第2話:魔法の小麦粉と、中年おじさんの有給休暇
日本のありふれた2DKのマンション。その寝室は今、かつてないほどの人口密度とカオスに包まれていた。
ぽっこりとお腹の出た四十三歳の中年男(俺)と、若返った絶世の美女三人、空中を飛び回る妖精、そして部屋の隅でガタガタと震えているイグアナサイズの真龍。
状況が全く飲み込めず、それぞれが困惑とパニックで騒然とする中――その渦を断ち切ったのは、意外にもこの中で一番ふわふわとしているレナだった。
「はいはいはーい! 皆さん、まずは落ち着いて状況の確認からしましょう!」
パンパンと手を叩き、まるで百戦錬磨の軍師のような顔つきで場を仕切り始める。
普段は発情期を持て余した獣のように俺に飛びついてくる彼女だが、こういう極限状態での適応力は異常に高い。今後、彼女はこの調子で意外と重要な方向性を提案する軍師的ポジションに収まっていくのだが……それはさておき。
レナの的確な提案により、俺たちは車座になって、まずはそれぞれの現状報告から始めることになった。
「とりあえず、体調は凄く良いわ。なんか、お肌や髪の調子まで過去最高にいいし」
そう言ってセリーナは、着ていた服の胸元を少しはだけて自身の肌を確認する。
異世界にいた時も若く見えていたが、今はどう見ても二十代半ばの瑞々しさだ。
「それに、昔ついた古い傷あともなくなってるわね」
「本当だ。アタシもすこぶる体調良いけど、変わったのはその位で……」
ザラが自分の褐色の腕を撫でながら首を傾げた瞬間。俺とセリーナ、レナ、そしてスーの四人は、彼女の顔を見て思わず声を揃えて叫んだ。
「「「「いや、眼の傷ゥゥ?!」」」」
「え? あ! なにこれ! 両目見えるよ! どおりでやたらと周りがくっきり見えると思ったんだよ!」
「「「「今アアアア?!」」」」
世界を揺るがす戦闘狂でありながら、己の身体の変化にここまで無頓着なバケモノが他にいるだろうか。俺たちの見事なユニゾンツッコミが、平和な日本のマンションに響き渡った。
「あの、身体のことはいいんですけど、さっき収納の腕輪からメイスを出そうとしたら、すごく出しづらいと言うか、詰まってる感じなんです」
次にレナが、腕輪を振りながら深刻そうな顔で報告をした。
「魔力は周囲にたっぷり感じるんですけど、ノキアとかに居る時とちょっと違うと言うか……うーん、同じ小麦でも、小麦そのものと、挽き終わった小麦粉って感じですかね?」
その直感的な表現に、妖精のスーが深く頷いた。
「レナの言う事は合ってるわ。さっきから私も魔力を集めてるけど、硬い殻に入ってるみたいな感じで、そのままじゃ十分の一も魔法に変換できないわね」
スーは俺の肩に降り立ち、周囲の空気を手で掴むような仕草をする。
「魔力を覆ってる器に、器と同じ波長を合わせて吸い上げれば、ヴェレツケールより濃いくらいだわ。でも、人間だと大分難しいわね。動きながらじゃ、かなり練習しないと厳しいかも。現実的なのは、静かな環境でじっくり魔力を貯めて、その溜まった中で魔法を使う事かな」
なるほど、分かりやすい。
地球の魔力は、挽いてない小麦のようなもので、そのまま使っても俺たちの体にはあまり吸収できないらしいのだ。
俺たちは普段、自前の魔力袋から引き出した魔力と、空気中の魔力を合わせて魔法を使っている。空気中の魔力を『1』とすれば、それに混ぜる自前の魔力は『0・3』程度だ。
だから、一万という俺の莫大な魔力量も、自前の魔力袋だけで賄おうとすれば、実質三千程度しか使えない計算になる。
さらに深刻なのは、回復量だ。
ノキアでは一秒間に『10』の魔力が自動回復していた。一日になおせば『八十六万四千』という無尽蔵の魔力源である。だが、この地球の環境では、なんと三分に『1』しか回復しない。つまり、一日二十四時間でたったの『480』だ。
俺の得意な体内への直接座標指定や循環できるインナーバフは使えるだろうが、広域殲滅魔法のような無茶撃ちはできない。かなり効率的なリソース管理を考えなければいけない。
そんな真面目な計算をしている俺に、レナが首を傾げた。
「じゃあ、ケント様は? どこかおかしいところはありますか?」
俺は壁掛け時計の日付と、ガラス窓に映る自分のたるんだ腹を見て、深く、深いため息をついた。
「……松本賢人、四十三歳。バツイチ」
「へ?」
「俺が前世で死んだ日の日付が、今日だ。俺は本来、今日の夜、会社で心筋梗塞を起こして死ぬはずの男だった」
そしてノキアに転生して、魔王として国を一つ滅ぼし、そこのトカゲと戦って自爆して死んだと思ったら、なぜか心筋梗塞を起こす直前の自分の部屋に戻っていた。
「見ての通り、腹は出てるし、おまけに俺は社畜だ。……これからどうしよう」
頭を抱える俺を見て、レナがなぜかゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ケント様って……その、『ザ・中年』って感じで、今までとは違うオス味がありますねぇ」
レナが俺のぽっこりお腹を熱を帯びた視線で見つめ、頬を染める。
「……そんな枯れたおじさんに、無理やり……イケます!!」
スパーンッ!!
小気味良い音を立てて、ザラの容赦ない平手がレナの後頭部にクリーンヒットした。
「痛ぁっ!?」
「バカ言ってないで現状をどうにかするよ! まあ、なっちまったもんは仕方ねえ! 稽古すりゃ、その腹もすぐに引っ込むさ! さあ、まずは外の様子を……」
ザラが快活に笑いながら、収納の腕輪から力任せに巨大な大剣を引きずり出し、肩に担いで玄関へ向かおうとする。
「イヤイヤイヤ!! ここ日本って国でな、すごく平和だからだれーも剣なんて持ってないの! そんな大剣持って外歩いてたら五分で通報されて捕まるから! 絶対やめて?!」
全力でしがみついて止める俺の横で、セリーナが冷静に口を開いた。
「そうよザラ。外に出る前に、まずはしなきゃいけないことがあるわ」
「? なんだい、セリーナ」
セリーナは無言で窓の外を指さした。
二階の窓から見下ろすアスファルトの歩道には、スーツを着たサラリーマンや、現代の洗練されたカジュアルな服を着て歩く女性たちの姿がある。
「私たちの服装は、この世界では明らかにおかしいわ。『《《仕方なく》》』服を買うべきじゃないかしら…《《仕方なく》》」
セリーナの言葉に、俺は改めて三人の姿をマジマジと見た。
ビキニアーマーのような露出度の高いアマゾネス風のザラ。
太ももが剥き出しになった、ファンタジー全開の騎士鎧姿のセリーナ。
そして、一九六〇年代のマリリン・モンローが着ていたような、背中がパックリ開いたアザとすぎるドレス姿のレナ。
……確かに、こんな格好の絶世の美女三人組を連れて外を歩けば、大剣を持っていなくとも別の意味で即座に警察を呼ばれるか、SNSで一瞬にして拡散されてしまうだろう。
「……分かった」
俺は深く息を吐き出すと、枕元にあった見慣れたスマートフォンを手に取った。
『あ、課長ですか? すみません松本です。……ええ、実は昨夜からちょっと熱がありまして……はい、申し訳ありませんが、今日は有給を使わせていただきたく……』
数時間前まで大国を滅ぼし、真龍相手に自爆テロを仕掛けていた男とは思えない、ペコペコとした作り声が部屋に響く。
妻たちは、黒い小さな板に向かって喋り続ける俺を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
こうして。
死ぬはずだった運命はどうしよう。仕事や戸籍はどうしよう。そもそも異世界ってええー!?
……といった、本来真っ先に向き合うべき重要な事案はすべて後回しにされ。
地球帰還の初日は、会社を有給で休み、妻たちのお買い物に連れて行かれることになったのだった。
……とりあえず、心筋梗塞防止にポーション飲んどこうかな




