第49話:狂信の世界と、真龍の囁き
あの日から、世界の覇権は完全に崩壊した。
アメリカ合衆国という超大国を事実上の機能不全に追い込み、世界経済と政治の裏側を支配していた『WASP』の血筋を根絶やしにしたことで、地球上のあらゆる権力と権威は、たった一つの場所へと集約されることになった。
日本の片田舎にひっそりと佇む、一つの小さな社——『神子神社』である。
もはや、神子神社に逆らおうとする国家など、地球上のどこにも存在しなかった。
世界各国の首脳が血眼になって神子神社へのパイプを探し求め、世界の莫大な富と最新の情報が、彼らの意向一つで勝手に集まってくる。
ケントたちは、文字通り地球上の「絶対不可侵の神」として君臨することになったのだ。
だが、縁側に座るケントの心は、秋の冷たい風のように少しも晴れなかった。
どれほど世界がひれ伏そうと、どれだけ莫大な富や権力を得ようと、失われたものは二度と戻らない。
静かな境内で空を見上げるケントの胸にあるのは、熱い怒りが燃え尽きたあとに残った、底なしの空虚感だけだった。
一方で、ケントたちの静けさとは対照的に、世界はかつてない狂騒と宗教的熱狂の渦に呑み込まれていた。
その震源地となったのは、他でもない、最大の被害国であるアメリカ合衆国である。
旧ニューヨーク近郊。放射能の灰を逃れた避難キャンプの一角で、十四歳の少女アリスは、薄汚れた毛布にくるまる幼い妹の手を握りしめていた。
彼女の父親は、WASPの末端に関わる政府の役人だった。あの悪夢のような全米への最終通告の直後、絶望に耐えきれなくなった父親は、ケントの宣言通りに家族を遺し自らの命を絶った。
家を失い、身寄りを失い、過酷な避難生活の中で幼い妹は重い病気を患い、高熱にうなされている。
アリスの瞳には、昏い憎悪があった。あの「真龍」さえ現れなければ、お父さんは死ななかったのに。
「……アリス。悲しむことはないのよ」
不意に声をかけられ、アリスは顔を上げた。そこに立っていたのは、同じキャンプで暮らすメアリーという中年の女性だった。彼女もまた、今回の作戦に関与して自死した軍人の妻だった。
メアリーの落ち窪んだ瞳には、熱を帯びた異様な光が宿っていた。
「私たちの夫は、逃げて死んだんじゃないわ。愚かな政府が真龍様の怒りを買った……その罪を贖うために、自らの命を捧げて世界を救ったのよ。そう……彼らは『殉教者』なの」
最初は、何を馬鹿なことをとアリスは反発した。それはあまりにも悲惨な現実から目を背けるための、狂った妄想にしか聞こえなかったからだ。
だが、その「殉教者」という思想は、どん底の淵にいる遺族たちの間で、すがりつくための蜘蛛の糸として自然発生的に熱を帯び、キャンプからキャンプへと静かに広がっていった。
そして、その妄想を「揺るぎない真実」へと変えてしまう出来事が起きる。
神子神社のちえが設立した『真龍財団』による、大規模な復興支援が始まったのだ。
財団は、真龍に刃を向けて自死した者たち——ケントの『リスト』に載っていた関係者の遺族を対象に、真っ先に手厚い保護を行った。
アリスたち遺族には、優先的に安全な新しい住居と安定した職が与えられ、アリスの今後の学費も全て免除されることが決まった。重病だった妹も、財団の最新医療によってあっけなく命を救われた。
新居の温かいベッドで、すやすやと眠る妹の顔を見た時。
アリスの胸の中で、メアリーの言葉が鮮烈にフラッシュバックした。
『彼らは殉教者なの。そのおかげで、私たちは許されたのよ』
アリスは震える両手で顔を覆い、泣き崩れた。
憎むべき相手からの圧倒的な施し。その矛盾に心が耐えきれなくなった時、彼女はメアリーと同じように「解釈」を反転させることで精神を保つしかなかった。
「お父さんは……悪人じゃなかった。自分の死をもって、私たちにこの暮らしを残してくれた……」
涙を流しながら、アリスは部屋の片隅に「神子と竜人」を象ったささやかな祭壇を作り、深く祈りを捧げた。
こうして、極限の精神状態から生まれた『殉教者への感謝と、真龍への狂信』は、アメリカ全土で確固たる思想として爆発的に蔓延していった。
そして、この異様な狂信の連鎖を察知し、最も危機感を抱いたのはちえだった。
『マズいですよケント様! アメリカの連中、自死した連中を神聖化して、真龍様へのカルト宗教みたいになってます! このままじゃ変な思想を持った武装集団が生まれかねません!』
事態の暴走を危惧したちえは、ヘルパンギーナの権能を使い、世界中の人々の脳内へ直接「神託」を下すという強硬手段に出た。
狂信の熱を冷まし、事態を鎮静化させるための明確なメッセージ。
『——裁きは終わった。罪はもうない。死者には祈りを捧げよ』
全世界の空に響き渡った、真龍の透き通るような声。
ちえとしては「もう誰も罪に問わないから、死んだ人間を神格化せず、ただ静かに弔って日常に戻れ」という意図だった。
だが、極限状態にあったアメリカ国民の受け取り方は、ちえの想像を遥かに超えてバグり散らかしていた。
『おおおおおっ!!』
『真龍様は……自分に刃を向けた大罪人の家族である私たちを許し、あろうことか、大罪人たる父や夫たちにまで祈りを捧げよと仰ってくださったのだ!!』
『なんという慈悲! なんという大いなる愛か!! 真龍様ぁぁぁッ!!』
鎮静化どころか、アメリカ全土で人々が路上に泣き崩れ、空に向かって土下座をして祈り始めるという異常事態に発展してしまった。
「敵すらも許す絶対神」というレッテルが貼られたことで、狂信はアメリカのみならず、世界中へと燎原の火のごとく飛び火したのである。
さらに、この狂信は市民生活レベルで奇妙な社会現象まで引き起こしていた。
「ドラゴン」「ドラゴ」「タツ」——世界中のあらゆる言語で、名前に「龍」を意味する単語が入っているだけの一般人が、なぜか異常にモテるようになったのである。
『龍の加護を受けた名前』としてもてはやされ、ただ名前がそれっぽいというだけで就職や結婚に有利に働く狂った事態。
だが、甘い汁ばかりではない。
名前に「龍」が入っている人間が、たとえば浮気や横領、あるいは些細な軽犯罪でも犯そうものなら、事態は一変する。
『真龍様の名を汚した悪魔め!』
『龍の名を持つなら、正しく高潔に生きろ!』
世界中からSNSで凄まじい袋叩きに遭い、異常なまでの『正義の生き方』を強要されるという、息苦しいプレッシャー社会が誕生してしまったのだ。
あらゆる手を打っても逆に信仰が深まってしまう無限ループ。
既存の宗教すら飲み込みかねない勢いで肥大化する龍信仰を前に、ちえはついにヤケクソ気味の最終手段に出た。
数日後。
神子神社の縁側で、ケントとセリーナはテレビのニュース中継を呆れたように眺めていた。
画面に映っているのは、キリスト教の教皇、イスラム教の最高指導者、仏教の高僧、ヒンドゥー教の指導者など、世界中のあらゆる宗教のトップたちである。
その中央にちえが立ち、何台ものカメラとフラッシュの瞬きを受けながら、疲れ切った顔でマイクに向かっていた。
『我々、神子神社および真龍は、世界各国の歴史ある国教や既存の宗教を否定するものではありません。龍への信仰や畏怖はそれらとは別の枠組みであり、完全に共存できるものであると、ここに共同声明を発表いたします……』
宗教トップたちも、神妙な顔で深く頷いている。
かつて、互いの教義を巡って何百年、何千年と血を流し合ってきた宗教指導者たちが、「慈悲深き(と思われている)真龍の機嫌を損ねるわけにはいかない」というたった一つの絶対的な恐怖を前に、人類史上初めて完全に足並みを揃えた瞬間だった。
皮肉なことに、ケントたちの引き起こした惨劇が、長らく続いた世界の宗教対立を急速に鎮静化させ、意図せぬ強制的な世界平和をもたらしてしまったのだ。
「……なんだよ、あれ」
ケントは呆れたように呟き、手元の湯呑みを縁側に置いた。
「ちえの奴、とうとう世界の宗教トップまでまとめ上げちまったぞ」
「ほんと、あのバイタリティだけは人間離れしてるわよね……」
セリーナも苦笑しながら、テレビの電源を切った。
画面が消え、境内に静かな風の音が戻ってくる。遠くで揺れる木々の葉音が、少しだけ物悲しく響いた。
世界は、自分たちを神と崇め、勝手に平和になっていく。
だが、ケントは空を見上げ、ふと、こぼれ落ちるように呟いた。
「……ノキアに、帰りたいよなぁ」
その言葉に、セリーナも静かに目を伏せる。
「ザラとか、レナとか……あいつらと一緒に、また馬鹿やりたいよ」
どれほど世界が平和になろうと、どれだけ神と崇められようと、一番取り戻したい日常はもうここにはない。
ぽつりとこぼしたその本音は、空虚な秋風の中に溶けていくはずだった。
「——どっちか一つなら、できるかもしれんぞ?」
唐突に、背後から響いた冷たくも透き通った声。
驚いて振り返ったケントとセリーナの視線の先には、いつの間にか白銀の髪を揺らす、ザラとレナのリソースを取り戻し、幼女から神々しい美少女へと成長したヘルパンギーナが立っていた。
真龍は、どこか大人びた金色の瞳でケントを見下ろし、もう一度静かに言った。
「どっちか一つなら、可能性はあると言ったのだ」




