震撼
ユーキと付き合い始めてしばらく経った頃、カナのスマホに1通のLINEが届いた。
送り主は、かつて恭介と通っていたバー「アンカー」で知り合った飲み友達だった。
『カナちゃん久しぶり! 急なんだけど、アンカーのマスターの還暦祝いパーティをやる事になってさ。日時は30日の19時から。カナちゃんも来られる?』
画面を見つめたまま、カナの指が止まる。
アンカーのマスターには、恭介と付き合っていた頃、本当にお世話になっていた。相談に乗ってもらったり、愚痴を聞いてもらったり、時には温かく見守ってくれた優しい人だ。
(……無下にするわけにはいかないよね)
お祝いしたい気持ちは山々だった。けれど、同時に冷たい汗が背中を伝う。
アンカーに行けば、恭介と鉢合わせる可能性がある。 あの夜以来、一度も顔を合わせていない恭介。もし会ってしまったら——考えただけで胸が跳ね上がり、足が竦むような恐怖が襲ってきた。
それでも、お世話になったマスターの還暦という節目を無視することなんてカナにはできなかった。
(一人で行くのは……怖い)
葛藤の末、カナは隣にいるユーキに相談してみることにした。
「ユーキくん、実は昔からお世話になってるお店のマスターの還暦祝いがあるんだけど……一緒に行かない?」
「へー、マスターの還暦祝い? 楽しそうだね! カナちゃんの大切な人のお祝いなら、もちろん行くよ」
ユーキは爽やかな笑顔で、嫌な顔ひとつせず即答してくれた。
その屈託のない優しさに、カナは深く胸を撫で下ろした。 ユーキが隣にいてくれるなら、きっと大丈夫。恭介に会う恐怖をユーキの存在で打ち消すように、カナは参加の返信をタップした。
◇
還暦祝いの当日。
カナはユーキを連れ、久しぶりに「アンカー」の扉の前に立っていた。
重い木製の扉を開けると、店内は普段の落ち着いた雰囲気とは打って変わり、お祝いに駆けつけた常連客たちでごった返していた。今日は椅子がすべて片付けられており、立食パーティーの形式になっている。
「おぉ、カナちゃん! 久しぶりじゃん!」 「あー、元気してた?」
店内に入った途端、かつてよく一緒に飲んでいた常連たちが次々と声をかけてきた。 カナも「元気だったよ!」と笑顔で返し、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
人混みをかき分け、二人はカウンターの奥にいるマスターの元へ向かった。
「マスター! 還暦おめでとう!」
赤いちゃんちゃんこ代わりに真っ赤なネクタイを締めたマスターが、カナの姿を見つけて目を丸くした。
「わ! カナちゃん! 来てくれたんだね、ありがとう! 元気でしたか?」
「うん。マスターも元気そうで良かった!」
マスターはカナの隣に立つユーキに気づき、優しく目を細めた。
「うん。……あれ? そちらは彼氏さん?」
「そうだよ。ユーキくん。マスター、よろしくね」
「初めまして、ユーキです。よろしくお願いします!」
ユーキがハキハキと爽やかに挨拶をすると、マスターは「こちらこそ、カナちゃんをよろしく頼みますね」と嬉しそうに頷いた。
お酒を片手に、カナはユーキと共に常連客たちの輪に加わった。 ユーキは持ち前の誠実さで、初対面の常連たちともすぐに打ち解けて楽しそうに話している。
しかし、カナの意識は半分ほどしか会話に向いていなかった。
(……いない)
グラスに口をつけながら、カナの視線は無意識のうちにゆっくりと店内を見回していた。 入り口、カウンターの端、奥のテーブル。 何度確認しても、そこに恭介の姿はなかった。
(来てないのかな……)
会ったらどうしようと、あれほど怯えていたのに。 いざ恭介の不在を確認すると、安堵で深く胸を撫で下ろす感覚と同時に、胸の奥のほうでほんのわずかだけ、針の先ほどの「寂しさ」がチクリと疼いた。
カナは緊張から解き放たれ、ユーキの手を引きながら常連たちの輪へと積極的に加わった。
「カナちゃん相変わらず可愛いなぁ! ユーキくん、こんな綺麗な彼女いて羨ましいぞ!」
「ほんとですよ、僕には勿体ないくらいです」
常連のおじさんたちに冷やかされ、ユーキが照れくさそうに笑う。その隣でカナも「もう、やめてよー」と華やかに笑い声を上げた。
お酒が入り、店内は大人数の話し声とグラスのぶつかる音で熱気を帯びていく。ユーキもすっかり場に馴染み、カナの肩にそっと手を回して嬉しそうに頷いていた。
恭介のいないこの場所で、自分は新しい幸せを手に入れた。もう過去に怯える必要なんてないのだと、カナは心から笑っていた。
その時だった。
店内を包むBGMと重なる大声、グラスが触れ合う金属音、大勢の笑い声——あらゆる雑音が入り乱れる喧騒の中で、たったひとつの言葉だけが、カナの耳に恐ろしいほど鮮明に飛び込んできた。
カクテルパーティー効果だ。カクテルパーティー効果とは、たくさんの人が話す騒がしい場所でも、自分の名前や関心のある話題は自然と聞き取れてしまう脳の機能。
『おぉ、恭介』
誰かの気安く弾んだ声が遠くで聞こえた。
「……っ」
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
カナの瞳がハッと大きく開く。考えるよりも早く、身体が勝手に反応していた。
楽しそうに話していたユーキの声を遮るようにして、カナの視線は吸い寄せられるように、人混みの隙間から見える「入口の扉」へと一直線に向かっていた。
人混みの隙間、開いた扉の向こうにその姿があった。
髪を潔くオールバックにして後ろで束ね、色の濃い眼鏡をかけた男。 引き締まった顎のラインと、どこか険しさを帯びた横顔——恭介だった。
「……っ」
カナの心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりに大きく震えた。
付き合っていた頃の、あの優しくて柔らかい雰囲気はどこにもない。どこか影を纏い、男としての無骨な色気が全身から溢れ出ていた。 いつも隣にいる爽やかで好青年なユーキとは、あまりにも対極的で、まるで別世界の人間のように見えた。
その圧倒的な存在感に、カナは全身の血が逆流するような痺れを覚えていた。
恭介はゆっくりと店内へ足を踏み入れると、人混みを抜けてカウンターの奥へと移動していった。
カナの目は、吸い寄せられるようにその背中を追いかけてしまう。
恭介はマスターの元へ歩み寄ると、短く言葉を交わし、ふっと笑った。そのまま奥のスペースへ移動し、昔からの友人たちと会話を始めている。
——ちょうど、カナが立っている場所のまっすぐ視線の先に、恭介が位置していた。
「カナちゃん? どうしたの、グラス空いてるよ?」
隣でユーキが優しく声をかけてくる。常連たちも楽しそうにカナに話しかけている。
「あ、うん! ごめんごめん、ちょっとボーッとしちゃって」
慌てて笑顔を作り、ユーキや常連たちと会話を続けるカナ。 けれど、意識の半分以上は完全に恭介に奪われていた。
恐ろしい。会うのがあれほど怖かったはずなのに。 話に頷きながらも、カナの視線は無意識のうちにチラチラと、奥で煙草をくわえようとしている恭介の姿を追ってしまう。
一度奪われた心臓の脈打ちが、どうやっても元に戻らなかった。
奥のスペースで、恭介が胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえた。 ライターの小さな火が彼の顔を瞬時に照らし出す。紫煙を吐き出しながら——恭介の視線が、ふっとカナのいる方向へ向けられた。
混雑する店内の人混みを通り抜け、二人の視線が真っ直ぐに交錯する。
「……っ」
その瞬間、恭介の表情がわずかに険しく歪んだ。
心臓が跳ね上がるほどの恐怖と動揺に襲われ、カナは耐えきれずに勢いよく目を逸らした。
「〜〜なんだよね、カナちゃん?」 「あ、うん! そうだよね、ふふっ」
隣で楽しそうに話しかけてくるユーキに対し、カナは引きつりそうな顔で必死に愛想笑いを浮かべた。ユーキの手前、平然を装うのに必死で、全身から嫌な汗が吹き出してくる。
チラリと再び視線を向けると、恭介は何事もなかったかのように、友人との会話に戻っていた。
(今……目があった……? 私のこと、まだ覚えてるのかな……)
その時、恭介の元へ一人の女性が歩み寄っていった。 恭介は柔らかい笑みを浮かべると、ごく自然な動作でその女性と短くハグを交わした。
その光景が視界に入った瞬間、カナの胸の奥がキュッと痛むように収縮した。
(なんか……嫌だ……)
沸き上がってきた小さな苛立ちと嫉妬心に気づき、カナはハッとして自分の唇を強く噛みしめた。
なにを思っているんだろう、私。 自分から勝手に部屋を出て、LINEもブロックして関係を断ち切ったのだ。 今の自分には隣にユーキという誠実な彼氏がいて、恭介の彼女でも何でもない。彼が誰と抱き合おうが、誰と笑おうが、自分には関係ないはずなのに。
自分の内側にある勝手で身勝手な感情に、カナは自己嫌悪と深い戸惑いを覚えていた。
チラチラと恭介を目で追ってしまう自分に、カナは猛烈な自己嫌悪と苛立ちを覚えていた。
(何やってるの……私にはユーキくんがいるのに)
今すぐこの場を離れればいい。ユーキの手を引いて、もっと店の入り口寄りや静かな場所へ移動すれば済む話だ。けれど、金縛りにでも遭ったかのように、カナの足はその場から一歩も動こうとしなかった。
視線の先で煙草をくゆらせる恭介。 同じ店内にいるはずなのに、今の恭介はまるで手の届かない遠い世界の住人のように見えた。かつて自分だけが見ていたあの柔らかい表情も、二人の甘い時間も、すべてが遠い過去の幻だったかのように思えてくる。
常連たちが入れ替わり立ち替わり別のグループへ挨拶に行き、店内が混雑する中で、一瞬だけカナとユーキの二人きりになるタイミングが訪れた。
「みんな良い人たちだね。賑やかですごく楽しいよ!」
グラスを手に、ユーキが心の底から楽しそうな笑顔をカナに向ける。
「そうだね。今日は還暦祝いだから特別だよ」
カナも必死に微笑みを返し、ユーキの言葉に頷いた。ユーキの素直で真っ直ぐな優しさに触れるたび、どこか申し訳なさが胸を刺す。
その時、ユーキが何気なく店内を見回しながら、ぽつりと呟いた。
「ねぇ……あの人、すごいカッコいい人だね」
「……え?」
「ほら、あの奥にいる人。髪後ろで縛ってて、眼鏡かけた……」
ドクン、と心臓が大きな音を立て、一瞬で息が止まった。
ユーキが指さした先——そこにいるのは、間違いなく恭介だった。同性から見ても目を引くほどの存在感を放っているのだと突きつけられ、血の気が引いていく。
「あ……うん、そうだね……」
声が震えないよう、喉を固く締めてなんとかそれだけを返した。
ユーキは恭介の醸し出す雰囲気に感心したように見つめながら、軽い調子でカナに問いかけた。
「カナちゃんの知り合い?」
「え……? あ、うん……」
動揺を隠すように、カナは小さく頷くのが精一杯だった。
私の元彼——。 目の前で爽やかに笑う彼氏に、そんな事実を言えるはずがなかった。自分が勝手に追っていた視線の先、そして胸の奥で渦巻く複雑な感情をすべて隠すように、カナは手元のグラスを強く握りしめた。
「あ……」
ユーキと話していたカナの視界の端で、奥のスペースにいたはずの影が動いた。
恭介がこちらに向かって歩いてきている。
人混みを掻き分けるように、ゆっくりとした足取りで近づいてくるその姿に、カナの指先がピクッと微かに震えた。逃げ出したいような、けれどその場から動けないような強烈な威圧感が胸を圧迫する。
心臓の鼓動が耳元でうるさいほど鳴り響く。
恭介はカナとユーキの横——間にわずかに人が挟まる程度の、ほんの2メートル横を通り過ぎていく。
通り過ぎるその一瞬。 恭介の視線が、ふっとカナの顔に落ちた。
呼吸が止まる。カナはユーキや周りの常連たちに決して気づかれないよう、ごくわずかに、自分でも分からないほど小さく頭を下げた。
すれ違いざま、恭介の瞳がカナの隣に立つユーキへと向けられた。 その瞬間、恭介の表情がほんの僅か、けれど明確に険しく歪む。ユーキを射抜くような鋭く冷たい視線が交錯し——恭介はそのまま、何も言わずにカナの横を通り過ぎていった。
(今の……なに……?)
去っていく恭介の後ろ姿を追いかけそうになるのを、カナは必死で踏みとどまった。
あの険しい目。一瞬だけユーキに向けられた、突き刺さるような視線。
(私が……男の人と一緒にいるから……?)
まさか。自分から連絡を絶ち、勝手に部屋を出て行ったのだ。恭介にとって自分はもう過去の女であり、嫉妬される筋合いなんてないはずだ。
それなのに、あの視線の意味は何だったのか。
隣で楽しそうにグラスを持つユーキの横顔を見つめながら、カナの胸には、解けない謎と消えない動揺が重く重く残り続けていた。
恭介はそのまま、奥の通路を抜けてトイレの方へと向かっていった。
今、追いかけてトイレの前に行けば、きっと二人きりで話すことができる。 「久しぶり。元気だった?」と、ごく自然な元カノのフリをして声をかけることだってできるはずだ。
けれど——。
(……怖すぎるよ)
一歩を踏み出す想像をしただけで、足の力が抜けそうになる。 あの夜の絶望、荷物をまとめた静かな部屋、そして先ほど向けられた冷たく険しい視線。
傷つくのが怖くて、カナの足は一ミリも動かなかった。
(それに……今さら声をかけて、何になるんだろう)
自分からすべてを切り捨てて部屋を飛び出し、LINEもブロックしたのだ。今さらどんな顔をして話しかければいいのか分からないし、恭介からすれば、急に現れて男と一緒にいる元カノに話しかけられるなんて迷惑でしかないのかもしれない。
何より、恭介自身がカナに一切話しかけてこないのだ。
すれ違いざまに目があっても、何も言わずに通り過ぎていった。 あの沈黙こそが、恭介からの答えなのだろう。
(そうよね……恭介さんの中で、私はもう『過去の女』のひとりなんだ)
かつて愛し合い、同じ部屋で笑い合っていた日々は、もうとっくに終わっている。 自分だけに向けられていたはずの特別感は、もうどこにも存在しない。




