第40話:ヘルの空間転移と嫁の尊厳
午後四時。神子神社の社務所。
未確認の怪物との死闘、そして合衆国政府への事実上の宣戦布告。
世界を揺るがすであろう最悪の出来事から数時間後だというのに、社務所の空気はひどく間の抜けたものだった。
テーブルにはちえが淹れた麦茶と、近所のスーパーで買ってきた大袋の煎餅が置かれている。
ザラは大剣の血脂を拭い、セリーナは炭化した袖の処理に頭を悩ませ、レナはメイスの柄を磨いていた。
「で、だ」
煎餅をかじりながら、ザラが呆れたように俺を見た。
「アンタ、さっき廃工場で『ホワイトハウス吹き飛ばしに行く』とか最高にイキった台詞吐いてたけどさ。どうすんの。日本の空港、もう完全に封鎖されてるよ」
「……」
痛いところを突かれた。
あの時はパミルをブチ殺した直後で、アドレナリンが変な方向に回っていたのだ。
「まあ、最悪の場合は横田基地あたりにカチ込んで、米軍の輸送機を物理でハイジャックしてパイロットを脅せばいいかと思ってたんだが……冷静に考えると、めちゃくちゃ面倒くさいな」
「ダメですよ。途中で撃ち落とされたらどうするんですか。ケント様は無事でも私達は海に真っ逆さまですよ?」
レナがジト目で突っ込んでくる。正論すぎて言い返せない。
そんな俺たちのやり取りを、縁側に座って聞いていた幼女が、ふんと鼻を鳴らした。
「お主ら、相変わらず脳筋じゃのう」
水色のスモックを着た真龍、ヘルパンギーナだった。その隣には、同じくスモック姿のナミちゃんがちょこんと座って、仲良くオレンジジュースを飲んでいる。
「なんだよ、ヘル。お前になんか名案でもあんのか」
「ふふん。お主らの戦い、我はここからずっと『見て』おったからな」
「……見てた?」
俺が首を傾げると、ヘルは尻尾を揺らして得意げに胸を張った。
「当たり前じゃ。お主らの失った足や腕を再生させたのは、我が真龍のリソースぞ? つまり、お主らの身体は我の一部。視覚も感覚も、我はいつでも共有できるというわけじゃ!」
「へえ、そいつは便利だね」
ザラが感心したように頷く。
「で、だ。あの金髪の小童が使っておった『次元の揺らぎ』とやら。あれはなかなか面白いことをしておったが、あんなちまちました空間の歪みなど、真龍たる我からすれば児戯に等しい」
ヘルは立ち上がり、小さな指をビシッと俺に突きつけた。
「我が空間を繋いでやる! 座標さえ正確に分かれば、アメリカだろうが地球の裏側だろうが、一瞬で直通の『揺らぎ』を開いてやるぞ!」
おお、と俺たちは顔を見合わせた。さすがは真理の化身。頼りになる。
が、レナがすぐに冷や水をぶっかけるようにため息をついた。
「……で、誰がアメリカの『正確な座標』なんて知ってんのよ。一度行った場所ならともかく、行ったこともないホワイトハウスの座標なんて誰も分かんないでしょ」
「うぐっ……」
ヘルの尻尾がしょんぼりと垂れ下がる。
確かにその通りだ。空間を繋ぐには、出発点と到着点の厳密な位置関係が必要になる。いくら真龍の魔力があっても、行き先の『明確な住所』が分からなければ扉は開けない。
がっかりする俺たちの空気を打ち破るように、明るい声が響いた。
「ヘルちゃん、これならどうー?」
ナミちゃんが、託児所で遊んでいたらしいタブレットを掲げて見せた。
画面に映っていたのは、青い地球儀のアプリだった。小さな指でスワイプすると、景色がズームされ、あっという間に見知らぬ街の風景が立体的に表示される。
「おっ、ナミちゃん。ストリートビューで遊んでたのか」
俺が覗き込むと、画面にはホワイトハウスの全景がくっきりと映し出されていた。
――その瞬間、俺の脳裏に電流が走った。
「……待てよ」
俺はタブレットを手に取った。
「Google Earthのストリートビュー……ただの写真じゃない。これには、人工衛星が計測した『極めて正確なGPS座標(緯度・経度・標高)』のデータが完全に紐付いてる!」
俺はヘルを振り返った。
「ヘル! この画面のデータを、俺の視覚経由で読み取れるか!?」
「ん? う、うむ、これくらいなら……」
ヘルが目を閉じ、意識を集中させた。俺の目を通して、タブレットに表示されたホワイトハウスのGPS座標データが、真龍の演算領域へと直接流れ込んでいく。
現代科学が組み上げた精緻な座標データと、真龍の圧倒的な魔力。
その二つが完全にリンクした瞬間。
――ゴアァッ、と。
社務所の真ん中の空間が、円形に大きくひしゃげた。
音もなく開いたその『次元の揺らぎ』の向こう側には、タブレットの画面と全く同じ、芝生の広がるホワイトハウスの正面玄関が、夜の闇の中にくっきりと見えていた。
「「「おおーっ!」」」
ザラとセリーナが感嘆の声を上げる。
「すごいじゃない、ヘル! やればできるじゃない!」
レナに頭を撫でられ、ヘルは「えっへん!」とふんぞり返った。
「ふははは! 褒めよ、もっと褒めるがよい! これで移動の問題は解決じゃな!」
「ああ、上出来だ。これなら軍隊に気づかれることなく、直接大統領の寝首を掻きに行ける」
俺も満足げに頷いた。これでアメリカへの足回りは完璧だ。
しかし。
はしゃぐ俺たちの横で、レナだけが何かに気づいたように、スゥッと目を細めていた。
「……ところでさ、アンタ」
レナが、ヘルの頬をツンツンと突きながら低い声を出した。
「私らと『視覚と感覚共有』って言ったわよね」
「う、うむ。そうじゃが」
「……まさか、夜もじゃないでしょうね?」
ピシリ、と。
社務所の空気が、物理的に凍りついた。
セリーナが、ハッとして顔を真っ赤に染め、両手で口を覆う。
「あちゃー……そうかぁ。そりゃそうだわな」
ザラが、額に手を当てて天を仰ぎ、乾いた笑いを漏らす。
俺は、あまりの事態に思考が停止し、完全に『無の顔』になっていた。
そんな中、空気を全く読まない純度100パーセントの無邪気さが、最後の一撃を投下した。
「あー、それねー!」
ナミちゃんが、ジュースのストローを咥えたまま、ニコニコと笑って言った。
「ヘルちゃん、この前言ってたよー! 夜にレナねーちゃんがずっとおっきい声で叫んでて、うるさくて眠れないんだーって!」
静寂。
完全な、静寂だった。
レナが、無言で立ち上がった。
前髪で表情は見えない。だが、その背中から立ち上るどす黒いオーラは、先ほどのパミルを遥かに超える絶望的なプレッシャーを放っていた。
「ひぃっ!?」
生命の危機を感じ取ったヘルが、ポンッと音を立てて巫女姿から人間大の白い龍へと変化し、縁側から上空へ向かって全力で飛び立った。
「ま、待てレナ! 我は何も悪くな――」
「逃・が・す・かァァァァァァァァァッ!!」
ズドォォォォォォォォォンッ!!
レナが、手元にあった二十トンのメイスを全力で空へ向かって投擲した。
それは完璧な対空砲火(地対空ミサイル)の軌道を描き、空の彼方へ逃げようとした白い龍の脳天にクリーンヒットした。
「ぎゃあああああああああっ!?」
哀れな真龍はきりもみ状態で墜落し、裏山の木々を薙ぎ倒しながら落下した。
「待ちなさいこのクソトカゲェェェェ!!」
怒髪天を衝くレナが、メイスを取り返しながら裏山へと突進していく。
直後、巫女姿に戻って泣きべそをかきながら逃げ惑うヘルと、鬼の形相で追いかけるレナの追いかけっこが始まった。
「うわああああん! ごめんなさいじゃー! 悪かったのじゃー!」
「今日という今日は許さないわよ! デリカシーってものを教えてやるわ!」
「ひぐっ、やめっ、あだっ、痛い、痛いぃぃぃっ!」
結局、本殿の裏に追い詰められたヘルは、レナに首根っこを捕まれ、そのまま膝の上にうつ伏せにさせられて、情け容赦のないお尻ペンペンの刑に処されたのだった。
「パンッ! パンッ! パンッ!」
「うぎゃあああ! 痛い! 痛いんじゃあああ!」
縁側からその様子を眺めていたナミちゃんが、心配そうに首を傾げる。
「ヘルちゃん、大丈夫ー?」
「ううぅ……お尻ペンペンとは……我は真理を統べる真龍なのにぃぃぃ……」
真っ赤になったお尻を押さえながら、ヘルが情けない声で泣きじゃくる。
「……ま、自業自得だな」
俺は、無の顔のまま麦茶をすすりながら、平和な日本の夕暮れを眺めていた。
とりあえず、アメリカへ行く前に、もう一つ解決しなければならない深刻な『夜のプライバシー問題』が増えたことだけは、間違いなかった。




