第74話 消えた領都
侯爵の領都では、街を出ていこうとする者も少なからずいた。
だが、門は衛兵たちに固く閉ざされていた。皇都の侯爵から「逃げる者は反逆者として斬れ」という命令が届いていたからだ。荷車に家財道具を積んだ家族が門の前で衛兵と揉み合ったが、槍を突きつけられると、多くはすぐに諦めて家に帰っていった。
それに、街の人間の多くは、どこかでまだ信じていなかった。
街一番の酒場では、昼間から男たちが集まって杯をあおっていた。
「街ひとつ消すなんて、できるわけがねえ」
「空に顔を映すくらいの手品だろう。脅しだよ、脅し」
「だいたい、本当にそんな力があるなら、とっくにやってるさ」
太った商人が、隣の席で皿を下げていた獣人の給仕の娘の尻を蹴り飛ばした。
「おい、酒が遅えぞ! 獣のくせにぐずぐずしやがって!」
娘は床に転がったが、声も上げずに起き上がって、黙って奥へ下がっていった。男たちは、それを見て笑っていた。
その頃、皇国騎士団も、勅命を掲げたままコネグ領へ向かって進軍を続けていた。
◇
その日の昼、国中の空に、再びケントの顔が映し出された。
『よう。皇帝はこっちに連れて来たわ』
ケントの後ろから、顔を腫らした若い皇帝が、おずおずと前に出てきた。昨日ミーナに殴られた頬が、まだ青紫色に腫れている。
放送の前、ケントは皇帝に、原稿も何も渡さなかった。「台本なんか要らねえ。自分で考えて、自分の言葉で喋れ」とだけ言った。
皇帝はしばらく唇を震わせて何も言えずにいたが、ケントに背中を小突かれて、ようやく口を開いた。
『……朕は、皇国の皇帝である』
声はかすれていたが、それでも皇帝は話を続けた。
『朕に毒を盛ったのは、バーデン侯爵である。コネグ子爵を討てという勅命も、侯爵が朕の玉璽を盗んで出したものだ。朕は、そのことに今まで気づかなかった。……いや、気づこうとしなかった』
皇帝は、膝の上で拳を握りしめた。ケントが後ろで、黙ってその様子を見ていた。
『朕は、皇国の奴隷制を廃止する』
空を見上げていた国中の人々が、ざわめいた。
『そのうえで、伝えねばならぬことがある。侯爵の領都と皇都は、おそらく消されるであろう。朕には、それを止める力はない』
皇帝は、最後に一度だけ、まっすぐ前を見た。
『獣人への差別が抜けぬ者は、その街から動くな。そして、獣人はすべて解放せよ』
放送が終わると、皇国中が騒然となった。
だが、奴隷を手放した者はほとんどいなかった。それどころか、あちこちの街で人々が広場に集まり、声を上げ始めた。
「あんな腑抜けは皇帝ではない!」
「亜人に攫われて、言いなりになっている皇帝など要らん!」
「皇帝を廃せ! 新しい皇帝を立てろ!」
そのシュプレヒコールは、日を追うごとに大きくなっていった。侯爵の領都の広場でも、同じ声が夜遅くまで響いていた。
◇
そして、侯爵の領都が消される日が来た。
ケントたちは、領都から何十キロも離れた丘の上に立っていた。セリーナとザラとレナ、ミーナとシューメル、それに皇帝も、ニールに付き添われて丘の上に連れてこられていた。
国中の空に、領都の映像が映し出された。街並みも、市場も、広場の人だかりも、すべてがはっきりと見えた。広場では、今日もまだ「皇帝を廃せ」と叫ぶ人々が集まっていた。
『あー、これから獣人たちを転移させる』
ケントの気の抜けた声が、国中に響いた。
空の上で、白龍がゆっくりと翼を広げた。その背中では、スーが目を閉じて集中している。
スーと白龍は、領都にいる者たちの魔力の波長を一人ずつ読み取っていった。人間とは違う波長を持つ者。ドワーフ、エルフ、そして獣人。その一人一人に、小さな光の印がつけられていく。
奴隷小屋の中で、首輪をつけられた獣人の子供の胸に、ぽうっと光が灯った。屋敷の台所で働かされていた犬獣人の女の額にも、光が灯った。酒場の奥で膝を抱えていた給仕の娘の胸にも、小さな光が灯った。
「スー、いけるか?」
「いけるよ。白龍、魔力回すからね!」
スーの体から溢れた魔力が、白龍へと流れ込んでいった。白龍の鱗が、まぶしく輝いた。
次の瞬間、領都中の光の印が一斉に消えた。
何千人もの亜人たちが、コネグ領の広場に転移していた。突然知らない場所に放り出された獣人たちは、呆然と辺りを見回していた。ナルとネルが駆け寄って、毛布を配り始めた。
領都に残ったのは、人間だけだった。
酒場では、急に給仕の娘がいなくなったことに気づいた商人が、「おい、どこ行った!」と怒鳴っていた。
ケントは丘の上で、領都の上空に漏斗状の爆鳴気を次々と並べていった。使った魔力は、ノピアの濃い魔素からすぐに戻ってくる。いくつ並べても、尽きることはなかった。
「街が全部入ったな」
ケントは、空の映像に向かって言った。
『じゃあ、お前らみんな死ね』
その直後、領都は真っ白な閃光に包まれた。
少し遅れて、腹の底を揺さぶるような轟音が丘の上まで届いた。領都があった場所から、巨大なキノコ雲がゆっくりと立ち昇っていく。その雲は、何十キロも離れた村からもはっきりと見えた。
煙が晴れた後には、何も残っていなかった。
城壁も、屋敷も、市場も、酒場もなかった。そこにいた人間は、貴族も兵士も市民も、大人も子供も、みんな消えていた。
丘の上で、皇帝はその場に膝をついて、声もなく震えていた。
ミーナが、ケントの袖をぎゅっと握った。
「……あの酒場にいた給仕の子は、ちゃんと転移できたんでしょうか」
「スーが一人残らず印をつけた。今頃、ナルのスープでも飲んでるさ」
ケントはそう言って、ミーナの頭にぽんと手を置いた。ミーナは小さく頷いて、黒い耳を伏せたまま、キノコ雲から目を離さなかった。
国中の空の下で、人々もまた、声もなくその光景を見上げていた。




