第5話:社畜の剣と、おじさんの匂い
静まり返った夜の2DK。
俺は寝室のデスクに座り、パソコンのモニターに映し出された表計算ソフト『エクセル』の画面と睨み合っていた。
先ほど、メーラーを開いて未読メールの山を確認した時から薄々感じてはいたのだが――ビックリするほど、指が動かない。
それも当然である。異世界に転生してからの約二十年間、俺はキーボードなど一度も触れず、ひたすらに剣を振るって血みどろの戦場を駆け抜けてきたのだから。
かつての俺は、タイピングゲームの『e-typing』では最高ランクの一つである【Rocket】の称号を持ち、『寿司打』の高級コースでは二万円近いお得を叩き出すほどの猛者だった。「俺は社内のプログラマーより、本気を出せばタイピングが早い」とニヤニヤ誇っていた自慢の指先は、今や再雇用の高齢社員が人差し指でキーを一つずつ探しながら打つかのような、悲惨な速度に成り果てていた。
しかも、問題はタイピング速度だけではない。
ちょっとした社内の連絡事項などのメールなら、相手の文面を見て「あー、はいはい」となんとなく返事を作ることができた。だが、明日の会議で使う『資料の作成』となると話は別だ。
俺の体感としては、二十年近く前の出来事である。
キーボードもうまく打てない上に、「マクロ? 何それ美味しいの? Notionでプレゼン? なんかのお洒落なカフェかな?」と本気で首を傾げているような浦島太郎状態の人間が、現場の頭である『係長』のポジションなど務まるわけがない。
そもそも、メール内に飛び交っている新商品のプロジェクト進行について読んでも、「ああ、そういえば俺が死んだ(はずだった)後、あれって誰か引き継いだのかなあ」と他人事のように思って思い出したことあるくらいで、どんな商品か、プロジェクトチームに誰がいるのか、どこの企業に発注する手はずだったのか……メールを見ても一切ピンとこないのだ。
「……俺、詰んだかも」
俺は両手で頭を抱え、絶望の声を漏らした。
かつて大国をたった一人で壊滅させた魔王の、初めて見る弱々しい姿に、ベッドの上でくつろいでいたセリーナたちが顔を見合わせた。
「……ケント様、どうされたんですか?」
心配そうに覗き込んでくるレナに、俺はハイライトの消えた虚ろな目を向けた。
「なんというかな……。例えば、セリーナやザラの前に、武器を持った敵の集団が突然現れたとするだろ?」
フンフン、と真剣な顔で頷く一同。
「でもな、相手が『敵だ』ってことだけは分かるんだけど、どこの誰なのか全く覚えてないし、そもそも戦う理由も『なんか昔あった気はするけど』って感じで全然思い出せない。……そういう時、お前らならどうする?」
俺の問いかけに、セリーナは少し顎に手を当てて考えた。
「相手の素性や理由が分からないのは不気味で少し気になりますけど……でも、明確な敵なら」
「斬るだけだな! 理由なんかに興味ないし!」
セリーナの言葉を遮るように、ザラが豪快に笑い飛ばした。
レナが不思議そうに首を傾げる。
「ケント様は、それじゃダメなんですか?」
俺はフッと自嘲気味に笑って、目の前のモニターを指さした。
「これは『パソコン』と言う物でな。いわば、日本という世界での俺の『剣』なんだよ。そして、この中に入っているワードやエクセルといった色んなソフトの種類、あるいはその使い方が、剣術の『流派』や『奥義書』にあたる。日本での俺たちは、これらを使って仕事という戦いをするんだ」
俺の例え話に、なるほどと感心したような顔をするセリーナ。本能でなんとなく言葉のニュアンスを理解するレナ。アタシにはよくわかんないから結果だけ聞けばいいや、と早々に考えるのを放棄して開き直るザラ。
「だがな」
俺はため息をついた。
「いくらいい剣を持ち、いくつもの奥義書を持っていようが……本人が剣も満足に持てないほどひ弱で、奥義書を読んでも中身が全く理解できなきゃ、これはもうどうしようもない」
「…………」
「……今の俺は、まさにそんな状況で、明日たくさんの敵(取引先や上司)の前に出なきゃいけないんだよ」
俺の悲痛な説明に、妻たちの顔色が変わった。
「そ、そんなんじゃ死んじゃうじゃないか旦那!」
「ああ。ある意味死ぬな。係長の『松本賢人』は、明日社会的に死ぬ」
「でも、ケント様は元々こっちの世界でお仕事をなさっていたわけですから、やり始めればすぐに勘やその力も戻るんじゃないですか?」
レナのフォローに、俺は首を横に振る。
「これが、例えば一ヶ月の長期休みの後とかなら、リハビリ感覚でゆっくり慣れていくのはアリだけどな。例えば、一昨日までバリバリの最前線で戦っていた騎士が、今日の戦場で急に『すみません、剣の握り方も忘れましたし、振るための体力もありません』とか言い出したら、団長にブチギレられて即クビだろ? 今の俺はそれと一緒なんだよ」
「なにか口実を作って、何日か時間を稼いでいる間に、昔の実力を取り戻すのは無理かしら?」
セリーナが冷静な解決策を提示してくる。
「……急な葬式や急病ってことで嘘をついて時間を作っても、いいとこ五日くらいが限界だから、さっきの絶望的なタイピング速度からすると難しいな。そもそも、自分一人で完結する仕事じゃなく、他人との打ち合わせや交渉の部分も多いし。何より、俺からしたら二十年前の出来事だから、根本的に記憶がないんだよ」
完全に手詰まりだ。
俺が再び頭を抱えていると、部屋の中を飛んでいた妖精のスーが、ふわりと俺の肩に降り立った。
「アタシが、ケントの記憶を掘ってみようか?」
「え!? お前、何気にそんなことできるの?!」
「出来はするんだけど……」
スーは少し言いにくそうに、人差し指同士をツンツンと合わせた。
「あのね、深い記憶を無理やり掘り起こすと、手前にある新しい記憶が崩れたり、順番が入れ替わったりしちゃうの。最悪、異世界での記憶がぐちゃぐちゃになるから、あんまりおススメはできないんだけど……」
「イヤイヤイヤ!!」
俺は全力で首を横に振った。
「そこまでリスク背負うくらいなら、素直に休職して何とかするよ!」
妻たちとの大切な記憶が消えるくらいなら、左遷された方がマシだ。
どうやっても解決の糸口が見えず、室内にどんよりとした暗い空気が漂い始める。
そこに、空気を全く読まない脳筋が、場違いなことを言い放った。
「もうさ、よくわかんないけど、インナーバフや魔法で『かいしゃ』とかいうのをバーン! って壊してしまえば、仕事も無くなるんじゃないの?」
「お前なあ……バフで会社壊せって、完全にテロリストの発想……」
俺は呆れてツッコミを入れかけ――ピタリと、動きを止めた。
「ハハッ、それは冗談にしてもさ。その失った記憶や、パソコンの使い方の脳みそにも、インナーバフをかけられないのかい?」
「!! ……あ」
ザラの何気ない言葉に、俺はカッと目を見開いた。
「ちょっとザラ! 身体の筋肉に魔力を回すだけでもあれだけ大変な制御が必要なのに、脳の神経になんか直接魔力を回したら、頭が壊れちゃうわ!」
危険性を察知したセリーナが慌てて止めるが、俺の胸には確かな希望の火が灯っていた。
「……いや、やる価値はある!」
「ケント!?」
「俺は魔力操作の精密さには自信がある。それでも、流石にインナーバフを脳に直接使うのはヤバいと思って、異世界でもやったことがなかった。……でもな、今はスーがいる!」
俺は肩に座る妖精を見た。
「純粋な魔力の塊が集まったような妖精のスーに、外部から制御を手伝って貰えば可能性はある。それに、あの『真龍』のエネルギーで作られたこの頑丈な体なら、脳への負荷にも耐えられるんじゃないか?」
俺の言葉を聞き、レナが段ボール箱からトカゲを引っぱり出した。
「おい。その辺、どうなってるんだ? アタシたちの体は強くなってるのか?」
「ひぃっ!? う、うむ! さっきも言った通り、真龍並みとは言わんが身体の構造も根本から強化されとるはずじゃ! 人間なら即死するような致死量の魔力負荷であっても、我輩の細胞が受け止められるくらいの容量ならいけるじゃろ!」
メスのトカゲが、空中でブラブラと揺れながら泣きそうな顔で証言する。
「だそうですよ、ケント様」
「……よし。大事な記憶が怪しくなるよりはずっといい。じゃあスー、サポートしてくれないか」
「わかったわ。ケントも、肉体に回す時よりもっと細く、脳内の隅々の血管にまで魔力を届かせてブーストをかけるイメージを持って。魔力の揺らぎや、出力が太すぎたりする部分は私がガイドするわ」
そう言って、スーは俺の頭の上にうつぶせに乗った。
しかし、すぐに「ん?」と身体を起こすと、羽を羽ばたかせて俺の頭の上にふわりと浮かび上がり、両手(両掌)だけを俺のオデコにピタッとくっつけた。
「? ……どうした、スー。頭に乗らないのか?」
「いや……ケントの頭、なんかオジサン臭い……」
「…………え?」
俺は絶句した。
嘘だろ。
俺は、恐る恐る後ろを振り返り、妻たちを見回した。
セリーナは、気まずそうにスッと目を背けた。
ザラは、「あっはっは! 大丈夫さ! 男はちょっとくらい臭い方が良いんだよ!」と、笑いながらフォローにならない慰めを口にした。
レナに至っては、「大丈夫です! 私はその枯れた匂いもイケます!」と、顔を真っ赤にしてハァハァと荒い息を吐いている。
……誰も、俺の頭がオジサン臭いことを否定してくれなかった。
四十三歳。中年。
それが、どうしようもない現代のリアルだった。
「……うん。それじゃあ、やろう」
俺は、悲しさで涙がこぼれ落ちないようにギュッと目を閉じると、自身のオジサン臭い頭部に向け、ゆっくりと体内の魔力を流し始めたのだった。




