第22話:悪夢の会議室と、魔王の乱入
葵商事の大会議室は、鉛のように重く、息が詰まるような絶望の空気に包まれていた。
事の発端は、物品管理部門に所属していた一人の社員だった。
そいつは神子であり、『完全記憶と複写』という権能を持っていた。紙の書類のみならず、一度目を通したPCのファイルやクラウド上のデータまで自身の脳内に複写できるという、情報化社会においては極めて厄介な能力である。
そいつはその権能を使い、社内のアクセスできる情報を片っ端から抜き出し、裏社会に売り捌いて小銭を稼いでいた。
本来、物品管理部門のデータなど大した金にはならないはずだった。
しかし不運なことに、そいつは最近、ちえが新たに課長に就任した新設部署へと配置換えになってしまったのだ。
ちえが統括する新部署は、美容と医療を包括的にデータ管理し、パーソナル美容のコース提案や、医療機関との連携による診断・検査の予約などを一手に引き受ける画期的なサービスを扱っていた。
当然、そこには顧客の膨大な『ディープな身体情報』や『医療データ』が含まれている。
もしその情報が流出した場合、一人当たりの損害賠償は優に百万円を超える。
そして、その神子の社員が不正に複写し、裏社会に持ち出した顧客データの数は――約二万人。
総額にして、二百億円以上の賠償が見込まれるという、会社が即座に消し飛ぶ規模の大惨事だった。
さらに最悪なことに、そのデータを買い取ったのは『トクリュウ(匿名流動型犯罪グループ)』と呼ばれる、凶悪な半グレと神子の混成組織だった。
彼らはデータの価値と葵商事の窮状を正確に把握し、堂々と会社に乗り込んできたのだ。
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「――というわけでだ。このデータを世に出されたくなきゃあ、百億円を用意しろって言ってんだよ」
会議室の上座で、トクリュウのトップである男が、革靴のままテーブルに足を乗せて傲慢に笑った。
周囲には、柄の悪い神子の護衛たちが数人、威圧的に立っている。
対する葵商事側は、社長不在の中、専務や担当部長といった上層部がズラリと並んでいたが、誰一人として口を開こうとしなかった。
百億円などという資金が会社にあるはずもなく、そもそも金を払ったところで、裏社会の連中がデータを完全に消去するという保証などどこにもない。
完全に詰んでいた。
上司たちが沈黙して震える中、矢面に立ってやむなく交渉のテーブルについていたのは、当事者の部署の長であるちえだけだった。
「……百億円の支払いは不可能です。それに、そちらがデータを破棄する担保がありません。交渉の余地はないと――」
「おっと、怖いねえ。だが、俺はアンタのそういうキツいところ、嫌いじゃないぜ?」
トクリュウのトップは、舐め回すような目でちえの全身を見つめた。
ピンと伸びた背筋。理知的な美貌。絶望的な状況でも折れない強靭なメンタルと交渉術。そのすべてが、彼の嗜虐心をひどく刺激していた。
「なあ、提案を変えてやろうか?」
男はニヤリと笑い、テーブルから足を下ろした。
「百億は免除してやる。データも返してやろう。……その代わり、そこのイイ女。お前が俺たちの『オモチャ』になれ」
ちえの肩がビクッと跳ねた。
「……ふざけないでください」
「ふざけてねえよ。お前一人の身体で、この会社と二万人の顧客が救われるんだ。安い取引だろ?」
男の言葉に、ちえは奥歯を噛み締め、上司たちの方を振り向いた。
こんなふざけた要求、会社として突っぱねるに決まっている。そう信じていた。
しかし。
「……せ、専務。どうしますか……?」
「う、うむ……会社を救うためには、背に腹は代えられん……」
「そうですね……。ここはひとつ、百田君の『個人の意思』ということで……」
部長と専務は、ちえから目を逸らし、あろうことか彼女を人身御供として差し出すことで保身を図ろうとしたのだ。
(……嘘、でしょ……?)
ちえの顔から、一気に血の気が引いた。
必死に会社のために働き、実績を上げ、この絶望的な交渉を一人で矢面に立ってこなしてきた結果が、これか。
信じていた組織に切り捨てられた絶望で、ちえの視界が真っ暗に染まった。
「ヒャハハ! 決まりだな! さあ来いよ、可愛がってやるからよォ!」
トクリュウのトップが下劣な笑い声を上げ、ちえの腕を掴もうと身を乗り出した。
ちえが恐怖で目を瞑った。
その、瞬間だった。
バンッ!!!
重厚な会議室の扉が、蹴り破られるようにして開け放たれた。
「――そこまでだ。ちえに触るな」
静かだが、絶対的な圧を伴う声。
入り口に立っていたのは、見慣れたスーツ姿の賢人と、その後ろに控えるジト目の美女だった。
賢人は、外で見張りをしていたトクリュウの一味をすでに捕獲・尋問し、この会議室で行われている胸糞の悪いやり取りをすべて把握した上で乗り込んできたのだ。
「なっ……! ま、松本ぉっ!?」
状況も読めず、部長が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「今は重要な会議中だぞ! お前のような平社員の部外者は、とっとと出てい――」
部長が賢人を指差した、その直後。
フッ、と賢人の姿がブレた。
インナーバフによる神速の移動。気づけば賢人は、入り口から十メートル以上離れた部長のすぐ真横に立っていた。
「……うるせえよ」
賢人は、冷酷な魔王の瞳で部長を見下ろした。
「部下を売って助かろうとする上司は、死ね」
ドゴァァァァァァンッ!!!
賢人の蹴りが、部長の太ももに容赦なく叩き込まれた。
凄まじい破砕音と共に、部長の大腿骨がへし折れ、ズボンを突き破って白い骨が空中に飛び出した。
「ぎゃあああああああああああああっ!!? ほ、骨が、俺の足がああぁぁッ!!」
会議室の床を転げ回り、絶叫して泣き喚く部長。
「コイツ、本当にやかましいな」
賢人はため息をつくと、のたうち回る部長の顔面を、革靴の踵で無造作に踏み砕いた。
グシャッ。
顎の骨が粉砕される生々しい音が響き、部長の絶叫が強制的にシャットアウトされて白目を剥いた。
あまりにも非日常的な暴力の連鎖に、会議室の全員が凍りつく中。
「ねえ旦那」
ザラが、空間収納から身の丈ほどもある大剣をズルリと引き抜き、嬉しそうに小首を傾げた。
「コイツら、斬っていいの?」
「あ、ああ、斬って良――」
「ちょ、ちょっと待って! 待って待って賢人さん!!」
我に返ったちえが、慌てて賢人とザラの間に割って入った。
「な、なんで松本さんがここに!? っていうか、何やってるんですか!?」
「ん?」
賢人は、血まみれの革靴を床で拭いながら、事も無げに言った。
「ちえちゃんを虐めたヤツへの報復。とりあえず、そのクソ専務も殺すし、見てただけの馬鹿な役員連中も、どっかの手足をもらうけど?」
「イヤイヤイヤ! おかしい、おかしいですって! 会社で殺人事件なんて起こさないでください!」
必死に止めるちえの横で、大剣を構えたザラが「えー……どうするの?」と不満げな顔で賢人を見つめている。
「仕方ないなぁ。ちえちゃんがそう言うなら、ウチの社員は生かしてやるか」
賢人は肩をすくめると。
今度は、完全にポカンと口を開けて固まっている、トクリュウのトップの方へと冷ややかな視線を向けた。
「で? てめえが、クソ生意気にもウチの会社に喧嘩を売ったバカで……そこのゴボウみたいなアホが、ウチの裏切り者の社員かよ?」
会議室の空気は、トクリュウが持ち込んだ『恐怖』から。
魔王がもたらした『絶対的な理不尽』へと、完全に塗り替えられていた。




