終わり始まり
「ねぇ、恭介さん。2人でどこか行こう?」
グラスを回していたカナが、ふと思い立ったように顔を上げた。
「ん? 旅行?」
「うん。新婚旅行じゃないけど、そういう感じの」
照れ隠しのようにいたずらっぽく微笑むカナを見て、恭介も口元をゆるめた。
「そうだな。自由になった記念旅行か」
「うんうん!」
カナは嬉しそうに何度も首を縦に振る。
「前に行った温泉が付いてた旅館は?」
「同じとこでいいのか?」
「うん、季節も違うから料理も違うでしょ。あそこ、すごく良かったから」
「そうしようか。カナ、予約しといてくれよ」
「うん、おっけー!」
二人の間に流れるのは、どこまでも気楽で、それでいてお互いへの愛おしさに満ちた空気。
何かの「義務」や「形式」として行く旅行ではなく、ただ二人で美味しいものを食べて、温泉に浸かって、ゆったりとした時間を共有するためだけの旅。
一歩ずつ、自分たちだけの特別な日常を築き始めていた。
◇
旅行の前夜、二人はリビングでそれぞれの鞄を広げて荷造りをしていた。
恭介の荷物は、1泊2日ならこれで十分と言わんばかりの小さめのボストンバッグひとつ。対するカナの脇には、どこへ長期滞在するのかと思うような大きなキャリーケースが鎮座している。
見比べるまでもないその差に、恭介は思わず呆れ顔になった。
「……そんなに持っていくものあるか?」
「あるの! 女の子は着替えだけじゃなくて、いろいろ準備が必要なんだから」
テキパキとポーチを詰め込みながら、カナが胸を張る。
「また勝負下着とか仕込んでるんだろ?」
恭介が半目になりながらからかうと、カナは荷造りの手を止め、いたずらっぽく小悪魔的な笑みを浮かべた。
「どうだろうねぇ、それは秘密♡」
人差し指を口元に当ててウインクしてみせるカナに、恭介はふっと肩の力を抜き、苦笑するしかなかった。
相変わらず相変わらない。 けれど、この無邪気なまでの愛おしさが、今の自分にはたまらなく心地よかった。
◇
旅行当日。
一度訪れた場所だけにナビに頼ることもなく、車はスムーズに目的地へと走る。車内では相変わらずくだらない会話が途切れず、二人の笑い声が心地よく響いていた。
途中でカナが「代わるよ」と言い出し、運転をバトンタッチ。だいぶ慣れたとはいえ、助手席に乗る恭介はどうしても体に力が入ってしまう。無意識に助手席のドアグリップを強く握りしめながら、無事な運転を見守っていた。
だが、目的地が近づく頃には緊張の糸が切れたのか、カナは助手席でぐっすりと眠りに落ちていた。
「そろそろ着くぞ」
恭介が声をかけると、カナは目をこすりながらパチリと顔を上げた。
「え、私寝てた?」
「しっかり寝てたよ」
「あ、ごめんごめん!」
照れくさそうに笑うカナを横目に、車は懐かしい旅館のロータリーへと滑り込む。
帳場でカナが宿帳に記帳をする。いつものように、恭介の苗字を迷いなく書き進めていく。
「本日もようこそお越しくださいました。またこうしてお二人にお会いできて大変光栄でございます」
受付のお姉さんが嬉しそうに声をかけてきた。
「あ、覚えていてくれたんですね! 今回もよろしくお願いします」
カナが嬉しそうに声を弾ませると、受付のお姉さんは優しく微笑みを返した。
「もちろんでございます。前回お越しいただいた際のデータもしっかり共有しておりますので、本日もどうぞごゆっくりとお寛ぎくださいね」
「ありがとうございます! 楽しみにしてました!」
二回目の訪問であることを当然のように把握して温かく迎えてくれる洗練された接客に、カナの表情はいっそう華やいだ。
案内されたのは、前回とは趣の異なる客室だった。
「わー、すごい。前より少し広いね!」
部屋に入るなり、カナが声を弾ませる。今回の部屋に備え付けられた露天風呂は、無骨な石で重厚に囲まれた、重厚感のある風情豊かな造りだった。
「いいじゃん。湯加減も良さそうだな」
「うん! さっそく入ろ!」
荷物を下ろした二人は、新しい部屋と無骨な石風呂の景色に、早くもテンションを上げていた。
コンコン、と軽やかなノックの音が部屋に響いた。
「ん? なんだろう?」
「はーい」
カナがすばやく立ち上がり、ドアを開ける。そこに立っていたのは、一凛の佇まいを見せる上品な着物姿の女性だった。深々とお辞儀をし、柔らかな笑みを浮かべる。
「当旅館の女将の三田でございます。本日は遠方よりようこそお越しくださいました」
突然の登場に、カナも「あ、はい!」と少し身を硬くする。
「当館を再度ご利用いただいたお客様には、こうして直接お礼をお伝えさせていただいておりまして。以前お越しいただいた際も、ご滞在を楽しんでいただけたと伺い、大変嬉しく思っております」
「いえこちらこそ! 素敵な温泉とお料理が忘れられなくて、またお邪魔させてもらいました」
恐縮しながらもカナが嬉しそうに答えると、女将は窓の外へ視線を向け、優しく目を細めた。
「ちょうど秋も深まり、山の木々も綺麗に色づいてまいりました。この時期は紅葉の景色はもちろん、山菜や松茸、脂の乗った旬の魚など、春とはまた違った味覚をお楽しみいただけます」
そして、女将はふたりに向かって微笑みかけた。
「お客様、お酒は飲まれますか?」
「はい。特に主人はお酒が大好きで……」
「あら、いいですね。でしたら、夕食の際に当館特選の地酒をご用意させていただきますね。秋のお料理にも大変よく合いますので、ぜひお召し上がりくださいませ」
「え! ありがとうございます!」
「それにしても、ご夫婦でこうして旅行なんて素敵ですね」
女将の言葉に、カナは照れくさそうに笑いながら答えた。
「あは、たまには2人で旅行でも、ということになって」
「いいですねー。どうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ」
「こちらこそよろしくお願いします!」
丁寧にお辞儀をして去っていく女将の背中を見送り、カナはパタンとドアを閉めると、胸を押さえて恭介のもとへ駆け寄ってきた。
「なんか、2回目だからかな? 女将さんがわざわざ挨拶に来てくれたよ」
「へー、律儀だな」
恭介は感心したように頷きながら、もてなしの温かさに心をほころばせた。
「じゃあ、私、先に入るね!」
カナは嬉しそうに声を弾ませると、さっそく浴衣に着替えて温泉に入る準備を始めた。
「俺はちょっとゆっくりするわ」
恭介は畳に腰を下ろし、途中のコンビニで買っておいた缶ビールをプシュッとあける。黄金色の液体を喉に流し込み、深々と息を吐き出した。
ガラス越しに、カナがシャワーを浴びて無骨な石風呂へと向かう姿が見える。
湯気が立ち上る石造りの湯船に、カナがそっと身体を沈めた。心地よさに目を細めたカナは、こちらに気づくとパッと顔を輝かせ、親指と人差し指で輪を作って「いいお湯だよ!」とオッケーのサインを出してきた。
そして、お湯をチャプチャプと揺らしながら「早く来て」と手招きをする。
恭介は缶ビールを掲げ、「俺は後でいいよ」と手で合図を返した。
するとカナは、ぷくーっと頬を膨らませて少し怒ったような顔を作ると、もう一度力強く手招きをした。
「わかったよ……」
苦笑しながらビールをテーブルに置き、恭介も服を脱いで湯殿へと向かった。
「遅いよ!」
「はいはい、悪かったよ」
湯船の縁に腰をかけ、無骨な石に囲まれた湯にゆっくりと身を沈める。
「ふぅーーーー……、いいな」
身体の芯まで温もりが染み渡り、思わず深い吐息が漏れた。
「でしょ!」
カナは満足そうに胸を張り、眩しいほどの笑顔を向けた。石の質感と白い湯気、そしてカナの笑顔。気兼ねのない心地よい時間が、静かに流れていった。
「この温泉、なんか体に合ってるわぁ」
肩までお湯に浸かりながら、カナが気持ちよさそうに目を細めた。
「そうなのか?」
「そうよ。温泉って効能とかあるでしょ? たぶん、それが私に合ってるんだわ。ここなら何度でも来たいなぁ」
「うん、いい温泉だな。旅館の雰囲気もいいし」
体の芯から温まった二人はゆっくりとお湯から上がり、お揃いの浴衣羽織に身を包んで近所の散策へと繰り出した。
秋の澄んだ空気を吸いながら少し歩くと、渋い佇まいの酒屋が目に入る。軒先には『角打ち』と書かれた小さな赤提灯が揺れていた。
「お、いいな」
「角打ちってなに?」
首をかしげるカナに、恭介が説明する。
「店で売ってるお酒を、その場でそのまま飲めるんだよ」
「試飲みたいな感じ?」
「うん、そんな感じ」
ガラガラと引き戸を開けて店内へ入ると、ズラリと地酒が並んでいた。棚を物色していると、店員が気さくに声をかけてくる。
「気になるのがあれば、そちらのカウンターで飲めますよ」
「あ、このラベル可愛い! 私、これ飲んでみたい」
「じゃあ、俺はこっちにしてみるか」
グラスに注いでもらった地酒を、それぞれ口に運ぶ。
「あ、美味しい!」
「これも美味しいぞ」
地酒の深みに満足した恭介は、カウンター越しに注文を足した。
「すみません、梅水晶ください」
カナが恭介の袖を少し引っ張り、小声で囁いてくる。
「ねぇ、梅水晶ってなーに?」
「ほんと、何も知らないんだな……」
恭介が呆れ顔を見せると、店員さんが笑顔でフォローを入れた。
「サメの軟骨を梅肉で和えたものですよ」
「へー! ちょっと食べさせて」
カナは運ばれてきた小鉢から一口パクリと口に運ぶ。ポリポリとした歯ごたえと爽やかな酸味が広がり、パッと目を輝かせた。
「あ、美味しい!」
「だろ? 日本酒には梅水晶だろ」
恭介が誇らしげに言うと、店員さんも楽しそうに笑った。
「あはは、まさにその通りですね」
恭介は苦笑いを浮かべつつ、カナとグラスを傾ける。
絶品のおつまみを交えて2〜3杯ほど引っ掛けた二人は、今日一番気に入った地酒を選び、レジへ持っていく。
「どちらにお泊りなんですか?」
お酒を丁寧に包装しながら、店員さんが気さくに尋ねてきた。
「あ、そこの角の旅館です」
恭介が答えると、店員さんは「あぁ!」と声を弾ませた。
「さっちゃんところかー」
「さっちゃん?」
首をかしげるカナに、店員さんは嬉しそうに目を細める。
「あそこの女将さんね、私の幼馴染なんですよ」
「へー!」
「じゃあ、少しお安くしときますね!」
「え、いいんですか!?」
思いがけない申し出にカナが目を丸くすると、店員さんは笑いながら手際よくお会計を済ませてくれた。
「さっちゃんによろしく言っといてください!」
「はい! ありがとうございます!」
思わぬサービスで手に入れたお酒とつまみを抱え、二人はほくほく顔で宿への帰り道を歩く。
「なんかラッキーだったね!」
「うん。この街はいい人ばかりだなぁ」
夕暮れ時の心地よい風を感じながら、恭介とカナは温かい手土産を手に、灯りのともる宿へと戻っていった。
夕食の時間になり、二人は案内に従って個室へと向かった。
案内された部屋のテーブルには、秋の味覚がぎっしりと美しく並べられていた。旬の松茸や彩り豊かな山菜、ツヤツヤと光る新鮮なお造り。どれも食欲をそそるものばかりだ。
そこへ、再び女将の三田がしとやかに姿を見せた。
「お料理のご準備が整いました。手前にございますのが当館特選の地酒でございますので、ぜひお召し上がりくださいませ」
丁寧な説明を受ける中、カナが嬉しそうに思い出して口を開いた。
「あ、女将さん! さっきその先の酒屋に行ったんですけど、そこのご主人が『さっちゃんによろしく』って言ってました!」
女将は一瞬目を丸くしたあと、ふっと柔らかく破顔した。
「あら、タロちゃんですね。あの方は私の幼馴染なんですよ」
「みたいですね。わざわざサービスまでしていただいちゃって……」
恭介が恐縮しながら伝えると、女将はいたずらっぽくクスリと笑った。
「うちのお客様にはしっかりサービスしなさい、って日頃から言い聞かせてありますから。うふふ」
「あはは、そうだったんですね! ありがとうございます」
「では、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。失礼いたします」
女将が優しく一礼して去ったあと、二人はさっそく料理に箸を伸ばした。
「……うわ、なにこれ。めちゃくちゃ美味しい!」
一口食べたカナが、目を輝かせて声を漏らす。どれを食べても出汁の深みが際立っており、秋の食材の旨味が口いっぱいに広がる。サービスでいただいた地酒との相性も抜群で、文句のつけようがない。
「ほんと、相変わらず何喰っても抜群に美味いな」
恭介も唸りながらグラスを傾ける。
「ね! 本当にここにして良かったぁ」
大好きな料理とお酒に囲まれ、カナは頬を緩ませながら心底ご満悦の表情を浮かべていた。
すっかりお腹を満たした二人は、満足感に包まれながら部屋へと戻った。
「私、また温泉入ってくる!」
カナはそう言うやいなや、早速浴衣を脱ぎ捨てて湯殿へ向かう。恭介もひと呼吸置いたあと、カナの後に続いて無骨な石風呂へ足を踏み入れた。
「はぁーー……、本当に何度でも入りたくなるな」
身体の力を完全に抜き、恭介は縁の大きな岩に頭を預けてプカプカと湯に浮かんだ。
「……ちょっと、恭介さん。変なものが浮かんでるよ……」
湯船の端から、カナが呆れ顔でこちらを見ている。
「見なきゃいいだろ」
恭介が薄目を開けて鼻で笑うと、カナは「もうっ」と湯をパシャリとはね返してきた。
湯上がり後、楽しみにしていたあの酒屋の一本を開ける。テーブルには、買い込んできたおつまみをズラリと並べた。
トクトクと静かな音を立てて、二人のグラスにお酒を注ぎ込む。
「乾杯」
カチン、と心地よいガラスの音が響く。
「あぁー……やっぱり美味いな」
「うん! すっごく飲みやすいね」
カナもうっとりとグラスを見つめ、珍味の小袋に手を伸ばした。
「ねぇ恭介さん、この珍味なんだろう? なんの魚かな? でもすごく美味い!」
「どれ……あぁ、これか。名前は分かんねぇけど、酒が進む味だな」
部屋に広がるほのかな酒の香りと、窓の外から聞こえる虫の声。
形に縛られない二人だからこそ味わえる、贅沢で穏やかな秋の夜がゆっくりと更けていった。
旅先での酒も手伝い、少し気が大きくなった恭介はふと思い立った。
(どうせ昼間の話通り、気合いの入った下着でも仕込んでるんだろう)
ニヤリと笑いながら手を伸ばし、カナの着ている浴衣をバッと豪快に開いた。
「キャッ!?」
はだけた浴衣の隙間から現れたのは、下着どころか、湯上がりそのままの何も身につけていないカナの素肌だった。
「え……? あ、ごめん」
「ちょっと! 何よ急に! やめてよもうっ!」
カナは慌てて胸元を隠し、顔を真っ赤にして恭介の肩を叩く。
「あ、いや、本当にごめんごめん……」
恭介は平謝りしながら、そっと視線を逸らした。
(あれ……? 勝負下着じゃなかったのか……?)
完全に予想が外れて拍子抜けしつつも、どこかバツの悪い恭介は、誤魔化すようにグラスの酒を煽った。カナも照れくさそうに浴衣を整え直すと、二人で照れ隠しのようにテレビのバラエティ番組に視線を向ける。
くだらない番組のテンポに合わせて笑い合い、とりとめのない雑談を交わしながら、気ままに酒を傾ける。
体が少し冷えれば、そのまま露天風呂へ直行し、無骨な石に身体を預けてお湯に浸かる。上がればまた冷えた地酒をつまみ、心地よい酔いに身を任せる。
何の時間にも追われず、何の義務もない。
ただ二人で「今」を気楽に楽しむだけの、どこまでも贅沢な秋の夜。
…続く




