静かな去り際
もう、ダメなんだ。
何をどうしても届かない。どれだけ後悔しても、カナの心はもうここにはない。 1ヶ月近くが過ぎ、恭介はついにその事実を受け入れるしかなかった。
静まり返った部屋に入るたび、カナの残像が胸を締め付ける。思い出に押し潰されそうになる毎日に耐えきれず、恭介はしばらくの間、知り合いの家に身を寄せることにした。必要最低限の荷物だけを鞄に詰め、逃げるように自分の部屋を後にした。
知り合いの家で無気力な日々を過ごしていた、ある日のこと。 恭介のスマホに一通のショートメールが届いた。
LINEをブロックされている以上、残された唯一の連絡手段だった。
『荷物を取りに行きます。20日の14時頃に伺ってもいいですか』
画面に表示された「カナ」の名前と、あまりにも機械的で淡々とした文面。 かつて語尾に「♪」をつけて甘えてきたあの表情は、そこには一切感じられなかった。
胸がキュッと締め付けられる。問い詰めたいことも、謝りたいことも、山ほどあった。 けれど、下手に言い訳を重ねてこれ以上彼女を嫌な気持ちにさせたくないという思いが、恭介の言葉を奪った。
画面をタップし、指先を動かす。
『はい』
たった2文字だけを返し、恭介は静かにスマホを置いた。
◇
約束の日の14時前。カナはキャリーケースを引きながら、かつて二人で過ごしたマンションの前に立っていた。
見慣れたエントランス、何度も通ったエレベーター。 胸が破裂しそうなほどの緊張感と動揺を押し殺しながら、恭介の部屋のドアの前まで辿り着く。
(恭介さん……いるのかな。会ったら、どんな顔をすればいいんだろう)
怒りや悲しさよりも、恐怖が勝っていた。もし目の前に恭介が現れたら、押し殺してきた感情が決壊してしまうかもしれない。
深く息を吸い込み、震える手でカバンから鍵を取り出した。鍵穴に差し込み、静かに回す。
カチャリと金属音が響き、ゆっくりとドアを開けた。
「……お邪魔します」
強張った声でそう呟き、恐る恐る中を覗き込む。だが、返事はなかった。
そっと靴を脱いで廊下を進み、リビングのドアを開ける。
室内は、拍子抜けするほど静まり返っていた。恭介の姿はない。
綺麗に整頓されたリビング。テーブルの上には何も置かれておらず、カーテンは開け放たれたまま。窓から差し込む昼の光が、かえって部屋の空虚さを際立たせていた。
あんなに温かかった部屋から、生活感が完全に消えている。
(恭介さん……もう、ここに住んでないのかな)
どこか別の場所で暮らしているのだろうか。それとも——。 一瞬よぎった考えを振り払うように、カナは小さく首を振った。もう、自分には関係のないことだ。
カナは自分の荷物が置かれていた棚に向かい、持ってきたキャリーケースを広げた。
本、残していた小物、季節外れの服。 余計な思い出に浸らないよう、感情を殺して機械的に荷物を詰め込んでいく。
パンパンになったキャリーケースのジッパーを閉めるが、まだすべてを持ち帰ることはできなかった。
「……残りは、また今度にしよう」
恭介がいない安堵と、どこかぽっかりと穴が開いたような寂しさ。 複雑な思いを抱えたまま、カナは部屋の中を一度だけ見渡した。あんなに大好きだったこの場所が、今はただの「知らない人の家」のように思えた。
静かにドアを閉め、カナはかつての愛おしい日常に、完全な終わりを告げるように足を前に進めた。
◇
数日後。カナは残りの荷物を引き取るため、再びかつての部屋の前に立っていた。
一度来ているはずなのに、ドアノブを掴む手はやはり緊張で強張ってしまう。
(今日は、恭介さんがいるかもしれない……)
もし恭介がいたら、どんな顔をして、どんな言葉を交わせばいいのか。すれ違うだけの会話を交わす自分を想像しては、胸が締め付けられる。
意を決して鍵を回し、そっとドアを押した。
「……お邪魔します」
静まり返った玄関。返事は、なかった。
リビングへ入ると、室内は前回来た時と寸分違わず同じ状態だった。
テーブルの上に物が増えているわけでもなく、カーテンも開け放たれたまま。数日前に自分が踏み入れた空気だけが、そのまま取り残されているようだった。
やっぱり、恭介さんはここには住んでいない。
どこに行っているんだろう。どこで、誰と過ごしているんだろう。
(あの人と……一緒にいるのかな)
あの駅前で見た綺麗な女性の顔が頭をよぎる。けれど、カナはすぐに「関係ない」と強く首を振った。 自分から切り捨てて、鍵をかけた恋だ。これ以上、彼の足跡を追う権利も理由も自分にはない。
残していた荷物をすべてキャリーケースとカバンに詰め込んでいく。 これで、この部屋に自分の荷物はひとつもなくなった。
二人で揃えた家具や家電だけを残し、完全に「カナの痕跡」が消えた室内。
作業を終え、ぽつんと一人立ち尽くす。
「ふぅ……」
静かな部屋に、小さく息を吐く音が響いた。 吸い寄せられるようにソファへと歩み寄り、静かに身を横たえる。
見上げた天井。あの温かい日々の中で、恭介と並んで何度も眺めた景色だった。
視界が不意に滲み、目尻からすっと一筋の涙が頬を伝って髪に染み込んでいく。 もう終わったはずなのに。もう関係ないのに。押し殺していたはずの思い出が、怒涛のように胸に押し寄せてくる。
目を閉じると、二人の笑顔や優しい声が鮮明に甦った。
「ありがとう」
声にならない感謝と別れの言葉を、心の中でそっと呟く。
「よし」
小さく自分に言い聞かせるように呟き、体を起こした。 涙を拭い、体を奮い立たせて立ち上がる。
キャリーケースのハンドルを固く握り締め、カナは二度と振り返ることなく、静かに部屋を後にした。
◇
カナは久しぶりに、気心の知れた友人たちと食事に出かけていた。
大失恋をして落ち込んでいたカナを心配し、友人たちが気を遣って「良い人がいるから」とセッティングしてくれた、男女2人ずつの食事会だった。
「カナ、ダメだったら言ってね!気楽に行こう!」
友達の思いやりがありがたく、カナも少しずつ笑顔を取り戻しながらグラスを傾けていた。 そして友人たちがカナに紹介したいと言っていた男性——ユーキは、清潔感のある落ち着いた雰囲気を纏っており、第一印象はとても誠実そうだった。
嫌な感じは一切しない。むしろ、心地よい距離感で話してくれる好印象な男性だった。
宴もたけなわとなった頃、友達カップルが示し合わせたように席を立った。
「あ、私たちちょっと次があるから先行くね! ユーキ、あとはよろしくね〜!」
「えっ、ちょっと……!?」
カナが驚く間もなく、二人は嵐のように去っていった。 テーブルに残されたのは、カナとユーキの二人きり。
少しの気まずい沈黙の後、ユーキが気恥ずかしそうにグラスを弄りながら、まっすぐにカナを見つめた。
「あの……カナさんって、本当にお綺麗ですね。最初にお店に入ってきた時、正直ドキッとしました」
「いえいえ! そんなことないです……もう若くもないし」
思わぬストレートな褒め言葉に、カナは慌てて手を振って照れ隠しをした。
「そんなことないですよ。……あの、カナさんは今、彼氏さんとかっているんですか?」
ユーキからの不意の質問に、カナは胸がハッとした。
頭の裏側に、一瞬で恭介の顔が浮かび上がる。 あの優しかった笑顔、二人で過ごした部屋、最後の冷たい空気。
(……ううん。私、もう違うんだ)
過去を断ち切るように、心の中で小さく首を振る。恭介との恋は、もう完全に終わったのだ。
「……いえ、いないです。ユーキさんは?」
「僕もいないんです。休みの日は一人で寂しくて。あはは」
おどけて笑うユーキの表情には、どこか嘘のない温かさがあった。 ユーキは少し緊張した面持ちで、真剣な目をカナに向けた。
「もし良かったら……またこうやって、一緒に飲みに行ったりしたいんですけど。お誘いしてもいいですか?」
まっすぐな提案。傷ついた心に、ユーキの素直な言葉がじんわりと染み込んでいく。
「……はい、お願いします」
カナが微笑んで頷くと、ユーキは「よっしゃー!」と子供のように声を上げて拳を握りしめた。
「あ、すみません、嬉しくてつい……!」
恥ずかしそうに頭を掻くユーキの姿を見て、カナの口元から自然と小さな笑みがこぼれた。 凍りついていた心が、少しずつ、新しい温もりによって解けていくのを感じていた。
ユーキはカナと同い年で、職業は公務員。 真面目で誠実、爽やかな笑顔の似合う、どこから見ても絵に描いたような好青年だった。
あの夜以来、二人は何度かデートを重ねていた。 休日にカフェに行ったり、公園を散歩したり。ユーキはいつもカナのペースを尊重し、車道側を歩いてくれたり、体調を気遣ってくれたりと、どこまでも優しかった。
ある日のデートの帰り道。 夕暮れ時の静かな公園で、足を止めたユーキが少し緊張した面持ちでカナに向き合った。
「カナさん。……僕と付き合ってください。僕じゃダメですか…?」
まっすぐに自分を見つめてくる真摯な瞳。 恭介との破局で深く傷つき、もう誰も信用できないかもしれないと思っていた心に、ユーキの誠実さがじんわりと温かく染み込んでいく。
「こちらこそ……よろしくお願いします」
カナが微笑んで頷くと、ユーキは「本当ですか……!?」と顔を輝かせ、破顔した。 こうしてカナに、新しい彼氏ができた。
それからの日々は、穏やかで輝かしいものだった。
水族館で泳ぐ魚を並んで眺めたり、テーマパークで一日中遊んで子供のように笑い合ったり。好青年なユーキらしく、どこへ行くのも爽やかで健やかなデートばかりだった。
カナの行きたい場所を一番に考えてくれ、何を聞いても「いいね、行こう!」と笑ってくれる。 一緒にいて安心できるし、穏やかな幸せを感じているのは確かだった。
けれど——二人の間に、まだ身体の関係はなかった。
手をつなぐことや軽く抱き合うくらいはあっても、その先へ進む段階になると、カナの心がキュッと縮こまってしまうのだ。
頭のどこかで、かつて自分のすべてを委ねた恭介の感触や、その後に訪れたあの凄まじい絶望の記憶が影を落としていた。
裏切られた恐怖とトラウマが、カナを臆病にさせている。 ユーキのことは好きだし、大切にしたい。けれど、心の奥底にある固い鍵だけが、どうしても外せずにいた。




