第62話 聖人の慟哭と、魔王の冷や汗
静寂が、庭全体を重く支配していた。
敷地内に一歩足を踏み入れた俺たちの視界に飛び込んできたのは、整然と並び、石畳に深く額を擦り付けている数十人の人々だった。
その中には、仕立ての良いお仕着せを着た幼い獣人の子供たちや、怯えながらもじっと耐えている給仕服の使用人たちが含まれている。
誰一人として逃げようとはせず、誰一人としてこちらに怒りや恨みがましい視線を向けてもこない。ただ静かに、自らの命を差し出すかのように深く頭を垂れていた。
「な、なぁ……みんな、これどういう状況だ……?」
俺は額から冷や汗を頬に伝わせながら、隣に立つミーナたちに小声で尋ねた。
「わ、私に聞かれましても……! 悪党の屋敷に殴り込んできたら、みんなで土下座して待ってたなんて……」
ミーナも青ざめた顔で固まり、困惑を隠しきれずに瞳を泳がせている。
ザラたちも険しい表情を崩し、複雑な顔を浮かべていた。
全員が完全に毒気を抜かれ、どう動くべきか完全に失っていたその時だった。
「……そこまでだ。どうか、その怒りを彼らに向けないでいただきたい」
屋敷の重厚な正面扉が開き、奥から絞り出すような低い声が響いた。
ゆっくりと姿を現したのは、四十代半ばほどの男だった。上質な服を着てはいるが、その表情には濃い疲弊と深い苦悩が刻まれており、目元にはくっきりとクマが浮かんでいる。
彼こそが、この街の領主――ニール・コネグだった。
ニールは、俺たちの前までゆっくりと歩み寄ると、制止しようとする家令のジョーンズを手で制し、躊躇なくその場に膝をついた。そして、冷たい石畳に自らの額を叩きつけるようにして平伏したのだ。
「コネグ様……!」
平伏していた使用人や獣人の子供たちから、悲痛な声が漏れる。
「……ヴォルガン様とお呼びすればよろしいでしょうか。どうか……どうか、私の首一つで怒りを収めてはいただけないでしょうか」
ニールの身体が、激しく震えていた。その目からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、石畳を濡らしていく。
「私は……あまりにも無力だった。王都の腐敗した中央貴族どもからの強い圧力を跳ね返す力も名分もなく、この領地で虐げられる獣人たちを、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった……! 私にできたことといえば、表向きは従順な領主を装い、彼らの目を盗んで、かろうじてこの屋敷の中だけに一部の獣人や子供たちを匿うことだけだった……!」
「え……?」
ニールの口から溢れ出してきたのは、俺たちが想像していた悪徳領主の命乞いなどではなかった。
「今日、あなたが打ち滅ぼしたあの貴族の屋敷でも……陰で凄惨な虐待が行われていることを知りながら、私には手出しができなかった! 下手に私が動けば中央に勘づかれ、この屋敷で匿っている子供たちまで奪われてしまう……! 同胞を見殺しにし、偽りの平穏を守るために逃げ続けた私の罪は、万死に値する!!」
ニールは地面に拳を叩きつけ、血を吐くような思いで慟哭した。
「私が……私がもっと強く、権力を持つ領主であったなら! もっと多くの命を救えたはずなのだ! 酷い真似をされた女性のことも、そのご家族のことも……すべて私の無能が殺したも同然! どうか、どうか私を殺してください! その代わり……ここにいる子供たちと、街の者たちだけは……どうか助けてやってくれぇっ!!」
切々と語られる、あまりにも純粋な自責の念。
領主という立場でありながら中央の政治的圧力に押し潰され、それでも自らの領地で隠れて獣人の子供たちを必死に守り続けていた男の、魂の叫びだった。
「……あ」
俺の頭の中で、ガラガラと音を立てて何かが崩れ去っていった。
(悪党……? 腐敗の頂点……? 違う……ちがうちがうちがう!! こいつ、悪徳領主どころか……自分を責めて苦しみ抜いてきた超弩級の聖人じゃねえか!!!)
背中に嫌な汗が滝のように吹き出してくる。
俺たちは、あの虐待を行っていた悪徳貴族を成敗し、「よし! 次はこの街の元凶である悪党領主を討伐だ!」と意気揚々と殴り込んできたのだ。
だが蓋を開けてみれば、目の前にいるのは自分を痛めつけながら必死に弱き者たちの命を繋ぎ止めていた、哀れで高潔な一人の男だった。
「しゅ、集合ー!」
俺達は皆で固まって、ヒソヒソと話す。
「なあ、思ってたのと違わねえ?」
「なんか……慕われてるよねえ」
「まるで私達が悪者みたいですねえ」
「ケント、一度出直しましょうか…」
「なんか、ひそうなかんじよね!」
「スーさん、ホントにそう思ってます?」
(やばいやばいやばい!! 俺たち、完全に大勘違いして殴り込んじゃったよ!! どうすんだこれ!?)
「私たち……とんでもない間違いを犯しかけてたんじゃ……」と言いたげな視線が俺に突き刺さっていた。
だが、事態の崩壊はそれだけにとどまらなかった。
『――あー、マイクのテストであります! 街の皆々様、聞こえておりますでしょうか!』
不意に、上空から妙に通りやすい、どこか誇らしげな大音声が街中に響き渡った。
「……は?」
俺が思わず空を見上げると、そこには優雅に羽ばたく一頭の白い竜――あのポンコツトカゲの姿があった。
奴は上空から広域の音響拡声魔法を展開しており、ニールが語った涙ながらの告白と、この庭でのやり取りのすべてを、街全体へとリアルタイムで大音量放送していたのだ。
『聞こえましたでしょうか、街の皆々様! これぞ我が主、偉大なるヴォルガン様の真の狙い! 悪徳貴族を即座に成敗しつつ、隠されていた領主ニール殿の悲痛な真実を、街全体へと知らしめた瞬間であります! ニール殿の慟哭により、この街の真の構造と彼の高潔な精神が明らかとなりました!!』
「お前何余計なこと音響中継してんだぁぁぁぁぁっ!!?」
俺の心の叫びは、上空から街中に届くトカゲの大音量にかき消された。
拡声魔法を通じて、ニールの涙の告白と隠された真実が、街の全域――大通りに集まっていた獣人たちや一般住民全員の耳に、余すことなく届けられてしまったのだ。
「領主様が……俺たちを守るために……?」
「あのお屋敷の子供たちは……捕まっていたんじゃない……匿われていたのか!?」
「俺たちは……ニール様をずっと悪党だと誤解していたのか……!?」
街のあちこちから、呆然とした声と、自らの無知を恥じる獣人たちのどよめきが湧き起こる。
門前に立っていた獣人の衛兵たちも、ボロボロと涙を流しながらその場に崩れ落ちた。
「ニール様……! 俺たち……俺たち、ニール様がそこまで苦しまれていたとも知らずに……!」
「違う、違うのだ衛兵たちよ……! 無力で不甲斐ない私を許してくれ……!」
庭の真ん中で繰り広げられる、痛切で美しい主従の絆。
上空では『おお、なんと胸を打つ真実の明露! これもすべて我が主様の深謀遠慮のおかげであります!』と調子に乗ったトカゲの声が響き渡る。
そしてその中央で――。
(どうすんだよこれぇぇぇぇぇっ!!!)
俺は血の気が完全に引いた顔で、激しい眩暈と冷や汗に苛まれながら、一人絶望の淵に立たされていた。
だって、勘違いして『素直に降伏してすべてを差し出すなら命だけは助けてやる。皆殺しだな』って
……恥ずかしすぎるだろ、俺。




