第65話: 領主の覚悟と、獣人たちの明日
ミーナが姿を消してから二日目の朝、スーがケントの部屋の窓から飛び込んできた。
「ケント、見つけたよ。街外れの古い穀物倉の屋根裏」
ケントはベッドから跳ね起きた。
「無事か?」
「うん。干し草にくるまって、丸くなって寝てる。熱はすごく高いけど、ナルが言ってた通りなら大丈夫だと思う」
ケントは大きく息を吐いて、少しの間黙って考えていた。
「……猫は、弱ってるところを見られたくないんだったな」
「そうみたい」
「だったら見に行かねえ。けど、守る」
ケントはスーと、窓辺で寝ぼけていた白竜に言いつけた。
「お前ら、交代で穀物倉を見張ってくれ。ミーナには気づかれないように、遠くからな。怪しい奴が近づいたら、すぐ俺に知らせろ」
「わかった!」
「しょ、承知であります!」
二匹が窓から飛んでいくのを見送って、ケントはようやく肩の力を抜いた。
◇
その日の昼、ケントとセリーナは再び領主館を訪ねていた。
応接間で向かい合ったニールの顔つきは、初めて会った時とはまるで違っていた。目の下のクマはまだ残っているが、その目にはもう怯えの色がなかった。
「この二日間、考えておりました」
ニールは膝の上で両手を組み、まっすぐにケントを見た。
「私はこれまで、子供たちを守るためだと自分に言い聞かせて、目を逸らし続けてまいりました。ですが、あの地下室で死んだ親子のことを思うと、それはただの言い訳だったのだと思い知らされました。……もう逃げません。相手がバーデン侯爵閣下であろうと、獣人を不当に扱う者とは戦います」
ジョーンズが後ろで静かに目を伏せた。止めようとはしなかった。
ケントはしばらくニールの顔を見ていたが、やがて口を開いた。
「戦うって言っても、相手のことが分からなきゃ話にならねえ。そのバーデン侯爵ってのは、どういう奴なんだ?」
ニールは少し考えてから、言葉を選ぶように話し始めた。
「侯爵閣下は、皇国の中央貴族の中でも有力な方です。表向きは皇帝陛下の忠臣ですが、裏では奴隷商ギルドを実質的に握っておられます。皇国中の奴隷の売り買いには、どこかで必ず侯爵閣下の息がかかっていると言われております」
「奴隷商ギルドの元締めか」
「はい。奴隷法には、所有者に最低限の衣食住を保障させる決まりがございます。ですが、それを取り締まるはずの役人も、訴えを裁くはずの判事も、多くが侯爵閣下の派閥の者です。法はあっても、守らせる者がいないのです」
ミーナが言っていた「形骸化している」というのは、そういうことだったらしい。セリーナが小さく溜め息をついた。
「つまり、獣人が酷い目に遭えば遭うほど、その侯爵が儲かる仕組みになってるのね」
「……恥ずかしながら、その通りです」
ケントは腕を組んで、しばらく天井を見上げていた。それから、ニールに視線を戻した。
「アンタがそう決めたなら、俺たちは手を貸す。ただな、一つだけ先に言っとく」
「何でしょう」
「奴隷制度そのものを、今すぐなくすのは無理だ」
ニールが意外そうに眉を上げた。ケントは続けた。
「ナルが言ってたんだが、ナルんとこの元の主人みたいに、奴隷として抱えることで獣人をちゃんと食わせてる奴もいる。今の獣人には、自分の腕で食っていける稼ぎ口がほとんどねえんだ。そんな状態で制度だけなくしたら、明日から路頭に迷う奴が山ほど出る。下手すりゃ、今より死ぬ」
「……おっしゃる通りです。私の屋敷で匿っている子供たちも、外に出れば行く当てがありません」
セリーナが紅茶のカップを置いて、話を引き取った。
「だから、二つ同時に進めるしかないのよ。一つは、この街で獣人が自分の力で稼げる仕組みを作ること」
「仕事、ですか」
「ええ。獣人には、人間にはない力があるでしょう? 犬獣人の鼻なら、人探しや落とし物探しで誰にも負けないわ。猫獣人の耳と目なら夜の見張りにうってつけだし、力の強い獣人なら荷運びや護衛ができる。仕事を覚えさせて、ちゃんと給料を払って、自分の手でお金を貯められるようにするの。それができて初めて、奴隷じゃなくても生きていけるようになるわ」
ニールは身を乗り出して聞き入っていた。
「そしてもう一つは?」
「あなたが偉くなることよ、ニール」
セリーナはさらりと言った。
「制度を変えるには、法を作る側に回らないといけない。子爵のままじゃ、王城で何を言っても誰も聞かないでしょう? あなたには爵位を上げて、いずれ王城で政治に関われるところまで行ってもらわないと」
ニールはしばらく言葉を失っていたが、やがて苦笑いを浮かべた。
「……途方もない話ですな。私は、この街一つ守るのにも精一杯だった男ですよ」
「だから一人でやるなって言ってんだよ」
ケントは身を乗り出した。
「俺たちの国でも、似たようなことがあった。俺のダチが王様になるまでに、腐った貴族を山ほど片付けて、使える奴を一人ずつ引き上げてったんだ。一晩でひっくり返したわけじゃねえ」
ケントは、ノキアでシャルと駆け回った日々を思い出しながら言った。
「この街で特区を成功させりゃ、それがアンタの実績になる。獣人が働いて税を納めて、街が豊かになりゃ、王都の連中だって無視できねえ。皇帝に『コネグ領は儲かってる』って思わせりゃ勝ちだ。侯爵みたいな奴が邪魔してきたら、そっちは俺たちが片付ける。アンタは表で、真っ当なやり方で上に行け」
ニールは長い間黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がり、ケントとセリーナに向かって深く頭を下げた。
「このニール・コネグ、命に代えても、その道を進みます」
◇
領主館からの帰り道、ケントは黙って空を見上げながら歩いていた。
「何を考えてるの?」
セリーナが隣から顔を覗き込んだ。
「いやな。ニールが上に行くまで、何年かかるか分からねえだろ。その間にも、行き場のない獣人は出てくる。そいつらの逃げ場が、どっかにあればいいんだけどなと思ってさ」
「逃げ場?」
「地球だよ」
セリーナが目を丸くした。ケントは歩きながら続けた。
「ヘルと連絡がついたら、地球と行き来できるようになるかもしれねえ。そしたら、こっちで行き場のない奴らを、真龍国の国民として引き取るんだ。地球の連中、獣人なんて見たら大騒ぎするぞ。猫耳の店員がいる喫茶店なんか作ったら、毎日行列ができる」
「……あなた、前にミーナにも同じようなこと言ってたわね」
「犬獣人の鼻なら警察の捜査に使えるし、ドワーフなら腕っぷしで要人の護衛ができる。こっちじゃ差別されてる力が、向こうじゃ全部売りになるんだよ」
セリーナは呆れたような、それでいて少し感心したような顔をした。
「ちえさんが聞いたら、泣いて喜びそうな話ね」
「ああ。たぶん泣きながら電卓叩くぞ、あいつ」
ケントは笑ってから、肩の上に戻ってきていた白竜をつついた。
「おい白竜。ヘルと念話が繋がるのは、いつ頃になりそうだ?」
「は、はい! 母上がこちらへ念話を届けられるほど信仰を溜めるには、どんなに早くとも半年はかかるであります!」
「半年か」
ケントは空を見上げた。
「……それまでに、こっちの準備をしとかねえとな」
だが、それはまだ先の話だった。今はまず、目の前の街と、穀物倉の屋根裏で熱にうなされている黒猫のことが先だった。




