限界突破
仕事の休憩中に恭介からLINEが届く
『今日、帰ったら大事な話がある』
「……え?」
画面に浮かんだたった一行の文字に、カナの思考がフリーズした。
普段ならくだらないやり取りばかりなのに、こんな改まったメッセージは一度も来たことがない。
(大事な話……? なにそれ……)
ゆっくりと体を起こすと、途端に心臓がドクンと嫌な音を立て始めた。
(もしかして……別れようとか? いやいや、まさか……。でも、他に好きな人でもできた……?)
一度嫌な予感が芽生えると、ネガティブな妄想が濁流のように押し寄せてくる。いつもの笑い声の裏で、恭介は何か別のことを考えていたのだろうか。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音が響いた。
「ただいま」
恭介がいつもの調子で扉を開け、靴を脱ぎ始める。
リビングの扉が開くと、出迎えの「おかえり」を口にする余裕なんてどこにもない。胸の奥が張り裂けそうな焦燥感に突き動かされていた。
「ねぇ、大事な話ってなに?」
恭介は、少し疲れたような、けれどどこかすっきりした目で見つめてくる。
「離婚した」
「…………え?」
ピキッと、世界から全ての音が消えた。
時が止まった。周囲の空気が一瞬で凍りつき、カナの息が止まる。指先一つ動かすことすらできない。脳が言葉の意味を拒絶し、処理を諦めていた。
「え……? なに? どういうこと……?」
掠れた声でどうにか問いかけるカナに、恭介は静かに、けれどはっきりと重ねた。
「だから、離婚したんだよ」
言葉の意味を徐々に理解し始めた。
恭介には戸籍上の妻がいて、その関係にちゃんと終止符が打たれたということ。
けれど、胸の奥が追いついてこない。ずっとどこかで覚悟していたはずの現実と、急に目の前に突きつけられた事実のギャップに、心が激しく軋みを上げていた。
「え……?」
なにが起きているのか分からず、カナの視線が定まらない。
部屋の壁、天井、台所、そして恭介の顔。
助けを求めるように、あるいは現実感を探すように、カナはなぜか部屋の中をキョロキョロと見回した。
「おい、カナ……?」
突然挙動不審になったカナを心配そうに見つめる恭介。
その声すらも、どこか遠くの異世界から聞こえてくるようだった。
喉がカラカラに乾いていた。ゴクリと息を呑む音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
ずっと望んでいたことだった。
それなのに、何の予告もなくあまりにも唐突に飛び込んできた現実に、感情のスイッチが完全に切れていた。
キーン、と耳の奥で高い金属音が鳴り響いている。
どれくらい時間が経っただろうか。遠くの道路を走り去るトラックの重い走行音が、ようやく薄皮を剥ぐようにカナの耳へ戻ってきた。
「あ、そう……」
口から出たのは、驚くほど平坦でそっけない一言だけ。
涙が出るわけでも、飛びついて喜ぶわけでもない。情報量が濃すぎて、心が一切の反応を拒絶していた。
「先に風呂に入るわ」
「……うん」
恭介が脱衣所へ向かい、パタンと扉が閉まる音が響いた。
その音を合図にするように、カナは頼りない足取りでリビングへ戻り、ふわふわとした体のままソファへ深く腰掛けた。
静かに目を閉じる。
(恭介さんが離婚した……)
(恭介さんが……離婚した……)
頭の中で何度もその言葉を反復する。
パチン、と脳内で何かが弾ける音がした。
涙なんて出てこなかった。泣く暇なんてないくらい、急激な勢いで止まっていた現実が鮮烈な色彩を帯びて目の前に広がっていく。
今までどこか薄暗く、いつも透明なガラス越しに見えていた世界。目の前の空気も、家具も、自分たちの関係すらも、一気に色鮮やかなリアルへと塗り替えられていく。
「……まじで?」
目を開けたカナの口から、ぽつりと本音がこぼれた。
さっきまでのパニックが嘘のように消え去り、胸の奥から湧き上がってくるのは、抑えきれない巨大な喜びの波だった。
「ちょっと待ってよ……嘘でしょ……?」
誰もいないリビングで、つぶやく。
さっきまでフリーズしていた脳みそに、遅れて怒涛の勢いで理解が押し寄せてきた。
(離婚したって……本当に……?)
一瞬で脳内が歓喜の渦に巻き込まれ、激しく掻き回される。心臓が跳ね上がり、全身の血がカッと熱くなるのが分かった。
「え? え? え?」
嬉しさと驚きと興奮が全部いっぺんに爆発して、カナは思わず自分の両頬をペチペチと叩いた。
ずっと心のどこかで引きずっていた、目に見えないトゲ。いつか崩れるかもしれないという小さな怖さ。
そのすべてが、たった今、恭介の「離婚した」という言葉一つで跡形もなく吹き飛んでいた。
「嘘……やった……! まじで……!?」
脱衣所から聞こえるシャワーの音を聞きながら、カナはソファの上で人知れずガッツポーズを作り、抑えきれない笑みを噛み殺していた。
脱衣所の扉が開き、恭介がタオルで濡れた髪を拭きながら出てきた。
「恭介さんっ!」
「声がでかいよ……」
恭介はビクッと肩を跳ね上げ、眉をひそめて苦笑いした。
「さっき離婚したって言ったよね……?」
「あぁ、聞いてなかったのか?」
「ううん、聞いてた」
聞いていた。頭でも理解している。
けれど、カナは大喜びすることになぜか躊躇いを感じていた。
飛び跳ねて喜びたいはずなのに、ずっと望んでいたはずなのに、あまりにも急すぎる展開に心がうまく噛み合わない。下手に大騒ぎしてしまったら、この現実が嘘になって消えてしまうんじゃないかという妙な恐怖すらあった。
だけど、あまりにも大きすぎるその歓喜は、カナの心のキャパシティを完全に超えていた。
跳ね上がりたいのに、叫びたいのに、感情のメーターが振り切れすぎて、逆に体から力が抜けていく。溢れ出す喜びを受け止めきれず、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、妙な感覚に包まれていた。
大騒ぎするでもなく、飛びつくでもなく。
カナはぽつりと、自分でも驚くほど小さな声で呟いた。
「……あぁ、嬉しいな」
小さな呟きが、静かな部屋に溶けていく。
ドラマみたいに泣き叫ぶわけでも、派手に抱き合って乾杯するわけでもなかった。
カナが離婚した時もそうだった。紙切れ一枚を提出して何かが法的に変わったところで、明日からの空気が急にドラマチックに変貌するわけじゃない。
恭介は「そうか」と短く呟くと、首にかけたタオルで乱雑に髪を拭き直し、いつもの怠惰な足取りで冷蔵庫へ向かった。
「……麦茶飲む?」
「あ、飲む」
拍子抜けするくらい、いつもと変わらない日常。
コップを受け取ろうとした瞬間、カナの中で何かが決壊した。
カナはコップをテーブルにドカッと置くと、背中を向けた恭介の腰へ突進し、後ろから力任せにギュッと抱きしめた。
「ん?、なんだよ急に……っ」
驚く恭介の背中に顔を押し付け、溢れ出す愛おしさと感情の波を抑えきれず、カナは恭介の背中や肩に小さなキスを何度も何度もぶつけていく。
「おい、やめろよ……くすぐったいって!」
「やめない!」
感情のコントロールが完全に効かなくなっていた。
嬉しさと、愛おしさと、今まで溜め込んできた全部の感情がごちゃ混ぜになり、カナは恭介の肩口にがぶりと噛みついた。
「痛い痛い痛い! カナ、マジで痛いって!」
恭介の悲鳴すら愛おしくて、カナは噛みついたまま、絶対に離さないと言わんばかりに腕にギュッと力を込めた。
「ふふ〜ん♪」
キッチンから、カナのご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。
トントンと包丁を鳴らす手取りも、どこかわくわくと軽やかだ。
やがて食卓に並べられたのは、特別豪華でもなんでもない、いつもと変わらぬ我が家の夕食。それでも今のカナにとっては、どんな高級ディナーよりも特別なご馳走に見えた。
「はい、ご飯できたよ」
そう言いながら、カナはなぜか恭介の椅子の股の間へと回り込む。
そして当然のような顔で、恭介の股の間にすっぽりと割り込み、ちょこんと座り込んだ。まるで甘える子供のような体勢のまま、自分の茶碗を抱える。
「……邪魔だろ?」
恭介が呆れたように上からカナの頭を見下ろす。
「いいじゃない」
カナは振り返りもせず、当然といった様子でパクリと白米を口に運んだ。
背中に伝わる恭介の体温と、膝が触れ合う距離感。邪魔だと文句を言いながらも追い払おうとはしない恭介の優しさに、カナの胸はどこまでも温かく満たされていった。
「お風呂入ってくる」
「おー」
湯気とともに脱衣所から出てきたカナの頬は、お風呂上がりでほんのりと赤く上気していた。
ドライヤーもそこそこに、カナはソファでくつろぐ恭介の元へ歩み寄ると、隣に腰を下ろしてねっとりとした熱い視線を恭介の横顔に送る。
「ねぇ、まだ寝ないの?」
「うん、まだ早いだろ」
恭介はテレビから目を離さずに、そっけなく答える。
「早くてもいいじゃん」
カナは恭介の腕に自分の腕を絡め、擦り寄るように甘い声を漏らした。
恭介はその視線と体の熱から、カナが何をおねだりしているのかを察し、少し困ったように息を吐く。
「……もう少し後でな」
「早く寝ようよ」
「だから、もうちょっと後で」
「やだ、今がいいの」
つれない態度を取りながらも拒絶はしない恭介の袖をぐいぐいと引っ張りながら、カナは確信犯的な笑みを浮かべて恭介をベッドへと誘い続けた。
「後で、って言ってるだろ」
少し呆れたように、けれどどこか甘さを孕んだ恭介の声。
「じゃあ、一瞬だけ寝よ。ね!」
聞く耳を持たないカナは、恭介の手首をギュッと掴むと、体全体を使って半ば強引にベッドへ引きずり倒した。
「おい、カナ……っ! 力強いって……」
布団の上に倒れ込んだ恭介の上に覆いかぶさり、カナはいきなりトップスピードで向かってくる。
溜め込んでいた感情が、抑えていた愛おしさが、完全に爆発していた。
言葉なんていらない。理由も理屈もどうでもよかった。ただ、今この瞬間に恭介が自分だけのものになったという現実を、肌と肌の激しい触れ合いで深く刻み込みたかった。
いつもの優しく確かめ合うような時間とはまるで違う。
溢れ出す歓喜と興奮に突き動かされるまま、カナは激しく、貪るように恭介の全てを飲み込んでいった。
全てを終え、部屋の中には2人の荒い息遣いだけが響いていた。
「……ハァ……ハァ……。シャワー、浴びてくる」
恭介が重い体を起こし、浴室へ向かう。やがて、勢いよく出されたシャワーの音が、火照った空気を切り裂くように聞こえてきた。
カチャ。
浴室の扉が開き、カナが入ってくる。背中から密着し、恭介の濡れた胴体にすっと手を伸ばした。
「さっきやっただろ……? 」
「まだ足りない」
そう呟くとカナの激しい声が、狭い浴室のタイルにどこまでも熱く反響していた。
「はぁー……」
シャワーを終え、恭介がぐったりとソファに腰をおろす。全身の力が抜けきっていた。
だが、カナも当然のようにその隣にぴったりと座る。
プシュっと缶ビールをあけ、ごくりと喉を鳴らして飲む恭介。その横顔を見つめながら、カナは恭介の腰に手を回し、密着したまま甲斐甲斐しく、けれど執拗にその体を弄り始めた。
「もういいだろ……」
「えー」
「いや、もう今日は終わりだよ。マジで」
「どうして?」
「疲れてるだろ、カナだって」
「ううん、全然。むしろ元気」
タフすぎるカナに対し、恭介は心底参ったように頭を抱える。
「とにかく、今日はお終い!」
「……ぶー」
不満げに頬を膨らませながらも、カナの手が恭介の肌から離れることはなかった。
服の上から撫で回し、隙さえあれば触れ、擦り寄り、包み込み、再び自分の中へと引きずり込もうとする。
いつ何時も、恭介の全てを飲み込もうとしているカナの瞳。そこにあるのは、どこまでも深く、どこまでも底のない恐ろしいほどの熱量だった。
恭介は缶ビールをテーブルに置くと、頭を抱えるように深くソファに沈み込んだ。
離婚して、自由になって、これでようやく静かで穏やかな日常が手に入ると思っていたのだ。
だが、目の前にいるのは、タガが完全に外れてモンスター化した恋人だった。
歓喜のピークを超え、完全にリミッターが吹き飛んだカナの愛に、恭介は胸の奥で密かに、けれど本気で恐怖し始めていた。
「……明日も仕事なんだから、本当に寝よう」
「はーい。一緒に寝よ」
そう言って立ち上がるカナの目は、まだまだ恭介を放す気がない輝きを帯びていた。
ベッドに入り、電気を消すと、暗闇の中で一瞬にしてカナの体温が密着してきた。
足を絡められ、首元に抱きつかれ、逃げ場はどこにもない。
「……重い」
「がまんして」
暗闇の中で、カナの嬉しそうな息遣いが聞こえる。
恭介は天井を見つめながら、諦めたように目を閉じた。
夜の静寂の中、ふたりの鼓動がひとつに重なり合っていく。終わりのない、けれどどこまでも愛おしい新しい日常が、ここから始まろうとしていた。




