私の帰る場所
東の空がうっすらと白み始める前、まだ街全体が深い眠りについている時刻に、カナは目を覚ました。
そっと横を向くと、目の前には静かな寝息を立てている恭介の顔があった。
部屋を飛び出してから、およそ3ヶ月。 かつては当たり前だったこの距離感が、今は途方もなく遠く、そして途方もなく愛おしい。
少し伸びた黒髪、無防備な眉間、規則正しく上下する胸元。 伸ばしかけた手をそっと引っ込め、カナは恭介の寝顔を焼き付けるようにじっと見つめた。胸の奥が締め付けられるように熱くなり、痛いほどの愛おしさがこみ上げてくる。
けれど、恭介が目を覚ます前にここを出て行かなければならない。 今の自分には、まだこの場所に留まる資格はないのだから。
恭介を起こさないよう、慎重に布団を抜け出す。
静かに廊下を進み、見慣れた重い扉を開けた。 外に出ると、ひんやりとした早朝の空気が頬を撫でる。
カチリ、と鍵を閉める音を背にして、カナは一度も振り返ることなくマンションをあとにした。
実家の自分の部屋に辿り着き、扉を閉めた瞬間だった。
張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「……っ……」
口元を覆っても漏れ出してしまう嗚咽。我慢していた涙が一気に溢れ出し、頬を濡らす。恭介への断ち切れない想いと、誠実なユーキを傷つけてしまう罪悪感。ぐちゃぐちゃな感情が涙となって溢れ続けた。
そのまま倒れ込むように眠りにつき、次に目を覚ました時にはお昼前になっていた。
カナは意を決してスマホを手に取り、ユーキへLINEを送った。
『昨日はありがとう。今日の夕方、少しだけ話せる?』
夕方。約束のカフェで向き合ったユーキは、いつもと変わらない優しい笑顔を浮かべていた。
「どうしたの? 急に」
その真っ直ぐな瞳を見るのが辛く、カナは拳を強く握りしめた。
「ユーキくん……ごめんね。私、ユーキくんとはもう会えない」
「……え?」
「ユーキくんはすごく優しくて、素敵で……私にはもったいないくらいの人。でも、私……まだ忘れられない人がいるの。ユーキくんといても、ずっとその人のことを考えてしまってた。そんな気持ちでユーキくんと一緒にいるのは、失礼だし……本当にごめんなさい」
頭を深く下げるカナに、店内の一角で重い沈黙が流れた。
ユーキは持っていたグラスをそっと置くと、寂しげな笑みを浮かべ、深く息を吐いた。
「……なんとなく、気づいてたよ」
「……え……?」
「昨日もさ、途中からどこか遠くを見てるみたいだったし。それに……カナちゃんが本当に好きなのは僕じゃないんだろうなって、そんな気がしてた」
ユーキは困ったように眉を下げ、優しく首を振った。
「寂しいけど……カナちゃんが無理して僕と一緒にいても、お互い幸せになれないもんね。話してくれてありがとう。……今まで楽しかったよ」
責めることもなく、カナの罪悪感を包み込むように了承したユーキ。
「ごめんなさい……ありがとう……」
最後まで優しかったユーキに頭を下げながら、カナは過去の未練と向き合う覚悟を、静かに胸に刻んでいた。
「……これでいいんだ」
夕闇が街を包み込む帰り道、カナは自分に言い聞かせるように、そっと呟いた。
ユーキを傷つけてしまった痛みと申し訳なさは一生消えない。けれど、自分の心に嘘をついたまま生きていくことだけは、もうできなかった。
部屋に戻り、カナは大きく深呼吸をした。
(……これから、恭介さんのところへ行くんだ)
胸の奥で、鼓動が激しく打ち鳴らされる。カナは人生で一番の気合いを入れることにした。
洗面台の鏡の前に立ち、ゆっくりと筆をとる。
肌のトーンを完璧に整え、アイラインの一筋にまで細心の注意を払う。恭介の視線を惹きつけて離さないような、隙のない完璧なメイク。唇には、自分の決意を示すような鮮やかなリップを乗せた。
クローゼットを開け、迷うことなく選んだのは一番お気に入りの服。
自分の体を最も美しく見せてくれるシルエット。鏡の中に映る自分は、迷いの中にいた昨夜のカナとはまるで別人だった。
そして最後に靴箱から取り出したのは、一番お気に入りのハイヒール。
足を滑り込ませると、すっと背筋が伸び、視界が高くなる。
「よし……」
姿見に映る自分を真っ直ぐに見つめ、カナは力強く頷いた。
これは単なるおしゃれではない。恭介という大きな存在に呑まれないための、そして自分の覚悟を突きつけるための戦いの鎧だ。
カナは力強い足取りで夜の街へと踏み出した。 アスファルトに響くコツン、コツンというハイヒールの乾いた高鳴りが、彼女の決意をどこまでも高く響かせていた。
エレベーターを降り、静まり返ったマンションの廊下を進む。
ポケットの中で握りしめた鍵を取り出す。 指先に冷たい金属の質感が伝わり、胸の鼓動が一気に跳ね上がった。
カチリ。
鍵を回し、ゆっくりとドアを開ける。 玄関に入ると、小さくハイヒールの音を響かせてそれを脱いだ。背筋を伸ばし、部屋の中に漂うあの日と変わらない恭介の匂いを深く吸い込む。
カナは呼吸を整えると、静かに廊下を進み、リビングへと向かった。
ゆっくりとリビングのドアを押し開ける。
「……ただいま」
静寂が支配するリビングに、カナの声が小さく溶けていく。
気合いを入れたメイクも、とっておきの服も、この部屋の静寂の前ではどこか浮いているように感じられた。息をのむような緊迫感の中、恭介はソファに座ったまま、静かにカナを見つめている。
問い詰められるかもしれない。 「何のつもりだ」と突き放されるかもしれない。
緊張で全身の筋肉が硬くなり、胸の鼓動がうるさいほど跳ね上がっていた。
恭介は立ち上がることもなく、驚く様子も見せない。
ただ、テーブルの上のグラスに指先を添えたまま、少しだけ呆れたような、けれどどこか優しい眼差しでカナを見つめ返している。
3ヶ月の月日も、昨夜のすれ違いも、まるで最初から存在しなかったかのように。
恭介は静かに息を吐くと、いつもの低い声で、ごく自然に告げた。
「……おかえり」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥にあった緊張がすっと解けていくのが分かった。
涙は出なかった。 カナは溢れそうになる感情をしっかりと胸に閉じ込め、真っ直ぐな瞳で恭介を見つめ返した。
特別な言葉も、大げさな演出もいらない。ただ昔と何も変わらない日常の温度で受け止められたことが、何よりも嬉しかった。
「……うん」
カナは唇の端を少しだけ上げ、凛とした足取りでソファへ歩み寄った。
カナが腰を下ろすと、ソファがわずかに沈み込んだ。
隣から伝わってくる、聞き慣れた息遣いと肌の熱。3ヶ月の月日も、昨夜までの葛藤も、すべてが幻だったかのように二人の間の空気が溶け合っていく。
恭介は理由を尋ねることも、昨夜の男のことを確かめることもなかった。カナもまた、あの日駅で見かけた女性のことや、この部屋を出て行った理由を語ろうとはしなかった。
触れ合えば分かることがあり、言葉にすれば崩れてしまう繊細な温度があることを、二人は知っていた。
カナは深く息を吐き出し、寄り添うように恭介の肩へそっと頭を預けた。
伝わってくる服越しの上半身の厚み。その心地よさに浸ろうとした瞬間、頭上から少し呆れたような声が落ちてきた。
「……暑いから離れろよ」
そう言いながらも、本気で押し退けようとはしない。それが恭介なりの不器用な照れ隠しなのだと、カナには痛いほど分かっていた。
「なんでよ。いいじゃないの」
「暑いんだよ」
恭介は淡々とつれなく返す。けれど、逃げようとする気配はどこにもない。カナはクスッと小さく笑うと、すっと身を起こして恭介の瞳を覗き込んだ。
「私の魅力のせいで?」
「気温のせいでな」
間髪入れずに返ってきた素っ気ない言葉に、カナはわざとらしく眉をひそめた。
「もう……」
言い終えるより早く、カナは恭介の膝の上に跨がり、その首元に手を回した。
一瞬驚いたように瞬きをした恭介の言葉を遮るように、カナはゆっくりと唇を重ねた。
触れ合った唇から、あたたかい温度が体中に広がっていく。
素直になれない恭介の照れも、強がっていた自分の迷いも、すべてを溶かしていくような深いキス。
特別な言葉も、大げさな誓いもいらない。 何も語らないまま、二人だけの愛おしく愛くるしい日常が、静かに、そして確かに動き始めていた。




