第38話:次元の揺らぎと、届かない刃
ハリス大尉にとって、この地下区画への「報告業務」は、軍歴の中で最も気の重い任務だった。
「――交渉は、失敗した、だと?」
ソファに腰掛けて窓の外の夜景を眺めたまま、少年はこちらを一瞥もしない。
「は……。相手側は、こちらの制裁カードを一切意に介さず……」
「くだらん」
パミルが、くるりと振り返った。
無邪気な笑顔だった。同年代の子供が、誕生日の朝に浮かべるような。だからこそ、ハリスの背筋は凍りついた。
「東洋の島国の、まがい物の神。あんなものに我が国が譲歩するなど、あってはならん。……案ずるな。我が行けば、それで済む話だ」
(まずい)
「し、しかし! 貴殿の出動は、上層部がまだ許可を――」
「許可?」
声が、わずかに低くなった。
同時に、ハリスの足元の床が、音もなく円形に消え失せた。
切断ではない。破壊でもない。そこにあったはずのコンクリートが、削られた形跡も、破片も、粉塵も残さず、「最初から無かったこと」になっていた。爪先が数センチずれていたら、自分の足も同じようになっていただろう。
「ひっ……」
「私は神を理解した者だ。我が国の意志こそが、我が意志。それ以上の許可が、どこに要る」
ハリスは敬礼すらできず、ただ首を縦に振った。
その夜。
一機のSR-71ブラックバードが、いかなる記録にも残らぬまま、静かに極東の島国へと針路を向けた。
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「――未確認の飛行体が、太平洋上から日本領空に侵入しました。速度がおかしいです、マッハ三以上。自衛隊のレーダーは捉えていますが、追える機体がありません」
タブレットを握りしめた沙織ちゃんが、本殿に駆け込んできて早口にまくし立てた。
「降下地点の予測は、この近辺です。……間違いなく、合衆国からの『返事』かと」
「へえ。交渉決裂から三日で武力行使か。せっかちな国だな」
俺は湯呑みを置いて、のんびりと立ち上がった。
正直に言えば、こうなるだろうとは思っていた。金で殴って通じない相手に次に何をするかなんて、どこの国も同じだ。
「ちえちゃん、職員は全員屋内退避な。ヘルとナミちゃんは託児所から絶対に動かすなよ。……行くぞ、お前ら」
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神子神社から二キロほど離れた、廃工場の跡地。
割れたコンクリートから雑草が突き抜けた荒れ地の真ん中に、そいつは立っていた。
サイズの合わない軍用コートを羽織った、十二歳ほどの少年。金髪が、風もないのに微かに揺れている。
「――ここら辺で良いか」
一目見て、背筋の産毛が逆立った。
異世界で真龍と殺し合った時に似ている。いや、違う。あの時は少なくとも「巨大な生き物と戦っている」という実感があった。目の前のこれは、人の形をしているのに、そこだけ世界の縫い目がほつれているような、据わりの悪い気配がする。
「アンタが、うちの経理に泣かされて帰った特使サマの、後始末かい?」
ザラが大剣を担いで一歩前に出る。緊張感がまるでない。いつものことだ。
「後始末? いいや」
少年は、無邪気に首を傾げてみせた。
「私は、私の意志で来た。お前たちが、我がアメリカに逆らったと聞いてな。……安心しろ。この国を滅ぼしはしない。神に逆らった者だけを、正しく片付けに来ただけだ」
「はっ。餓鬼が、大した口だね」
ザラが笑い、地を蹴った。
音より速い踏み込み。ノキア時代を超える極意に到達した、災厄の女帝の一閃。首から胴を、鎖骨ごと断つ軌道。
――斬った、と思った。
「は?」
ザラの大剣は、何の手応えもなく空を薙いでいた。
俺の目にもはっきり見えた。刃は確かに通った。通ったのに、その通り道にあったはずの空間だけが、一瞬だけこの世から抜け落ちていた。
「ふむ。良い踏み込みだ。だが無駄だ」
少年が、掌をゆるく開く。
「これが我が権能――『次元の揺らぎ』。私に届く座標は、私が消す。お前たちの物理法則など、私の前では前提から成立しない」
「言ってろォッ!」
レナが飛び込み、二十トンの鉄柱メイスを地面ごと薙ぎ払った。
凄まじい破砕音。コンクリートが数十メートルにわたって砕け、瓦礫が噴水のように舞い上がる。
その中心で、少年は埃ひとつ被らずに立っていた。
「同じことだ」
「……嘘でしょ」
レナの顔から笑みが消える。
「じゃあ、これはどうかしら」
セリーナが指を鳴らした。
少年の全身を、青白い業火が包む。コンクリートを飴のように溶かす火力レベル10。宮内庁の神子を数秒で灰にした、狂女神の本気だ。
だが炎は、肌に触れる寸前で不自然に軌道を折り曲げた。
燃えるべき場所そのものが剥ぎ取られて、別の場所に貼り直されたように。
「え――」
セリーナの右腕が、火を噴いた。
「あぐっ……!?」
「セリーナ!」 「ちっ、下がりな!」
ザラが庇って前に出て、レナがセリーナを引きずり下げる。白い腕が炭化し、袖が燃え落ちていた。
(……炎の逃げ場を、術者の座標に繋ぎ直しやがった)
「レナ! 挟むよ!」
ザラが吼えた。
さすがに嫁たちも、まともにやって通じる相手ではないと理解したらしい。ここからは、異世界で幾度となく修羅場を潜り抜けてきた連携だ。
ザラが正面、レナが背後。同時に踏み込み、大剣とメイスが前後から少年を挟み込む。どちらか一方を消したなら、もう一方は必ず届く――はずだった。
「ふむ。数を増やせば良いと?」
少年は、動かなかった。動く必要がなかった。
ザラの刃が消え、同時にレナのメイスも空を切る。
それだけではない。振り抜いた勢いのまま、二人の得物は互いに向かって走った。
「――ぐっ!?」
咄嗟にザラが大剣を引き戻し、レナがメイスの軌道を無理やり地面に叩きつける。二人は自らの武器で相打ちになりかけ、体勢を大きく崩した。
「そら。踊りが雑になってきたぞ」
さらに、セリーナが放った追撃の炎の槍が、途中で消え――今度は倒れかけたレナの足元から噴き上がった。
「あっつ……! ちょっと、セリーナ!」 「私じゃないわ!」
滅茶苦茶だ。
こいつは、攻撃を防いでいるんじゃない。攻撃の「行き先」を書き換えて、こちらの攻撃をこちらの味方に配り直している。手数を増やせば増やすほど、自分たちが自分たちを削る。
三人がかりが、三人がかりであるほど不利になる。そんな戦場は、異世界にも無かった。
「下がれ、お前ら」
俺は前に出た。
物理も、魔法も通らない。当たる直前に「当たる場所」が消えるなら、威力も精度も意味がない。
ならば。俺は片手を上げた。
俺の真骨頂、『座標指定』。相手の体内に直接座標を打ち込み、そこに魔法を発生させる。鱗も装甲も硬化も関係なく、内側から殺す。魔王としての俺の必殺技だ。
心臓の座標を指定し、爆鳴気を叩き込む。
――発動しなかった。
正確には、発動する直前に「指定した座標」そのものが揺らいで、消えた。
「ほう。今のは面白い技だ」
少年が、初めて感心したように目を細める。
「内側から殺すか。なるほど、私がいなければ、この星で最も厄介な男だったろうな」
「……厄介なのは、お前の方だよ」
じりじりと足を送りながら、俺は頭の中で必死に計算を回していた。
(座標指定が消される。物理も魔法も届かない。だが――消せるってことは、こいつは「そこに何かが発生する」と認識してから消してる。つまり、認識できないものは消せない)
その思考を断ち切るように。
目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
「――ッ!!」
インナーバフ全開、全力で後方へ跳ぶ。コンマ数秒。
避けた。避けた、はずだった。
ずるり、と。
左足が、元の場所に立ったままだった。
「……は?」
膝から下じゃない。太腿の半ばから先が、俺の身体から切り離されて、切断面を上に向けたまま、その場に直立している。
痛みは、一拍遅れてやってきた。
「ぐ、が……ああああああああっ!?」




