第11話:噂のイケオジ課長と、ちえちゃんの秘密
港区と品川区の境界に建つ、曰く付きの(しかし今や完全に浄化され、気のいい地縛霊のヨーコちゃんが同居する)高級タワーマンション。
この破格の3LDKに引っ越してきてからというもの、松本賢人の肉体には劇的な変化が訪れていた。
毎朝5時。賢人は妻の一人である戦闘狂のザラに叩き起こされ、早朝のランニングに付き合わされていた。
ただのランニングではない。インナーバフを全開にしたザラは、時速百キロ近いスピードで都内を駆け抜けるのだ。それに必死に食らいついていくため、賢人も無意識のうちに己の魔力と身体能力の限界を引き出し続けることになる。
さらに、帰宅後はタワーマンションの共有スペースにある豪華な居住者専用プールで泳ぎ込み、最新鋭の機材が揃ったジムで筋力トレーニングを行うのが日課となっていた。
加えて、オリヴィア女史から貰っていた異世界の『高級美容ポーション』を常用している影響は絶大だった。
結果として。
数ヶ月前までは「事勿れ主義で少しお腹の出た四十三歳の冴えない中年」だった松本賢人の肉体は、完全に別次元のモノへと仕上がっていた。
無駄な脂肪は削ぎ落とされ、全身の筋肉はしなやかに引き締まった『バッキバキの細マッチョ』へと変貌。ポーションのアンチエイジング効果によって肌は若々しいツヤを取り戻し、もともと悪くなかった顔立ちは、渋さと色気を兼ね備えた大人の男――いわゆる『極上のイケオジ』へと進化を遂げていたのである。
「うふふ、ケント様! このイタリア製のスーツ、とってもお似合いですわ!」
「旦那、こっちのネクタイの方が絶対にカッコいいよ!」
さらに賢人を悩ませていたのが、暇を持て余した妻たちの『お着替え人形化』だった。
地球のインターネット環境とスマートフォンというオモチャを与えられたレナとセリーナは、瞬く間に現代のファッショントレンドを学習。家賃が月十万円で済んでいることで浮いた生活費を活用し、ハイブランドの小物を次々とネット通販で買い漁る。
更に、不動産屋から紹介されて請け負った「お祓い」の礼金が、一件でちょっとした高級車買えるほどで、しかも領収書いらない取っ払いのニコニコ現金払いである。
いまや、松本家の収支は大幅に黒字を計上していた。
「お前らなぁ……四十三歳の係長、いや課長がこんな三十万もするスーツ着てたら浮くだろ……」
賢人はため息をつきながら文句を言うものの、かつて異世界で魔王として君臨し、数々の修羅場をくぐり抜けてきた圧倒的な『覇気』と『王の器』があるため、どんなハイブランドの服であっても見事に着こなしてしまう。服に着られるどころか、服のポテンシャルを120%引き出してしまうのだ。
その結果、賢人が出社するたびに、社内の空気はざわつき始めていた。
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「ねえ、ちょっと見た……? 今日の松本課長」
「見た見た! ヤバくない!? なにあれ、色気エグすぎでしょ……」
「前からあんなにカッコよかったっけ? 昔はもっとこう、冴えないオジサンって感じだったのに」
「姿勢が良いっていうか、背中が広くて……スーツの上からでもわかるくらい胸板厚いよね。それに、あの余裕のある微笑み! 目が合っただけで心臓止まるかと思ったぁ……」
社内の給湯室。
若手の女性社員たちが、キャーキャーと黄色い声を上げながら『噂のイケオジ』についてのガールズトークに花を咲かせている。
その会話を廊下の陰で聞いていた新部署の最年少女性課長――百田ちえ(モモ)は、手にしたハンカチをギリィッと噛み締めていた。
(ちょっとぉぉっ! なんで急にみんなして松本さんの魅力に気付いてるのよ!!)
モモの心内は、激しい焦りとやきもきした感情で大荒れだった。
ほんの少し前まで、社内で彼を『無能』だと見下していないのは自分だけだったはずだ。そして、彼が本当は誰よりも有能で、いざという時に部下を守り抜く圧倒的な器を持った『大人の男』であることを知っているのも、自分だけのはずだった。
(私だけの……私だけの、秘密の松本さんだったのに……っ!)
すっかり洗練され、フェロモンを撒き散らして歩くようになったイケオジ課長の姿を見るたび、モモの胸はチクチクと痛む。
就業時間外は『モモ』と呼んでくれる約束をしたものの、お互いに課長に昇進してからは部署も分かれ、ゆっくりと二人きりで話す時間すら取れていないのだ。
そんなモモに、最大のチャンスが訪れたのは、その日の午後のことだった。
「――というわけで、このA社の大規模リニューアル案件、松本課長と百田課長の合同プロジェクトチーム(PT)で明日の朝までに企画をまとめ上げてくれたまえ! いやぁ、専務の私自ら安請け合いしてきちゃったよ、ハッハッハ!」
役員フロアから降りてきた専務が、無責任極まりない笑顔でとんでもない爆弾を投下していったのだ。
明日の朝まで。
それは、二つの課を跨いだ地獄の残業を意味していた。
「な、なんてことを……っ。今からじゃ、どう考えても人手が……」
青ざめるモモ。しかし、隣に立っていた賢人は、全く動じることなく小さくため息をついた。
「仕方ないな。……おい、お前ら」
賢人は、自分の課の部下たちと、モモの課の部下たちを見渡して静かに告げた。
「今日はもう全員定時で帰れ。残りの作業は、責任者である俺と百田課長で巻き取る」
「えっ!? で、でも課長!」
「いいから帰れ。上からの無茶振りで部下を疲弊させるのは、三流のやることだ。俺に言われたと言って、とっととタイムカードを切ってこい」
一切の反論を許さない、絶対的な王の威圧。
その頼もしすぎる背中に、モモの課の部下たちまでが感動の涙を浮かべながら退社していった。
かくして。
すっかり日の落ちた、静まり返った夜のオフィス。
広いフロアに残されたのは、松本賢人と百田ちえの二人だけとなった。
「まったく……上の無茶振りには本当に困りますね」
モモがコーヒーを二つ淹れてデスクに戻ると、賢人はパソコンのモニターを恐ろしい速度で叩いていた。
「まあな。だが、やるしかないだろ。百田、そっちのデータはまとまったか?」
「あ、はい! 今送ります」
カタカタカタカタッ! と、常人離れしたタイピング音がフロアに響く。
発動した『脳内バフ』によって、賢人の情報処理速度はスーパーコンピューター並みに引き上げられている。膨大なデータを一瞬で読み解き、完璧なロジックで企画書を組み上げていくその手際と集中力は、まさに圧巻の一言だった。
(……すごい。やっぱり、仕事してる時の松本さん、カッコいい……)
モモは、自分の作業を進めながらも、チラチラと隣のデスクの賢人を盗み見ては顔を赤くしていた。
高級なイタリア製スーツのジャケットは椅子に掛けられ、腕まくりされたワイシャツからは、引き締まった逞しい前腕の筋肉が覗いている。真剣な眼差し、時折キーボードを叩く手を止めて顎を撫でる仕草。その一つ一つに大人の色気が滲み出ていて、モモの心臓は先ほどから早鐘を打ちっぱなしだった。
やがて、時計の針が深夜零時を回った頃。
「よし。完璧だな」
賢人がエンターキーをターンッ! と小気味良く叩き、大きく伸びをした。
絶対に不可能だと思われた膨大な企画書の作成が、たった数時間で完全に終わってしまったのだ。
「お疲れ様、百田。お前のデータ整理が的確だったおかげで助かったよ」
「そ、そんな! 松本さんの処理スピードが異常……いえ、凄すぎただけです。私なんて、ほとんど見てただけというか……」
謙遜するモモに、賢人は優しく微笑み、ポンと彼女の頭に手を置いた。
「そんなことないさ。優秀な部下……いや、今は同僚か。優秀なパートナーがいてくれて、俺は運がいいよ」
「〜〜〜ッ!!」
頭を撫でられた感触と『パートナー』という言葉に、モモは顔から火が出そうになり、慌てて下を向いて帰り支度を始めた。
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オフィスビルを出ると、少し肌寒い夜風が二人の間を吹き抜けた。
深夜のオフィス街はすっかり静まり返り、遠くを走る車の音だけが聞こえてくる。
「それじゃあ、気をつけて帰れよ。遅くまで悪かったな」
駅の方向へと歩き出そうとする賢人の背中を見て、モモは(ああ、今日もこれで終わりなんだ……)と、少しだけ胸の奥がチクッと痛むのを感じた。
せっかく二人きりになれたのに。結局、仕事の話しかできなかった。
もっと、プライベートな時間を取りたい。あの給湯室のモブ女子社員たちに、この人は私のなんだって、見せつけてやりたい。
そんな独占欲と寂しさが入り混じった感情を抱きながら、モモが「お疲れ様でした」と頭を下げようとした、その時だった。
「あ、おう。そうだ」
賢人がふと足を止め、振り返った。
街灯の光に照らされたその横顔は、映画のワンシーンのように渋くて、ズルいほどにカッコよかった。
「たまには飲みに行くか? モモ」
――えっ。
予想外の誘いに、モモはパチクリと目を瞬かせた。
「え、あ……の、飲みって……二人で、ですか?」
「ああ。さすがに今日は遅いから、また今度の週末にでも。お互い課長になって忙しかったし、昇進祝いも兼ねてさ」
モモ。
就業時間外だから、ちゃんと秘密のあだ名で呼んでくれた。それだけでも心臓が爆発しそうなほど嬉しいのに、さらに週末のデート(?)のお誘いまで。
「は、はいっ! 行きます! ぜひ、連れて行ってください!」
モモは、満面の笑みで勢いよく頷いた。
これで、少しは距離が縮まる。私だけの秘密の松本さんに、また一歩近づける。
そう思って胸を撫で下ろしたモモに対し――魔王・松本賢人の無自覚は、容赦なく追撃のキラーフレーズを放った。
「そうか、良かった。……でも」
賢人は少しだけ首を傾げ、悪戯っぽく、けれど心底愛おしそうな大人の微笑みを浮かべて、こう呟いたのだ。
「……モモもいいけど、『ちえちゃん』が、可愛いな」
「――――――――ッ!!?」
瞬間。モモの脳内で、何かが特大の音を立てて爆発した。
ちえちゃん。ちえちゃん。
古臭くて、ずっとコンプレックスで、死ぬほど大嫌いだった自分の本当の名前。
それを。こんなにも色気のある、大好きなイケオジ上司に、蕩けるような低い声で「可愛い」と肯定されたのだ。
「あ、あの……えっと……そ、それは……っ!」
「ははっ、顔真っ赤だぞ。風邪引く前に早く帰れよ。じゃあな、ちえちゃん」
賢人はヒラヒラと手を振ると、モモをその場に残したまま、長い脚でスマートに夜の街へと消えていった。
その後ろ姿を見送りながら。
百田ちえは、その場にへなへなとしゃがみ込み、両手で真っ赤に茹で上がった顔を覆い隠した。
(ずるい。ずるいずるいずるい……っ!! なんなのあの破壊力!! あんなの、好きにならない女なんているわけないじゃない!!)
心臓が肋骨を突き破って飛び出してきそうなほどの高鳴り。
コンプレックスだった名前が、たった一言で、世界で一番大好きな『宝物』に変わってしまった瞬間だった。
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数十分後。帰りの深夜電車の中。
座席の端に座ったちえは、いまだに熱の引かない顔をマフラーで隠しながら、震える手でスマートフォンを操作していた。
『LINE:プロフィール設定』
『表示名:モモ 変更→ ちえ』
『X(旧Twitter):アカウント設定』
『ユーザー名:momo 変更→ chie_momo』
『アイコン:フリー素材の桃の画像 変更→ 笑顔の自撮り写真(少し盛ったやつ)』
『Instagram:プロフィール設定』
『名前:百田 変更→ 百田ちえ』
自分の持っているあらゆるSNSと連絡ツールの登録名を、一切の躊躇なく、全て『ちえ』へと一斉に変更した。
すると、深夜であるにも関わらず、数十秒もしないうちにスマートフォンが狂ったようにバイブレーションを鳴らし始めた。
『友人A:えっ!? LINEの名前変わってる!!』
『友人B:どうしたの!? あんだけ「ちえ」って呼ばれるの嫌がってたのに!』
『友人C:アイコンも変わってるし! え、もしかして彼氏!?』
『友人A:男だ! 絶対に男に「ちえって名前可愛いね」とか言われたんだ!!』
『友人B:吐けー! 相手は誰だー!!』
画面を埋め尽くしていく、友人たちからの凄まじい通知の嵐。
当然だ。親や親友がいくら説得しても絶対に変えなかった名前を、突然自ら変更したのだから。
だが、ちえは鳴り止まない通知を無視して、スマホをギュッと胸に抱きしめた。
「……ふふっ」
マスクの下で、だらしないほどに口角が緩んでしまう。
週末の飲み会。彼に何を着ていこうか。どんな話をしようか。そして、彼になんて呼んでもらおうか。
その松本賢人の家に、絶世の美女三人(と妖精と地縛霊)による、ちえなど足元にも及ばない超絶過保護な『旦那様プロデュース空間』が広がっているなどとは夢にも思わず。
恋する乙女・百田ちえの夜は、最高に甘い興奮と共に更けていくのだった。
『嘘告のおかげで、最期に彼氏ができました。』夏休み明けに死ぬ予定の私と、嘘だったと泣き崩れる君~さよならのためのアオハルを、君と。
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今までの作品と毛色が違うのですが、
魔法も無いチートも無い現実の高校生の切ない夏を書いてみました
作者初の恋愛ものです
良ければ読んでやってください




