大きな亀裂
二人で過ごす穏やかで温かい日常がすっかり定着して1ヶ月ぐらいたった頃のことだった。
恭介の部屋で、二人はまったりとした夜を過ごしていた。
「先にお風呂入ってくるわ」
恭介がバスタオルを手に脱衣所へ向かい、パタリとドアが閉まる。水音が聞こえ始めた直後、テーブルの上に置かれた恭介のスマートフォンがブブッと短く震えた。
何気なく目をやったカナの視線が、画面に釘付けになる。
【リホ】
「……え?」
カナの心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。 リホ。聞いたことのない名前だった。
恭介は隠しているつもりかもしれないが、カナは恭介がロックを解除する数字を以前横で見ていて知っていた。見てはいけない。プライベートを覗くなんて最低だ。頭ではそう分かっているのに、胸を押し潰すようなザワつきに耐えきれず、震える指先で画面をスワイプし、パスコードを打ち込んでいた。
開かれたトーク画面には、親しげなやり取りが数行並んでいた。
『金曜日は21時には終わるから中央駅で。』
どういうこと……? 頭の中が真っ白になり、指先が急速に冷えていく。 その時、風呂場の水音が止まり、カナは慌てて画面を閉じ、スマホを元の位置に戻した。
「ふぅ、さっぱりした」 髪を拭きながら部屋に戻ってきた恭介は、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。カナは必死に顔を作り、テレビに視線を向けたまま言った。
恭介はスマホを拾い上げ、画面をチラッと確認すると、申し訳なさそうにカナを見た。
「あ、そういえばさ、今週の金曜日なんだけどさ。地元の友達と飲みだから、少し遅くなるかも」
友達——。 その言葉が、カナの胸に鋭い針のように刺さる。リホという名前の女性と会うのに、恭介は「地元の友達」と嘘をついた。
(なんで……? なんで嘘つくの……?)
問い詰めたい衝動が喉まで出かかった。けれど、もし問い詰めて「ただの友達だよ」と言い逃れされたら? 勝手にスマホを見たことで軽蔑されたら?あるいは、自分の聞き分けのなさに呆れられたら? 怖くて、何も言えなかった。
「そっか、了解! 」
平静を装い、いつものように明るく返事をする。恭介は「ありがとな」とカナの頭を撫でたが、その手の温もりが、今夜はひどく遠くに感じられた。
金曜日の夜。
仕事が終わったカナは、まっすぐ家には帰らなかった。 胸の中に渦巻く疑惑と、恭介を信じたい気持ち。その狭間で引き裂かれそうになりながら、中央駅の近くにあるカフェの窓際席で、一人じっと時間を潰していた。
(見間違いであってほしい。何かの誤解であってほしい……)
冷めた紅茶のカップを両手で包み込みながら、祈るような思いで時計の針を追う。
21時5分前。カナはカフェを出て、人通りの多い中央駅の改札付近が見渡せる柱の影に身を潜めた。
21時ちょうど。約束通り、恭介がやってきた。 少しソワソワした様子でスマホを気にしながら立っている。本当に、恭介はここにいた。その事実だけで、カナの呼吸が浅くなる。
直後、人混みを縫うようにして、一人の女性が恭介に向かって駆け寄ってきた。 スラリとした綺麗な女性だった。
その女性——リホは、追いつくなり迷いなく恭介の身体にぎゅっと抱きついた。 恭介は一瞬驚いたような顔を見せたものの、突き放すこともなく、愛おしそうな、柔らかい笑顔を浮かべて彼女の背中に手を添えた。
「あ……」
声にならない途切れ途切れの息が、カナの口から漏れた。
夜の街の喧騒が、一瞬で遠のいていく。これまで積み重ねてきたすべての温かい記憶が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
恭介のあの笑顔は、自分だけに向けられるものじゃなかった。 彼の心の中にいたのは、私じゃなかった。
柱の影で立ち尽くすカナの目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。視界が歪み、二人の楽しげな姿が滲んでいく。カナはそれ以上見ていることができず、二人に背を向け、逃げ出すように夜の街へと走り出した。
もうダメだ。耐えられない。
逃げるように部屋へ戻ってきたカナの頭の中を、あの駅前で見た光景が何度も何度も繰り返された。
自分に向けられていたはずの、あの柔らかい笑顔。迷いなく恭介の胸へ飛び込んでいった綺麗な女性。
(私、何だったんだろう……)
もう涙すら出てこなかった。あまりのショックと、信じていた現実が足元から崩れ去った恐怖で、身体の震えが止まらない。
カナはクローゼットから自分のキャリーケースを引き出すと、自分の服や化粧品、身の回りのものを無心で詰め込み始めた。恭介と一緒に買ったマグカップや二人の思い出の品には一切手を触れず、自分の荷物だけを機械的に放り込んでいく。
パンパンに膨らんだキャリーケースのジッパーを閉め、部屋を見渡す。 つい数時間前まで、ここは自分にとって世界で一番安心できる場所だった。
カナは静かにドアを開け、一度も振り返ることなく部屋を後にした。
◇
その頃、恭介は駅から少し離れた居酒屋の個室で、リホと向かい合っていた。
どこかおっとりとした関西弁と、はんなりとした色気を纏ったリホは、グラスを傾けながら上目遣いで恭介を覗き込んできた。
「ねぇ、このあと部屋に来るんでしょ〜?」
「いや……今日は無理。忙しいからな」
「なんでよ〜? ええやん、減るもんやないし。うち、久々に恭介とゆっくりしたいなぁと思って来たのに」
身を乗り出して指を絡めてくるリホに、恭介は困ったような笑いを浮かべながら、そっと腕を解いた。
「ダメだって。……俺、今付き合ってる彼女いるし」
「え〜、彼女? マジで言ってるん? 前会った時はそんなこと言ってへんかったやん」
「大事な奴なんだ。だから、部屋には行けない」
「ふ〜ん……つまらんの」
不満そうに唇を尖らせるリホとなんとか会話を合わせつつも、恭介の心の中には居心地の悪さが広がっていた。リホとの食事を適当なところで切り上げ、恭介は「じゃあ気をつけて帰れよ」とリホをタクシーに乗せ、自分の部屋へと戻ることにした。
夜風に当たりながら駅へ向かって歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を開くと、カナからのLINEだった。
『今までありがとう。彼女さんと仲良くね。』
「……は?」
恭介の足がピタリと止まる。
彼女……? 仲良く……? どういうことだ? 意味が分からず、恭介は慌てて画面をタップした。
『どういうこと? 今どこ?』
メッセージを送信する。だが、待てど暮らせど「既読」の二文字がつかない。
……さっきのリホとのやつ、見られてたのか?
ドッと冷や汗が噴き出し、血の気が引いていく。 焦るというよりは、「やっちまった……」という、底のない絶望感が頭の中を真っ白に染め上げていった。
重い足取りでマンションへ戻り、静かに部屋の鍵を開ける。
「カナ……?」
返事はない。静まり返った室内には、明かりすらついていなかった。
リビングの電気をつける。 いつもカナが上着を掛けていたハンガーラックはガラ空きで、洗面所にあった彼女の歯ブラシや化粧品も綺麗に消えていた。
「まじかよ……」
恭介はその場にへたり込み、頭を抱えた。 パニックになる気力すら湧かない。ただただ、「終わってしまった」という決定的な絶望と後悔だけが、冷ややかな部屋の中に重く立ち込めていた。
電気の消えたリビング。恭介は一人、ソファに深々と身体を沈めて天井を見上げていた。
スマホを握りしめたまま、何度もカナとのトーク画面を開く。 『どういうこと? 今どこ?』 送信したメッセージの脇には、どれだけ待っても「既読」の二文字がつかない。
あの夜、駅前でのリホとの接触。楽しそうに見えてしまったであろう自分の態度。 言い訳のしようもない事実と、取り返しのつかない自分の甘さが頭の中でぐるぐると渦を巻く。
「……あーあ」
夜の静寂の中に、ぽつりと重いため息が落ちた。
部屋を見渡せば、どこもかしこもカナの記憶ばかりだ。キッチンに置かれたままのマグカップ、二人で選んだクッション、朝の光の中で笑っていたカナの顔。
説明したい。誤解を解きたい。ただの友達で、もう二度と会わないと誓うから、頼むから話を聞いてほしい。 だが、連絡が繋がらない以上、恭介にできることは何一つなかった。
静かに目を瞑る。 ——あぁ、これはもう、本当にダメなんだな。
底のない絶望感が、恭介の胸をゆっくりと冷やしていった。
それから、あっという間に1週間が過ぎた。
カナからの連絡は途絶えたままで、恭介が送ったメッセージも、ついに一度も既読になることはなかった。電話をかけても、電子音が虚しく響くだけ。
仕事をしていても、一人で部屋に帰ってきても、頭の中にあるのはカナのことばかりだった。 朝起きても、夜寝る前も、吐き出されるのは重いため息ばかり。自分の愚かさに打ちのめされながら、恭介はただただ灰色の日常を消化するしかなかった。
◇
その頃、カナは実家の自分の部屋にいた。
あの夜、荷物をまとめてそのままタクシーに飛び乗り、着いた実家で母に抱きつきながら一晩中泣き明かした。
そして翌朝、震える指で恭介のLINEをブロックした。着信拒否も設定した。
「もう……これ以上、悲しみたくない」
画面から恭介の存在を消し去った瞬間、胸がちぎれるような痛みが走った。 甘い時間も、くだらないことで笑い合った日常も、すべてが幻だったかのように遠のいていく。
最初の数日は、不意に恭介の匂いや声を思い出しては涙がこぼれ、激しい寂しさに襲われた。
寂しさが消えたわけじゃない。けれど、時間という薬は、確実にカナの傷口を薄いかさぶたで覆いはじめていた。




