疾走
「カナちゃん? お酒、もう一杯頼もうか?」
隣でユーキが優しく顔を覗き込んできた。
「あ……うん、ありがとう。お願いしようかな」
カナは必死で微笑み、ユーキの問いかけに応えた。
ユーキは誠実で、優しくて、自分を一番に大切にしてくれている。 こんなに素敵な彼氏が隣にいるのに、どうして自分は過去の幻影に怯え、勝手に傷ついているのだろう。
「カナちゃん、お酒のおかわり貰ってくるね!」
ユーキが常連たちと楽しそうにカウンターへ向かった隙だった。 カナはごくりと唾を飲み込み、意を決して足を動かした。
足がすくみ、心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖と緊張。それでも、逃げたくなかった。 カナは人混みを抜け、奥にある静かなトイレの前の通路へと向かった。
ドアの前で立ち尽くし、恭介が出てくるのを待つ。 指先が冷たくなり、息がうまく吸えない。
(どうしよう……なんて言えばいい? でも、一言だけでも話したい)
カチャリと音がしてドアが開いた。
出てきた恭介が、目の前に立つカナに気づいて足を止める。 色の濃い眼鏡の奥の瞳は冷ややかで、カナの存在をただの「過去の知り合い」として淡々と見つめていた。
「……恭介さん」
絞り出すような、震える声。
「……久しぶり…元気…だった……?」
精一杯の微笑みを浮かべ、健気に恭介を見つめる。恭介は感情の籠もらない、低い声で短く返した。
「……カナは元気そうだな」
名前を呼ばれた瞬間、胸がギュッと締め付けられる。 恭介はポケットに手を突っ込んだまま、興味なさそうに言葉を継いだ。
「……新しい彼氏か? 真面目そうで、いいやつそうだな」
恭介にとっては何の気もない、ただの雑談。 けれどカナは、ユーキの存在を認めてしまえば恭介との繋がりが完全に切れてしまう気がして、怖くてたまらなかった。もう終わった恋なのに、どうしても認めたくなかった。
「……いや、違う」
咄嗟に口から出たのは、必死な否定だった。
「そっか」
恭介は特に深く追及することもなく、あっさりと頷くだけだった。その無関心さが、カナの心を余計にえぐる。
カナは胸の奥で渦巻く感情を必死に抑えながら、ずっと気になっていた問いを口にしようとした。
「……恭介さんは……彼女、いるの……?」
声が震える。怖かった。もし「できた」なんて言われたら、今この場で涙が溢れ出して止められなくなってしまうかもしれない。恭介の唇が動くまでの数秒が、永遠のように感じられた。
その時だった。
「おぉ、恭介か!」
横から陽気な常連の声がかかった。
「おぉ、久しぶり」
恭介はカナからあっさりと視線を外し、声をかけてきた友人の方へと向き直る。これ以上の言葉を交わすこともなく、そのまま友人と肩を並べて奥のスペースへと歩き去ろうとした。
その瞬間——ポケットから出された恭介の指先が、すれ違いざまに、偶然カナの指にわずかだけ触れた。
「……っ」
言葉も、眼差しもなく去っていく後ろ姿。 けれど、触れ合った一瞬の温もりだけが熱を持ってカナの指先に残り、凍りついた心を優しく、そして切なく揺らしていた。
去っていく恭介の後ろ姿を見送る余裕すらなく、カナは逃げるようにトイレの中に駆け込み、固い鍵を閉めた。
狭い個室の中、背中をドアに預けたまま、カナはそっと目を瞑った。
指先に残る、ほんの一瞬触れ合った恭介の体温。 名前を呼ばれた時の低い声。 そして、自分に向けられた関心のなさ。
「……っ」
堪えていたものが溢れ出し、目尻から熱い涙がぽろぽろと頬を伝ってこぼれ落ちていく。
もう関係ないのに。私から部屋を出て、私の手で全部終わらせたはずなのに。 どうしてこんなにも恭介の言葉ひとつ、仕草ひとつに心が引き裂かれそうになるのだろう。自分の中で、恭介という存在がいかに大きかったかを嫌というほど突きつけられていた。
(もう終わったんだよ……もう、あの頃には戻れない……)
小さく声にならない言葉で自分に言い聞かせ、涙を何度も指で拭った。
個室を出て、洗面台の鏡の前に立つ。 鏡に映る自分の顔は、少し目が赤くなっていた。 カナは水道の冷たい水で軽く目元を冷やし、丁寧にメイクを直し、何度も深呼吸を繰り返した。
鏡の中の自分に向かって、無理やり作り笑いを浮かべてみる。
大丈夫。平気。何事もなかった。
心の中で念仏のように唱え、固く結んだ拳を解くと、カナはゆっくりとトイレのドアを開けた。
喧騒が渦巻く店内に戻ると、カウンターの前でグラスを二つ持ったユーキが、カナの姿を見つけてぱっと笑顔を咲かせた。
「あ、カナちゃん! おかえり。大丈夫? ちょっと長かったから心配しちゃった」
嫌味のない、純粋で真っ直ぐな心配の眼差し。 ユーキの優しい声が、痛むカナの心にじんわりと広がっていく。
「ごめんね、ちょっとメイク直しに時間がかかっちゃって」
「そっか。はい、これカナちゃんの好きなカクテル!」
「ありがとう、ユーキくん」
ユーキの隣に戻り、手渡されたグラスを受け取る。 カナはユーキに向かって、今日一番の華やかな笑顔を向けた。
恭介のいる奥のスペースには、二度と視線を向けないように固く心に誓う。
胸の中にある痛みをかき消すように、カナは手元のグラスを煽り続けていた。 お酒が進むにつれ、意識が少しずつ心地よく麻痺していくのを感じる。
「カナちゃん、飲むペース早くない? 次、何にする?」
隣でユーキが優しく顔を覗き込んできた。カナのグラスは既に空になっていた。
「ううん、大丈夫! 次は私がユーキくんの分も取ってくるよ」
「え、いいの? じゃあ、僕はハイボールでお願いしようかな」
そう言って、ユーキはまた近くの常連客との会話に戻っていった。 カナはユーキから離れ、人混みを掻き分けてカウンターへと向かった。
「マスター、ハイボールとカシスオレンジください」
「はーい、ちょっと待ってね」
手際よくグラスを準備するマスターに、カナは努めて明るく接しようとした。すると、マスターがグラスに氷を投げ入れながら、ふと思い出したように声をかけてきた。
「あ、そういえばカナちゃん、恭介くんも来てるよ」
「……うん。知ってる」
視線を落としながら、静かに答えるカナ。 マスターはカナの様子に気づきながらも、どこか申し訳なさそうに言葉を続けた。
「恭介くんもお店に入ってきた時、すぐにカナちゃんのこと気づいたみたいだけどね」
「え……そうなんだ……」
「先週かな? ここに来た時に『還暦祝い、カナは来るかな?』って聞かれたからさ、『来ると思いますよ』って答えたんだけど……カナちゃんが彼氏さんと来ると思ってなくて。ごめんね」
(え…………え?)
カナの頭の中が、真っ白に染まった。
周囲の喧騒、グラスがぶつかる音、BGM——店内を埋め尽くしていたあらゆる音が、一瞬にしてすべて遮断された。まるで無音の世界に放り出されたかのような錯覚。
恭介さんは、私が来るか確かめていた。 今日、この場所に来たのは……私に会うためだったの?そんなはずはない。
「カナは元気そうだな」という低い声。 去り際、かすかに触れた指先の熱。 そして、あの冷ややかで険しい眼差し。
言葉や態度には出さなくても、恭介もまた自分と同じように、カナの存在を確かめたくてここに来ていたのだと知った瞬間、カナの心臓が途方もなく大きく脈打ち始めた。
「はい、ハイボールとカシスオレンジ!」
「……あ、ありがとう……」
差し出されたグラスを受け取るカナの手が、大きく震えていた。
マスターの言葉を聞いてからというもの、カナの耳には誰の会話も届かなくなっていた。
「……カナちゃん? 酔っちゃった?」 「ううん、大丈夫だよー!」
ユーキや常連たちの問いかけに、カナは事務的な愛想笑いを貼り付け、機械的に頷いて合わせるのが精一杯だった。
恭介さんも、私に会いたかったの……? え……? どういうこと……?
自分から関係を断ち切ったはずなのに、頭の中はその問いでいっぱいになり、感情の整理がまったく追いつかない。胸の奥が激しく波打ち、思考がパニックを起こしていた。
時計の針が回り、店内にはそろそろ閉店の空気が漂い始めた。ぽつりぽつりと帰り始める客が出てくる。
カナが視線を向けると、恭介もまた友人たちに「またな」と短い挨拶を交わし、店を出ようとしていた。
重い扉を開け、そのまま外へと消えていく恭介。 二人の目が合うことはなかった。
「カナちゃん、僕たちもそろそろ行こうか」
「……うん、そうだね」
ユーキに促され、カナもマスターにお礼を告げて店をあとにした。
夜の静けさが戻った通りを、ユーキと並んで歩く。
「楽しかったなー! 常連の人たちもみんな優しかったし、また行きたいね」
「うん、そうだね……」
ユーキの弾んだ声に生返事を返しながら、カナの足取りは重かった。 駅の改札前に着くと、ユーキが振り返って優しく微笑んだ。
「じゃあ、今日は送っていけなくてごめんね。またね! 着いたら連絡するよ」
「うん、ユーキくんも気をつけてね。またね!」
手を振り、ユーキの姿が人混みに消えていく。
一人きりになった瞬間、カナの胸に押し寄せていたざわめきが、一気に暴風となって吹き荒れた。
「っ……!」
カナはハッと息を呑み、大きく目を見開いた。
——恭介さんは、あの部屋にいる。
何の根拠もない、けれど揺るぎない確信。 心臓が破裂しそうなほど速く、強く脈打ち始める。
恭介は今、かつて二人が一緒に過ごしたあの部屋に帰っている。なぜだかわからないけれど、間違いなくそこにいる気がした。 早く行かないと。今すぐ行かなきゃ——衝動というよりも、まるで抗えない義務のような焦燥感が全身を駆け巡る。
カナは迷わず大通りへと走り出し、通りかかったタクシーを強引に拾った。
「どちらまで?」
行先を告げ、シートに深く身体を沈める。 窓の外を流れる夜景を見つめながら、カナは震える指をぎゅっと握りしめていた。
タクシーを降り、カナは吸い寄せられるように見慣れたマンションのエレベーターに乗る。
懐かしい扉の前に立ち、息を殺す。 カバンから取り出した鍵を鍵穴に差し込むと、静かな夜の廊下にカチリと冷たい金属音が響いた。
恐る恐る扉を開ける。
足を踏み入れると、薄暗い廊下の電気はついていなかった。けれど、その奥——リビングの扉の隙間から、橙色の小さな明かりが漏れていた。
カナの心臓が、肋骨を叩くほど激しく打ち鳴らされる。
(……いた)
廊下を進み、カナはゆっくりとリビングの引き戸を開けた。
間接照明の柔らかな光の中、見慣れたソファに深く腰掛け、手元にグラスを携えた男の後ろ姿があった。
テーブルの上には、ウイスキーのボトルと灰皿。 かつてカナが嫌というほど見てきた、恭介の変わらない夜の過ごし方だった。
カナが息を呑んだ瞬間、恭介がグラスを握ったまま、チラッと横を向いた。
「……あぁ、カナか」
「……う、うん」
カナは声を引きつらせ、絞り出すように短く返すのが精一杯だった。
あの騒がしい店内で遠くに感じていた恭介が、今、目と鼻の先にいる。
サングラスも外し、後ろで結んでいた髪を解いた恭介の横顔は、店で見せた険しさとはどこか違い、疲れと微かな哀愁を帯びていた。
言葉が続かない。 ただ、静まり返った部屋の中で、二人の呼吸と氷がグラスに当たる小さな音だけが響いていた。
「……飲む?」
「……うん」
恭介は静かに立ち上がると、グラスにカランと音を立てて氷を落とし、琥珀色のウィスキーを注ぎ入れた。そして言葉もなく、テーブルの上にトンと置いた。
カナは恭介から少しだけ距離をあけて、ソファへと腰を下ろした。
「乾杯」の言葉も、グラスを合わせる音もない。 恭介は何も言わずにグラスを持ち上げ、慣れた手つきでウィスキーを口に運んだ。
カナも手元のグラスを両手で包み込むように持ち上げ、そっと唇をつけた。ウイスキーの強い香りと苦味が、カシスオレンジで甘くなった口内と喉をじりじりと焼いていく。
煙草の煙とともに、恭介が重く長い息を吐き出した。
「ふぅーー……」
静寂の中、紫煙が天井へと揺らめいていく。恭介は正面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……彼氏はいいのか?」
「……」
その問いに、カナの胸がキュッと締め付けられた。 ユーキの優しい笑顔が脳裏をかすめる。けれど、恭介の目と鼻の先にいる今、彼の前でユーキを「彼氏」だと認めることがどうしてもできなかった。
「……いや、彼氏じゃない……」
またしても嘘をついてしまった。恭介との繋がりを途切れさせたくない一心で出た、愚かで切ない否定。
恭介はそれ以上追及することもなく、ただ静かにグラスの氷を揺らした。カラン、と寂しい音が部屋に響く。
カナは意を決し、ずっと店の中から聞きたくてたまらなかった問いを、震える口唇から絞り出した。
「……恭介さんは……彼女、いるの……?」
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。 「いるよ」と言われたら、今度こそ完全にこの部屋に私の居場所はなくなる。怖くて、胸が潰れそうだった。
恭介はしばらく沈黙を守り、グラスに残った液体を見つめたあと、小さく首を振った。
「……いや、いない」
その短い一言が落とされた瞬間、カナの胸の中に、止まっていた時間が再び動き出すような激しい震えが走った。
——ピロン。
静まり返ったリビングに、カナのスマホのLINE通知音が甲高いく響き渡った。
恭介の視線が一瞬だけスマホの画面へと落ちる。 画面には、ユーキからのメッセージが浮かび上がっていた。
『今、家に着いたよ。楽しかったね!』
カナは喉を詰まらせながら、慌てて画面を既読にして画面伏せでテーブルに置いた。ユーキの存在が一瞬だけ現実に引き戻そうとしてくるが、今のカナの頭の中を支配しているのは別のことだった。
「……彼女……いたんじゃないの……?」
声が震える。あの日、駅の改札前で見た女性の姿が脳裏にチラつき、胸を苦しく締め付ける。
恭介は静かにグラスをテーブルに置くと、深く息を吐き捨てた。
「……いや」
(……え……?)
思いもよらない一言に、カナの思考が止まる。 言い訳も、詳しい説明もない。ただ短く告げられた否定。
けれど、その無骨で静かな言葉の重みが、「自分が見たものが全てだと思い込んで飛び出したのは私の方だったのではないか」という予感をカナに与えていた。
「……そう、なんだ……」
それ以上、何も聞くことができなかった。
二人の間に、息が詰まるような沈黙が延々と流れる。
恭介の横顔を見つめながら、カナの胸に「これ以上、ここにいられない」という焦燥感が押し寄せてきた。過去を掘り返す怖さと、今の自分の立場。これ以上この部屋にとどまる理由を見つけ出せなかった。
「……じゃあ……私、帰るね……」
「……うん」
恭介は引き止めることもなく、振り返りもしなかった。短く落ちた「うん」という一言が、本当の終わりの合図のように感じられた。
カナは立ち上がり、リビングをあとにした。
薄暗い廊下を歩き、見慣れた玄関へ向かう。 扉を開け、外のひんやりとした夜気に触れた瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。
カチリ。
外に出て重いドアを閉め、鍵をかける。 金属の冷たい音が、二人の関係を完全に隔てるように夜の廊下に響き渡った。
エレベーターに乗り込み、下へ降りるボタンを押す。 ゆっくりとドアが閉まり、下降していく箱の中で、カナは一人ポツンと立ち尽くしていた。
恭介の部屋を出たあと、頭の中を渦巻くモヤモヤとした不快感を抱えたまま、カナは吸い込まれるように街角のカフェの扉をくぐった。カウンターで注文したのは、普段はあまり飲まない濃いめのブラックコーヒー。
運ばれてきたカップから立ち上る湯気を見つめながら、カナは深く息を吐き出した。
口に含むと、強い苦味が舌を刺し、喉の奥へと広がっていく。けれど、胸の奥にある重苦しいモヤモヤは少しも消えてはくれなかった。
自分の気持ちが、本当によくわからない。
(……私、どうしたんだろう……? 私は、どうしたいんだろう……)
頭の中に、二人の男の姿が浮かび上がる。
一人は、ユーキ。 真面目で、誠実で、いつも自分を優しく大切にしてくれる人。誰が見ても「理想の彼氏」であり、一緒にいれば間違いなく穏やかな幸せが約束されている。
そしてもう一人は、恭介。 ぶっきらぼうで、何を考えているかわからなくて、いつも自分を振り回す人。
それなのに——。
恭介の部屋でユーキの存在を聞かれたとき、カナの口から出たのは「彼氏じゃない」という咄嗟の否定だった。ユーキを傷つけると分かっていながら、恭介に嫌われたくない、繋がっていたいという本能が勝ってしまった。
「……たぶん、好きなんだろうな」
ポツリと漏らした言葉が、冷めかけたコーヒーの湯気に消えていく。
昨夜、恭介の部屋へ向かってしまったこと。恭介の「いや」という一言に揺さぶられ、必死にユーキの存在を否定してしまったこと。自分の行動のすべてが本心を物語っていた。
あの日、駅で他の女の人と歩いていた光景が脳裏をよぎる。恭介には他に女の人がいたはずなのに。裏切られたと思って部屋を飛び出したはずなのに。
(だけど、怖い……。このままでいいんだろうか……)
恭介というあまりにも大きな存在を抱えたまま、私はこのままユーキと付き合っていくのだろうか。
冷めていくブラックコーヒーの黒い水面を見つめながら、カナは答えの出ない問いを何度も胸の中で繰り返していた。
「……ハッキリさせなきゃ」
自分の曖昧な未練でユーキを裏切り、誰かの影に怯え続けるような、そんなずるくて嫌な女にはなりたくない。
カナは目の前の空になったマグカップを力強く睨みつけた。
引きずり込まれそうになる迷いを振り払うように立ち上がると、カナは迷いのないしっかりとした足取りでカフェをあとにした。深夜3時を過ぎた街は静まり返り、冷たい空気が肌を刺す。カフェを出たカナの瞳には、うっすらと熱い涙が溜まっていた。
自分の弱さへの情けなさと、溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んでいた。
迷いのない足取りで、目的の扉の前で立ち止まる
カチリ。
鍵をあけ、真っ暗な部屋を進む。 静まり返った薄暗い廊下を通り、そっと奥の扉を開けた。
部屋の奥、見慣れたベッドのふくらみへと静かに歩み寄る。
布団の端をそっと持ち上げ、その隙間に身体を滑り込ませた。
伝わってくる、懐かしくてあたたかい体温と、匂い。 自分の心にごまかしを効かせることは、もうできなかった。答えは最初から出ていたのだ。
カナは、小さく寝息を立てている恭介の隣で静かに目を閉じた。私の帰る場所はここなんだ。




