第37話:クリスタルと、神を理解した男
その通知が端末に届いた時、コワルスキーは深夜の当直室で、冷めたコーヒーを飲んでいた。
『PM-01、収容区画より移動。追跡を推奨せず』
指から、紙コップが滑り落ちた。
(出た)
彼は椅子から立ち上がることもできず、ただその一行を眺めていた。追跡を推奨せず。なんと正直な文面だろう。追跡できないから、推奨しないのだ。
二年だ。
この二年間、政府はあれを「収容」していることになっていた。分厚い隔壁。三重の生体認証。地下八十メートル。予算報告書には、そう書かれている。
嘘だ。
あの区画の壁を作った人間も、扉を設計した人間も、誰一人としてそれが役に立つとは思っていない。最初の月に実証済みだった。あれは、隔壁を破らない。破る必要がないからだ。「そこに壁がある」という事実の方を消してしまえばいい。
収容予算の実態は、警備でも封じ込めでもなかった。
――機嫌を損ねないための費用である。
上等な食事を与え、望む書物を与え、時折こちらから恭しく世界情勢を報告してやる。そうしていれば、あれは大人しく座っていてくれた。二年間、誰もその事実を報告書に書かなかった。書けば、自分たちが何を野に放ったのかを認めることになるからだ。
あの日、あの部屋にいた研究員は、コワルスキーを含めて九人。
三人が半年以内に退職した。二人が転属を願い出て、どこへ行ったのか誰も知らない。一人は自宅の車庫で死んでいるのが見つかり、事故として処理された。
残った三人のうちの一人が、自分だった。
なぜ残ったのかと問われれば、答えは一つしかない。あれを知ってしまった人間が、あれから離れた場所で安心して眠れるはずがないからだ。せめて、いつ動き出すかだけは見ていたかった。
――そして今夜、見ていた甲斐もなく、それは動いた。
コワルスキーは、震える手で額を押さえた。
あの日から二年。彼は何度も、あの瞬間を夢に見ている。
自分たちが何を作ってしまったのか。いや――違う。
作ったのではない。招いてしまったのだ。
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二年前。合衆国、某所の地下軍事研究施設。
その日、主任研究員のコワルスキーは、いつも通りの退屈な計測記録を取っていた。
「経過は安定。細胞の定着率も規定値内。……次の段階に進める」
人造神子技術『ミソル』の適合実験。第一二七号被験体。
拘束台の上で天井を見つめているその男を、コワルスキーは少しだけ気に入っていた。
マーカス・エヴァンス軍曹、三十四歳。
これまでの被験体は、死刑囚か、多額の借金を抱えて売られてきた人間ばかりだった。当然だ。生きて出られた者が一人もいない実験に、誰が好き好んで志願する。
だがエヴァンスは、書類上も実態も、正真正銘の志願者だった。
適性検査の日、コワルスキーは職業的な好奇心から尋ねたことがある。なぜ志願した、と。
『誰かがやらなきゃならんのでしょう』
エヴァンスは、なんでもないことのように答えた。
『だったら、嫌々連れてこられた奴じゃなく、自分で決めた人間がやるべきだ。そうでしょう、博士』
馬鹿な男だ、とコワルスキーは思った。
国というものは、そういう男から順番に使い潰していく。それを知らないから、そんなことが言える。
「始めます。……エヴァンス軍曹、何かあれば言ってくれ」
「了解。お手柔らかに」
そして、投与が始まって十七分後。
「ぐ、があああああああああっ!!」
拘束具に固定されたエヴァンスの身体が、ありえない速度で膨れ上がり始めた。
(またか)
コワルスキーは、内心で舌打ちをした。被験体が制御を失い、肉の風船のように膨張して破裂する事故は、もはや日常茶飯事だ。掃除の担当者にまた恨まれる。
それでも、少しばかり惜しいとは思った。あの男は、悪い人間ではなかった。
「拘束具が保たない! 区画を封鎖しろ!」
けたたましい警報。逃げ出す部下たち。コワルスキーも扉へ走りかけ――そこで、足が止まった。
膨張したエヴァンスの腕が、拘束台の脇に置かれていた「あれ」に触れたのだ。
半世紀以上前、政府がとある先住民の聖地から接収したクリスタル。以来ずっと「用途不明・反応なし」と記録され続け、どの計測器にも一度として反応を返さず、いつしか誰も気に留めなくなり、実験区画の隅で埃をかぶっていた、ただの石ころ。
その表面に、膨張した指先が触れた瞬間。
暴走が、止まった。
「……は?」
風船のように膨れ上がっていた肉体が、まるで凪いだ海のように静止する。
コワルスキーは、自分の目を疑った。今しがたまで人体組織の崩 壊指数を振り切っていた計器が、すべて正常値に戻っている。ありえない。細胞は一度壊れたら元に戻らない。それが生物学の大前提だ。
エヴァンスは、ゆっくりと身を起こし、震える手でクリスタルを握りしめた。
その顔に浮かんでいたのは、痛みでも恐怖でもなかった。
恍惚だった。
「……見える。ああ、そうか。そういうことか」
「エヴァンス軍曹? 何を言っている」
「これだ。これが、答えだ。博士、あなた方はずっと間違えていた」
嫌な予感がした。コワルスキーは、初めて研究者としてではなく、一匹の生物として危険を感じて叫んだ。
「待て、それは未確認のオーパーツだ! 勝手に触るな、離せ!」
エヴァンスは、その制止を一瞥もしなかった。
クリスタルを口に運び――そのまま、丸呑みにした。
直後、部屋を純白の光が満たした。
音は、しなかった。
代わりにコワルスキーが感じたのは、何者かの巨大な『意志』とでも呼ぶべきものが、施設全体を静かに押し包む感覚だった。壁が軋み、計器という計器が一斉に焼き切れる。逃げようと思った。思っただけで、指一本動かせなかった。
それは敵意ではなかった。悪意でも、憎悪でもない。
もっと単純で、もっと絶望的なもの。
――あまりにも巨大なものが、こちらを『見た』という、ただそれだけの感覚だった。
彼はその時、生まれて初めて、神という単語を比喩ではないものとして理解した。
やがて光が収まった時。
引き千切られた拘束具の中心に立っていたのは――十二歳ほどの、少年だった。
金色の髪。滑らかな肌。傷も、火傷も、注射痕も、三十四年分の人生の痕跡も、何一つ残っていない。
ただ、その瞳だけが、エヴァンス軍曹のものだった。
「……我は、神を理解した」
少年は、誰に言うでもなく、静かに告げた。
あどけない顔立ちに、狂気じみた確信の光だけが宿っている。
コワルスキーは、その場に膝をついた。
そして、遅れて理解した。この男は、何も変わっていない。
誰かがやらなければならない。だったら、自分で決めた人間がやるべきだ。
――あの日、拘束台の上でそう言った男が、たった今、その「誰か」に必要な力を、手に入れてしまっただけなのだ。
少年は、震える研究員たちを見回し、そして満足げに微笑んだ。
「すべてを、我がアメリカに」




