
突如として泡を吹き始めた俺に、セリーナ、ザラ、レナの三人が悲鳴を上げ、俺の体をきつく抱きしめて必死に名前を呼びかける。
その大パニックの中、スーだけは段ボール箱に飛び込み、中で丸くなっていた真龍の髭をガシッと掴んで乱暴に揺さぶった。
「アンタ! こうなるの知ってたんじゃないの!?」
「ひぃぃっ!? わ、我輩がそうなると知っておったら事前に教えるわ! それでケントが死んだら、我輩まで自死扱いになるのじゃぞ!」
涙目でジタバタと暴れながら、メスの真龍は言い訳をするように叫んだ。
「おそらくそれは『長生の病』というものじゃ!」
「……長生の病?」
三人が、俺を抱きしめたまま真龍を睨みつける。
「ああ。我輩たちのような龍や、エルフどものように長生きする者は、膨大すぎる記憶を抱えたまま生きておると、あまりに長く生き過ぎて精神が倦んでしまうのじゃ。そしてそのままにしておくと、記憶と感情に押し潰され、皆が自死を選ぶようになる……。それが長生の病じゃ!」
レナがスッと立ち上がり、ハイライトの完全に消えた虚ろな目で真龍の首根っこを掴み上げた。
「説明はいいから、どうすりゃ旦那様が助かるのか、キリキリ言えよ、クソトカゲ」
「ひぎぃっ! 我輩たち長命種はすべての記憶を持っておるが、すべてを常に意識しておっては生きづらいし、長生の病になる! そこで、古い記憶は魂の奥底に『しまい込む』のじゃ! すぐには取り出せなくなるが、思い出そうと集中すれば、一年もあれば取り出せるからの。そうして、普段は最近百年くらいの記憶だけを表面に置いて生きるのじゃ!」
「……記憶を思い出すのに、一年って」
「我輩らは何万年も生きるのじゃぞ!? 龍にとっての一年など、お主ら人間の『一分』のようなものじゃ!」
真龍のスケールの狂った弁明を聞き、ザラが冷たい声で聞いた。
「で。それは、人間の旦那にも出来るのかい?」
「……どうじゃろう?」
「……よし、死ね」
ザラが躊躇いなく『収納の腕輪』からナイフを取り出し、本気の殺気でトカゲを刺し殺そうと腕を振り上げる。
「……ざ、ザラ、やめとけよ……」
「旦那! 大丈夫かい!?」
俺は床に倒れたまま、震える手でザラの腕を掴んだ。
「おー……。ひどい目に遭ったけど、おかげで色々と思い出したわ……」
俺はゆっくりと体を起こし、レナの手に握られたままのトカゲを見た。
「お前の話、遠くのほうで聞こえてたぞ。おかげで記憶の整理ができて、こうして話せるわ」
俺は薄れゆく意識の中で、真龍の言葉をヒントに、現代人ならではのやり方で脳内の記憶を整理していたのだ。
すなわち、記憶の『フォルダ化』である。
ここ一年くらい(と今の仕事に必要な知識)以外はすべて圧縮して深層フォルダに放り込み、必要な時だけ『検索』をかけて記憶を引っ張る仕様に脳内を構築し直したのだ。
「ケント! 良かった……!」
セリーナが涙ぐみながら俺の首に抱き着いてくる。
「ケント様、大丈夫ですかぁ?」
レナが俺の顔を覗き込み、ザラが「よくやったね!」と背中をバシバシと叩いてくる。
「ああ、ありがとう。もう完全に治ったよ。……オジサン臭いこと以外はな」
「あっ」
スーが気まずそうに目を逸らした。命の危機を乗り越えてもなお、俺はあの何気ない一言を深く根に持っていた。
「じゃあ、もう明日の仕事はバッチリなのかい? 旦那」
「ああ、まかせとけ。エクセルの使い方も、社内の人間関係も、過去の打ち合わせの内容もばっちりだ。おまけにな、バフをかけ終わった今の状態なら、しばらくは頭が超スッキリしてて仕事が死ぬほどはかどりそうだ。今の俺なら、完璧な新商品の企画書だって一晩で書けるぞ」
「……えーと。それは、剣で言うと?」
首を傾げるセリーナに、俺は自信満々に笑った。
「剣の握り方や振るための体力は十分! 今持っている剣術の理や奥義書は完璧に理解できて、そこから派生する自分だけのオリジナル奥義すら開発できそう! ……って感じだな」
「そりゃ凄いね! 流石アタシの旦那だ!」
「まあ、まかせとけ。前世じゃ出世コースから外れてのんびりやってた俺だが、お前たちを養うためにも、本気で出世して見せるぜ!」
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そして、翌日。
二十年ぶりに袖を通したスーツ姿を見た三人に、「あら?」「似合わないねぇ(笑)」「なんだか、冴えないおじさんって感じが……♡」と散々な評価を受けて家を出てきた係長・松本賢人は――その日、社内で伝説を作った。
今まで「事勿れ主義で人畜無害なオジサン」だったはずの松本が、会議の場で急に、完璧なデータに裏打ちされた超攻撃的で理詰めのプレゼンを展開し、取引先と上層部をまとめて圧倒したのだ。
社内が「松本係長が急に覚醒した」とザワついていることなど露知らず。定時で仕事を終わらせた俺は、家族への労いとして駅前でミスタードーナツを大量に買い込み、ホクホク顔で帰路についていた。
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「ウメエッ!! なんだこれ!!」
狭い2DKの食卓。ザラは両手に『エンゼルクリーム』を一つずつ持ち、口の周りを粉だらけにしながら豪快にかぶりついていた。
「本当に、地球の食べ物はどれも魔法みたいね……」
セリーナは上品に『チョコファッション』を一口食べると、そのサクサク感とチョコの甘さに目を見開いた。そして、すかさず箱の中から別の種類のドーナツを何個か抜き取り、自分の手元にキープするというちゃっかりした動きを見せた。
妖精のスーに至っては、『ドーナツポップ』の丸い箱の中にスッポリと入り込み、自分と同じくらいのサイズの丸いドーナツを抱えてご満悦だ。
「…………我輩のは?」
段ボールハウスから顔を出した真龍が、恨めしそうに尋ねる。
「あんっ?」
レナが鋭い声で睨みつけると、トカゲは「ひぃっ」と首を引っ込めてハウスに戻ってしまった。
不憫に思った俺が、こっそりと『ポン・デ・リング』を一つハウスの中に放り込んでやると、トカゲはモチモチとした食感に感動したのか、俺への好感度を密かに爆上がりさせていた。
「ん? レナ、アンタ一個で良いのかい? まだ箱にあるぜ?」
エンゼルクリームを平らげたザラが不思議そうに聞くと、レナはフッと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「いえ、私はこの一つで十分です。……だって、こんな甘いもの何個も食べたら、明らかに太りそうですものねぇ?」
バクバクと食べているザラとセリーナに向けた、腹黒い煽りである。
しかしザラは気にした様子もなく、「ほーん? まあ、あとで少し稽古でもして汗かいておくかな!」と笑い飛ばすだけだった。
「……あ、貴方ってひとは」
手元に大量のドーナツをキープしていたセリーナだけが、カロリーという現実を突きつけられて愕然と肩を落としている。
だが、ここで俺は残酷な事実を口にした。
「でもな、レナ。ザラは見た通りの純度百パーセントの筋肉だし、セリーナは女性らしい柔らかな体つきに見えるが、その中身の密度はザラと同じスーパーマッチョだぞ。……うちの嫁の中で、一番色んな所がプニプニしてるのは、実はお前だからな?」
「…………ガーンッ」
俺の指摘に、レナは石のように固まり、目に見えるほどのショックを受けていた。
箱の中から飛び出してきたスーが、面白がってレナの柔らかい二の腕をツンツンと小突いている。
ヤバい。これは完全に地雷を踏んだ。
俺はすぐさま、長年の夫婦生活で培ったタラシのスキルを発動させた。
「でもな、俺はそんなお前が大好きだぞ。その柔らかさがたまらないんだ」
「ケ、ケント様ぁ……♡」
レナの瞳に、瞬く間にハートマークが浮かぶ。
「ちょっと旦那! アタイは!?」
身を乗り出してくるザラに、俺は甘く微笑みかけた。
「ザラは、初めて会った時からずっと俺の好みドストライクだ。あの筋肉もな」
「へへっ、だろ!」
「……私は?」
ジト目でこちらを見るセリーナの機嫌も取らなければならない。
「セリーナの幼児時代のあの色気はヤバかったですよ〜。何回でもいいますが、俺の異世界での初恋の人です」
「も、もうっ……! あなたって人は昔から……!」
セリーナが顔を真っ赤にして、照れ隠しのようにチョコファッションを口に押し込んだ。
こうして。
社畜として覚醒した四十三歳の中年係長が暮らす日本の狭い2DKは、誰もがうらやむ、甘々で騒がしいバカップルハーレムの館となっているのだった。




