第35話:来なくなった友達と、お揃いのスモック
神子神社の本殿の庭で、白い髪の幼女――竜人ヘルパンギーナは、縁側に座って空を睨みつけていた。
久保の一件、クレスト・キャピタルの一件、そして日本中を震え上がらせた報道機関への制裁。
立て続けに起きた血なまぐさい騒動が一段落し、神子神社の日常もようやく落ち着きを取り戻し始めていた矢先のことだった。
「……来ぬのう」
ヘルは、短い両足をぶらぶらと揺らしながら、何度目かのため息をついた。
いつもなら、土日はもちろん平日の夕方にも必ずと言っていいほど顔を出していた小さな親友――ナミが、ここ二週間ほど、ぱったりと姿を見せなくなっていたのだ。
「なんだい、辛気臭い面してんね」
大剣の手入れをしながら通りかかったザラが、億劫そうに片眉を上げた。
「……ナミが来ぬのじゃ。連絡先も知らんし、公園にも行ってみたが、姿がない」
「あー……。まあ、人間の子供だし、急に忙しくなることだってあるだろ」
「うむ、そうかもしれぬが……」
ヘルは、自分の小さな胸の奥にモヤモヤと渦巻く感情の正体が分からず、もどかしそうに尻尾で地面を叩いた。
異世界を統べた真理の化身である自分が、たかが人間の子供一人の不在にこれほど心をかき乱されるとは。
だが、あの小さな手で貰ったおにぎりの温かさを、ヘルはどうしても忘れられずにいた。
その様子を、縁側の奥から見ていた賢人が、静かに湯呑みを置いた。
「……ヘル」
「な、なんじゃケント」
「行くか、公園より向こうまで」
賢人の言葉に、ヘルはハッと顔を上げた。
古びた木造アパートの二階。チャイムを鳴らすと、少しやつれた様子の母親が顔を出した。
「あら……いつも公園でナミがお世話になっている……」
「あ、いきなりすみません。最近ナミちゃんを見かけないので、うちの子が心配していまして」
賢人がヘルを指し示しながら言うと、母親は申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんなさいね、心配かけて。……実は先月から、保育園に通い始めたの。主人が入院してから、私も働く時間を増やさなきゃいけなくて。ナミも、もう六歳だし、そろそろ集団生活に慣れさせようと思って。でも、慣れない場所でずいぶん気を張っているみたいで。帰ってくると、もうぐったりで」
奥の部屋を覗くと、ナミがソファに埋もれるようにして、ぼんやりとテレビを眺めていた。
いつもの公園でのはしゃぎっぷりはどこにもない。
「ナミちゃん……」
ヘルが声をかけると、ナミはハッとして顔を上げ、力なく笑った。
「あ……ヘルちゃん。ごめんね、最近全然遊びに行けなくて……。保育園、疲れちゃって……」
新しい環境。知らない先生、知らない子供たち。人見知りのナミにとって、それは想像以上に消耗する毎日だったのだろう。
公園でヘルと過ごす、あののんびりした時間さえ、今のナミには捻出する元気が残っていなかったのだ。
その帰り道。
「……我のせいじゃろうか」
ヘルが、ぽつりと呟いた。
「我が、人間の姿を貰ったばかりに、ナミは無理して我と遊ぼうとして……」
「バーカ。んなわけあるかい」
隣を歩くザラが、ヘルの頭を軽くはたいた。
「あの子はただ、新しい場所に慣れるので精一杯なだけだろ。誰のせいでもないさ」
賢人は、その後ろで黙って話を聞きながら、一人思案していた。
(……ナミの母親、パートか何かを探してる感じだったな。それに、ナミが通ってる保育園、たしか母親の職場からも遠かったはず)
賢人の脳裏に、ふと閃くものがあった。
(そういえば……うちの神社にも、職員用の託児所があったな)
数日後。賢人は一人、ナミの母親を訪ね、ある提案を持ちかけていた。
「うちの神社で、事務のパートをやってみませんか」
「え……?」
突然の申し出に、母親は目を丸くした。
「ナミちゃんは、うちの看板娘みたいなもんの、大事な友達なんです。ヘルにとっても、ナミちゃんは初めてできた親友でしてね」
賢人は、頭を掻きながら続けた。
「うちの職場には、職員用の託児所があるんですよ。まだ小規模ですけど、先生も手厚いし、庭も広い。ナミちゃんが転園してくれれば、お母さんの職場のすぐ近くで、しかもよく知ってる友達もいる。……どうです? 悪い話じゃないと思うんですが」
「そんな、急に……」
母親は戸惑いながらも、その目にはわずかな希望の色が浮かんでいた。
遠い保育園への送り迎え、見知らぬ環境に一人で放り込まれる娘への不安、そしてなにより、家計と看病を一人で抱える負担。その全部を、少しでも軽くしてくれるかもしれない提案だった。
「……お願いしても、いいんでしょうか」
「もちろん」
賢人は、いつもの人懐っこい笑顔で頷いた。
それから一週間ほど経った、ある日の午後。
「……はぁ」
神子神社の広間の隅で、ヘルはまたしょんぼりと膝を抱えていた。
母親から仕事の話が進んでいることは何となく聞いていたが、詳細までは知らされていない。相変わらずナミには会えないままで、寂しさは募る一方だった。
「ヘル、ちょっと来い」
賢人が、何やら小さな紙袋を片手にやってきた。
「な、なんじゃ」
「いいから、これ着てみろ」
賢人が差し出したのは、水色の、可愛らしい小さなスモックだった。
「……なんじゃこれは。我にこんな幼子の服を着せて、どうしようというのじゃ」
「いいから、いいから」
ぶつくさ言いながらも、賢人に手伝われてスモックに袖を通すヘル。
「よし、似合ってるぞ。さ、行くか」
「どこへじゃ……」
賢人に手を引かれ、ヘルが連れて行かれたのは、本殿の裏手にある、こじんまりとした建物だった。元は倉庫だった場所を、ちえの発案で改装した、神子神社職員用の託児所である。
その入り口の前に、見覚えのある小さな人影が立っていた。
「……あ」
同じ水色のスモックを着た、ナミだった。
「ヘルちゃん!」
「ナ、ナミ……!? な、なぜここに……!」
目を丸くするヘルに、ナミが満面の笑みを浮かべる。
「今日からね、ここに通うことになったの! お母さんも、この近くで働くんだって!」
状況が飲み込めず立ち尽くすヘルの背中を、賢人がぽんと押した。
「今日からナミちゃんも、ここの園児だ。お前も、今日からここの通園組な」
「な、なんじゃと……!? そ、それはつまり……」
「毎日会えるってことだよ」
賢人の言葉に、ヘルは呆然とナミを見つめ――やがて、その小さな顔が、くしゃりと歪んだ。
「うっ……ぐすっ……。な、なぜ泣かせるのじゃ、貴様は……」
「ヘルちゃん? どうしたの?」
「な、なんでもない! なんでもないぞ!」
涙をごしごしと拭うヘルの手を、ナミがそっと握った。
「行こ、ヘルちゃん! 今日からずっと一緒だよ!」
「う、うむ……! うむっ!」
お揃いの水色のスモックを着た二人は、繋いだ手を大きく振りながら、日差しの降り注ぐ園庭へと駆け出していった。
「……ケント様、ナイスです」
いつの間にか隣に来ていたレナが、親指を立てて賢人を見上げる。
「うるせ。誰にも言うなよ、恰好つかんから」
照れ隠しに頭を掻きながら、賢人は二人が笑い合う園庭を、いつまでも眺めていたのだった。




