希望の朝
パチッと目が覚めた瞬間、部屋の空気の違いに気づいた。
窓から差し込む朝日も、遠くでかすかに聞こえる車の走行音も、物理的には昨日までと何も変わらないはずだった。
けれど、カナの中では明らかに世界が一変していた。
胸の奥から湧き上がってくるのは、かつて感じたことのないほど澄み切った開放感。
(あぁ……本当に、新しい朝なんだ)
ふと、カナの脳内に軽快なピアノのメロディと朗らかな歌声が流れ出した。
♪新しい朝がきた〜 希望の朝だ〜
体操のフレーズが、今のカナの心境に恐ろしいほどぴったりと重なる。
隣を見れば、昨夜あれほどカナの暴走に付き合わされて疲れ果てた恭介が、まだ無防備な寝顔で深い息を立てていた。
布団から出て、カナはぐーっと大きく両手を上に伸ばして背伸びをした。
カナはニヤけそうになる口元を抑えながら、意気揚々とベッドを抜け出し、カーテンを勢いよく開けた。
朝の準備をテキパキと終え、カナはいつになく軽やかな足取りで玄関に向かった。
「いってきます!」
寝ぼけ眼の恭介に声をかけ、ガラリと玄関のドアを開ける。
すると、タイミング良く、隣のおばちゃんと鉢合わせた。
「おはようございます!」
「あら、カナちゃん、おはよう」
近所の挨拶を交わすおばちゃんは、朝から満面の笑みを浮かべていた。
「どうしたの? 何かいいことあったの?」
「え?」
突然の問いかけに、カナは思わず自分の顔に手を当てた。
「なんかニコニコしてるわよ? 嬉しそうなんだもの」
隠しきれていなかったらしい。世界全体に祝福されているような気分のカナは、照れくささを隠しながらも笑みを深めた。
「あぁ、うん。ちょっとだけね!」
「そう、良かったわねぇ。今日も暑いから気をつけてね。いってらっしゃい!」
「いってきまーす!」
近所の何気ない一言すら、今のカナには最高のエールに聞こえた。爽やかな朝の光の中、カナは誇らしげに一歩を踏み出した。
◇
仕事が終わり、部屋の鍵を開けて中へ入る。
リビングへ向かうと、カナがソファでリラックスした様子でくつろいでいた。
「ただいま」
「おかえり」
いつもならキッチンから良い匂いがしてくる時間だ。食卓を見渡しても何も並んでいないことに気づき、恭介は首を傾げた。
「あれ? ご飯は?」
「うん? いいのいいの」
「どうするんだよ?」
「いいのっ!」
何を考えているのか分からない余裕の笑みを浮かべるカナに、恭介は怪訝な顔を向けた。
追求するのも面倒になり、とりあえず寝室で部屋着に着替えてから、恭介も同じようにソファに腰を下ろした。
ピンポーン。
静かな部屋にインターホンが鳴り響く。
「あ、きた!」
「ん?」
恭介が反応するより早く、カナは弾むような足取りでインターホンのボタンを押しに向かった。
『毎度でーす!』
「はーい!」
玄関でなにやらゴソゴソと受け渡しの音が聞こえ、数分後、リビングに戻ってきたカナの手には大きな木目調の丸皿が抱えられていた。
桶いっぱいに並んだ、色鮮やかな高級寿司。
「頼んじゃった。えへ」
カナは得意気な、けれどどこか照れくさそうなドヤ顔を決めてみせる。
「……多くないか? 何人前だそれ」
「え、4人前……」
「食べ切れるのかよ……」
「大丈夫よ」
カナは事もなげに笑うと、テーブルの中央にドスンとお寿司をセットした。
いつもと変わらない部屋で、いつもと違うちょっとした贅沢。浮かれたカナの祝宴が、静かに始まろうとしていた。
目の前に置かれた寿司桶には、ツヤツヤと光るネタがぎっしりと並んでいた。まぐろ、ウニ、イクラ、穴子……およそ50貫近くあるだろうか。大人ふたりで囲むには、明らかに度を越した量だった。
「50貫近くあるだろ、これ……どうするんだよ?」
恭介が引き気味に突っ込むと、カナはニヤニヤとした笑みを隠そうともせず、冷蔵庫から手際よく冷えた瓶とグラスを取り出してきた。
「冷酒もあるよ」
トントン、と涼しげな音を立ててテーブルに置かれたのは、カナが密かに仕込んでいた日本酒だった。
「……今日、なんかのお祝いだっけ?」
呆れ半分、可笑しさ半分で尋ねる恭介に、カナは冷酒をトクトクとグラスへ注ぎながら、とびきりの笑顔を向けた。
「お祝いだよ! 私たちのお祝い!」
理由なんて、いくらでも後付けできた。
ただ、ふたりで美味しいものを食べて、お酒を飲んで、誰に遠慮することもなく堂々と笑い合いたかった。
「はい、恭介さんの分」
手渡された冷酒のグラスは、指先が凍りつきそうなほど冷えていて、これから始まるふたりだけの贅沢な夜を静かに告げていた。
「でも、うまそうだな! 食べよう。いただきます」
恭介が観念したように醤油皿を手に取ると、カナの顔が一気にパッと輝いた。
「いただきます!」
元気よく手を合わせ、まずはウニからパクリ。口いっぱいに広がる濃厚な甘みに、カナの目尻がとろけるように下がる。
「あぁ、おいしいなー」
恭介も大ぶりのマグロを口に放り込み、しみじみと呟いた。
そこからはもう、言葉もいらないほどのラッシュだった。中トロ、カンパチ、サーモン、穴子。熱いお茶をズズッと啜っては、次から次へと握りを口の中へ放り込んでいく。
「ん〜〜! 最高!」
「食うペース早すぎだろ」
「恭介さんこそ!」
合間に冷酒をあおり、「くーーーっ!」と声を揃えて唸る。
キリッと冷えた日本酒が脂の乗ったネタと絶妙に絡み合い、お互い箸が全く止まらない。
最初は「多すぎる」と引き気味だった50貫の寿司桶は、ふたりの勢いに押されるように、みるみるうちに空きスペースを広げていった。
誰に気兼ねすることもなく、大好きな人と、最高の飯と酒。
気取らないリビングのテーブルで、ふたりだけの幸せな宴が続いていく。
あれほど敷き詰められていた寿司桶も、残すところあと10貫ほど。
さすがにペースが落ち、恭介は醤油皿を置いて背もたれに体を預けた。
「もう腹一杯だ。カナにあげる」
「私もお腹いっぱいだよ。恭介さん、食べてよ」
「無理無理。……ふぅー、ちょっと休憩な」
苦しそうに言った恭介は、パンパンに張ったお腹を擦りながら、固まった体をほぐすようにぐーっと腰をねじった。
「ふぅー……ちょっと運動しよ」
「……一緒に運動する?」
上目遣いでじーっと恭介を見つめてくるカナ。その瞳の奥には、怪しい熱が宿っていた。
「いや、違う違う。そういうことしか考えてないのかよ……」
恭介は一瞬で察し、引きつった苦笑いを浮かべながらジリッと後ざさりした。
「えー、だって『運動』って言ったじゃん」
「ストレッチのことだよ! なんで毎回そっちに変換されるんだよ!」
満腹のはずなのに、カナの底知れぬ欲望はすでに次のターゲットへと照準を合わせ始めていた。
「カナってそういうことばっか考えてんのか?」
「考えてないよっ! やめてよ!」
「あぁ、そうなんだ…。残念だ。カナが考えてるんだったら、それもアリかなと思ったんだけど」
恭介がニヤリと意地悪な笑みを浮かべ、わざとらしく肩をすくめてみせる。
カナは千載一遇のチャンスとばかりに食いついた。
「え、考えてるよ! いつも!」
言葉を投げつけた直後、恭介の冷ややかでジトッとした視線が突き刺さる。
カナは「今からでも全然いいよ」という雄弁すぎるメッセージを、潤んだ瞳で全身から発信していた。
「……さっき『お腹いっぱい』って言ってただろ」
「お寿司はお腹いっぱいだけど、恭介さんは別! 全然いける!」
支離滅裂なロジックを展開しながら、カナはにじにじとソファの上を這い寄り、恭介の膝の上に手を置いた。
「さっき『アリかな』って言ったよね? 聞き逃さなかったからね?」
「でも、まずは寿司な。もったいないだろ」
恭介がカナの額をぽんと指で小突き、寿司桶を指さした。
「えー、うん。でももう食べれないよー」
首に巻きつけていた腕を渋々解きながら、カナは寿司桶の残りをチラリと見る。脂の乗ったネタが残っているとはいえ、冷えたシャリと生魚をこのまま冷酒で押し込むのは、確かに限界だった。
「あ、焼いてみようぜ」
恭介がふと思いついたように立ち上がる。
「いいかもね! お茶漬けとかどう?」
「あぁ、いいな!やってみよう!」
さっきまでの妖しい空気はどこへやら、ふたりは子供のように目を輝かせてキッチンへ向かった。
フライパンに少しだけ油を引き、バーナーのかわりに軽く炙るようにネタを焼いていく。香ばしい醤油と脂の焦げる匂いがフワリと立ち込め、食欲を再び刺激した。
どんぶりにシャリと香ばしく焼けたネタを乗せ、熱いお茶をたっぷり注ぐ。
「……うわ、これ絶対うまいやつじゃん」
カナがごくりと唾を飲み込んだ。盛り上がった熱を一度リセットするように、出汁とお茶の優しい湯気がふたりの顔を包み込んでいた。
熱々のお茶漬けをズズッと啜った恭介が、満足そうに目を細めた。
「うん、うまいな。味変だな」
「うんうん、美味しい!」
香ばしく炙られたネタの脂がお茶に溶け出し、さっきまで満腹だったはずの胃袋にするりと収まっていく。ふたりは無言で箸を進め、あっという間に残りの寿司をすべて胃袋へ流し込んだ。
「ふぅーーー……ごちそうさまでした」
空になったどんぶりと綺麗な寿司桶を前に、恭介はソファに深く倒れ込んだ。
「うー、まじでお腹いっぱい……」
「結構食べたねー!」
カナも隣で丸くなったお腹をポンポンと叩きながら、満足感いっぱいの笑顔を浮かべる。
50貫近くあった寿司は跡形もなく消え去り、テーブルの上には空いたどんぶりと冷酒の瓶だけが残されていた。
気取らないアイデアで美味しく完食できた達成感と、心地よい満腹感。
ふたりの間には、平和で穏やかな満たされた時間が流れていた。
お腹を擦りながら、恭介は天井をぽかんと仰ぎ見た。
こういう阿吽の呼吸が大事だと思う。
高級な寿司を気取って食べるわけでもなく、途中で限界が来たら「焼いてみよう」「お茶漬けにしよう」と即座にアイデアが重なり、互いに笑い合いながら楽しんで平らげてしまう。
同じ価値観で、同じことで笑い合う。
気を張ることも、かっこつけることもない。ただそこにあるのは、圧倒的な心地よさとテンポの良さだった。
隣を見れば、カナが満足そうに目を細め、恭介の腕にそっと自分の腕を絡めてきている。
「なんか、幸せだね」
「そうだな」
ふたりの新しい日常は、まだ始まったばかりだった。
高級なレストランで着飾って食べる夕食も、もちろん悪くはない。
だが、恭介とカナが一番大切にしているのは「何を食べるか」ではなく、「誰と食べるか」なのだ。
そこには変な気取りも、無駄な高級感も必要ない。ただ、隣に誰がいるのか。そこが何よりも重要だった。
少しお行儀の悪い悪ノリも、笑い合いながら一緒に美味しく楽しめてしまう関係。
カナが隣にいてくれさえすれば、たとえ何を食べたとしても、世界中のどんな高級食材より美味しく感じられるだろう。
無邪気に笑うカナの横顔を見つめながら、恭介は心の底から深く納得していた。この場所こそが、自分にとって一番落ち着く最高の居場所なのだと。




