第67話:黒猫の帰還と、エルフの秘薬
ミーナが姿を消してから三日目の昼過ぎ、ケントはようやく部屋から這い出してきた。
ロビーのソファに沈み込み、ナルが作ってくれたスープをすする。まだ顔色は悪く、スプーンを持つ手も少し震えていた。
向かいのテーブルでは、同じくぐったりとしたレナが、頬をテーブルに押しつけて突っ伏している。
「……腰が……腰が……」
その横では、子供の姿に戻ったシューメルが、肌をつやつやさせながら、上機嫌で果物をかじっていた。
「あら、人間って本当に体力がないのね」
「……お前が異常なんだよ」
ケントがかすれた声で言い返した時、窓からスーが飛び込んできた。
「ケント! ミーナ、倉から出たよ!」
「本当か!?」
「うん。熱もすっかり下がってた。着る服がなかったから、セリーナの服を一着持ってってあげたの。もうすぐこっちに来ると思う」
ケントは胸をなで下ろした。
「そうか……良かった」
だが、スーはなぜか口元をむずむずさせて、ケントの顔をじっと見ている。
「なんだよ」
「ふふっ。ケント、たぶんびっくりすると思うよ」
スーはそれだけ言うと、それ以上は何も教えてくれなかった。
しばらくして、ホテルの扉が静かに開いた。
入ってきたのは、見たことのない女だった。艶のある黒髪を肩の下まで伸ばし、頭には黒い猫耳がぴんと立っている。腰から伸びた長い尻尾が、歩くたびにゆらりと揺れていた。セリーナの服をすらりと着こなした、二十歳くらいの細身の美女だった。
ロビーで食事をしていた獣人たちが、思わず手を止めて見とれている。
ケントはスプーンを置いて、慌てて立ち上がった。寝癖のついた頭を手で押さえつけながら、愛想笑いを浮かべる。
「あ、あの……どちら様で? ここ、今ちょっと貸し切りでして……」
だらしなく鼻の下を伸ばしかけたケントを見て、女は少しむっとしたように頬をふくらませた。
「……ご主人様、ひどいです」
その声と、拗ねた時にぺたんと伏せる耳の形には、見覚えがあった。
「ミ、ミーナ!?」
ミーナはこくりと頷くと、ケントの前まで歩いてきて、少し照れたように笑った。
「はい。ちゃんと大人になりました」
「お、おう……いや、すげえな、本当に……」
ケントがしどろもどろになっていると、ミーナはそっと声を落とした。
「屋根の上に、ずっと白竜様とスー様がいてくださいましたよね」
「……気づいてたのか」
「猫の耳は、いいんですよ」
ミーナは小さく笑った。
「ご主人様が見張らせてくれたんでしょう? 熱でずっと苦しかったけど、一人じゃないって分かってたから、怖くなかったです。……ありがとうございました」
「いや、まあ、その……」
ケントは照れくさそうに頭をかいて、目を逸らした。
そこへ、騒ぎを聞きつけたセリーナとザラがやってきた。
セリーナはミーナを上から下まで眺めると、額を押さえて溜め息をついた。
「……本当に大人になったのね。私の服、ちょっと丈が足りないじゃない」
ザラは遠慮なくミーナの背中をバシバシ叩いて、大声で笑った。
「いい女になったじゃないか! こりゃ旦那も大変だね!」
テーブルに突っ伏していたレナは、がばっと顔を上げた。そして、収納からウサギの耳がついたカチューシャを取り出し、自分の頭に装着した。
「わ、私だって負けませんからねっ!」
勢いよく立ち上がろうとしたが、腰が抜けていて立ち上がれず、そのままずるずるとソファに沈んでいった。
シューメルは果物をかじりながら、楽しそうにミーナを眺めている。
「あら、可愛い子。番を見つけた獣人って、匂いが変わるのよねえ」
ミーナは、そんな周りの騒ぎには構わなかった。ケントの袖をそっとつまむと、上目遣いで見上げる。
「ご主人様。私、ちゃんと大人になりました」
「お、おう。さっき聞いた」
「……だから、今夜は私の番ですよね?」
ケントの顔から、さっと血の気が引いた。
昨夜の記憶が一気によみがえり、膝ががくがくと震え出す。
「い、いや、ミーナ、それはだな、その……」
その時、窓から白竜が転がり込んできた。
「我が主ーっ! 大変であります!」
「どうした!」
「街の東門に、武装した傭兵どもが五十人ほど押し寄せているであります! バーデン侯爵の紋章入りの旗を掲げているであります!」
ロビーの空気が、一気に引き締まった。ザラは大剣に手をかけ、セリーナも双剣の柄を握る。
そしてケントは、明らかにほっとした顔で、勢いよく立ち上がった。
「ま、まずはアイツらの相手だ! ミーナ、残念だけど今日は無理だな! 戦だからな! 仕方ないよな!」
誰よりも早く玄関へ向かおうとするケントの背中に、セリーナとザラの冷たい視線が突き刺さった。
すると、シューメルがひょいと椅子から降りて、ケントの前に回り込んだ。そして、怪しげな緑色の液体が入った小瓶を、ケントの手にぽんと握らせた。
「ゴメンゴメン、昨日はやりすぎちゃった。その子の相手するなら、これ飲んどいてねー」
ケントは小瓶を見つめて、顔を引きつらせた。
「……おい、これ、まさか獣人を無理やり変化させる薬じゃないだろうな!?」
「失礼ね。エルフ秘伝の精力剤よ。効き目は保証するわ」
シューメルはひらひらと手を振って、レナの隣のソファに戻っていった。
ケントは小瓶をポケットに押し込むと、ミーナの視線から逃げるように、ホテルを飛び出した。
◇
東門へ走りながら、ケントは心の中で必死に祈っていた。
(頼む……! 頼むから、傭兵の中にとんでもない強敵がいてくれ……! ちょっとでいい、腕の一本でも怪我すれば、今夜は安静にしてなきゃいけないって言い訳が立つ……! 頼む、神様、ヘル様……!)
真龍の分体を連れている男とは思えない、情けない祈りだった。
ところが、東門が見えてきたところで、ケントの足が止まった。
門の前には、すでに傭兵たちが転がっていた。立っている者は一人もいない。バーデン侯爵の紋章入りの旗は、根元からへし折られて泥にまみれている。
その真ん中で、返り血を浴びたザラが、大剣を肩に担いで振り返った。いつの間にか、ケントより先に飛び出していたらしい。
「旦那ー! こいつら弱い弱い! 話にならないよ!」
ザラはそう言って、楽しそうに嗤った。
その隣では、エリンがどこから持ち出したのか、トゲだらけの巨大な金棒を地面に突き立てて、不満そうに鼻を鳴らしている。
「準備運動にもならんな。皇国の傭兵というのは、この程度か」
少し離れた門の脇では、セリーナが縛り上げた傭兵を何人か地面に座らせて、静かに話を聞いていた。その足元には、傭兵団の頭らしい男の首が転がっている。
「それで? 侯爵はあなたたちに、何をしろって言ったのかしら」
セリーナは双剣の先で、転がった首を傭兵たちの方へ軽く押しやった。生き残りの傭兵たちは真っ青になって、先を争うように喋り始めた。
「…………」
ケントは門の前で、立ち尽くした。
強敵どころか、自分の出番すら一つも残っていなかった。
ちなみにレナは、腰が抜けたまま、ホテルのソファで寝ている。
背後から、軽い足音が近づいてきた。振り返ると、追いかけてきたミーナが、黒い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、にっこりと笑っていた。
「ご主人様、もう終わったみたいですね」
「……そう、みたいだな」
「じゃあ、今夜は大丈夫ですよね?」
ケントは黙って、ポケットの中の小瓶を握りしめた。




