邪魔者
あの夢のような温泉旅行から現実世界へと引き戻され、俺たちの日常はまた静かに回り始めていた。
旅行の朝、俺が目を覚ました時にはすでに完璧に仕上げていた彼女のメイク。それもそのはずで、カナの職業はデパートの美容部員、いわゆるビューティーアドバイザーというやつだ。
いつも頭の先からつま先まで隙がなく、お洒落で化粧が抜群に上手いのも、それが彼女のプロとしての日常であり、プライドだったからだ。
そんな華やかな職場で働くカナには、一人だけ何でも話せる職場の仲の良い同僚がいた。
驚いたことに、カナはその同僚の女の子に、俺という「不倫相手」の存在をすべて打ち明けているらしい。
女同士のネットワークというのは時に男には理解できないほど密だ。カナは俺との関係で行き詰まったり、ヤキモチで頭がおかしくなりそうになったりすると、その同僚によく相談を持ちかけていたという。
だが、相談を重ねていくうちに、その同僚からやんわりとクギを刺されるようになったらしい。
「どんなに好きでも、やっぱり不倫は良くないよ」
「お互いの家庭があるんだから、これ以上深入りしたら傷つくだけだよ」
カナは、良くも悪くも人に流されやすい性格だった。
あの夜の街のレストランでは、俺を縛り付けるような冷酷な狂気を見せたり、誰も知らない温泉街では完璧な「妻」になりきって悦に浸ったりしていたくせに、職場で信頼している同僚から真っ当な世間の「正論」をぶつけられると、途端にその言葉に引きずられてグラグラと揺らいでしまうのだ。
ある夜、いつものように二人で酒を飲んでいる時だった。
少しお酒が進み、会話のテンポが落ちたところで、カナがグラスを見つめたまま、ふと寂しそうな、どこか迷いのあるトーンで切り出してきた。
「ねぇ、恭介さん……やっぱり、私たちのこの関係って、良くないよね?」
その言葉がカナの口から飛び出した瞬間、俺は心の中で(今更何言ってんだコイツ……!?)と激しい衝撃を覚えていた。
修羅場をくぐり抜け、笑顔で「他の男と遊ぶ」とまで言って俺を脅し、俺の苗字で記帳して「奥様」という響きに恍惚としていたあの女が、今になって急に世間一般の道徳心を振りかざしてきたのだ。
今更綺麗事を並べるなよ、というのが俺の本音だった。
「良くないって、何がだよ。今更そんなこと気にしてんのか?」
俺が少し呆れたように問い返すと、カナは視線を彷徨わせながら、白状するように理由を漏らした。
「だって……職場の友達に相談したらね、そう言われたの。これ以上一緒にいたら、誰も幸せにならないよって」
やっぱりそうか、と俺は内心で舌を打ち、猛烈な苛立ちを覚えた。
俺にしてみれば、二人の世界に土足で余計なアドバイスを放り込んでくるその同僚が、目障りで仕方がなかった。
当事者でもないくせに、外側から正論という綺麗なナイフで俺たちの関係を切り裂こうとしてくる。余計なことを言う友達だな、と激しい忌々しさが込み上げてくる。
だが、ここでカナの迷いに付き合って一緒になって悩むわけにはいかない。流されやすい彼女が完全にそっち側へ引っ張られてしまえば、この関係は終わる。
「あのさ、そんな周りの意見なんてどうでもいいだろ」
俺は彼女の目をじっと見つめながら、諭すように強く、説得を試みた。
「その友達が何と言おうと、俺たちが良ければそれでいいじゃん。二人が楽しければ、それで何も問題ないだろ?」
外側から流れ込んでくる現実の正論と、俺の手のひらの上にある背徳の心地よさ。カナの心の中で、二つの力が静かにせめぎ合いを始めているのが分かった。
終わる時は終わるんだよ、と俺は内心で冷ややかに考えていた。
だが、まだ終わってない。
今ここでこの関係を終わらせるつもりは、俺には毛頭なかった。
沈黙が流れる中、カナが唐突に、まっすぐ俺の目を見て聞いてきた。
「ねぇ、恭介さん……私のこと、どう思ってる? 好きなの?」
試すような、鋭い視線だった。 俺には分かっていた。ここで彼女の望む答えを返すことは、この関係を維持するための絶対条件だ。ここで言葉を濁せば、流されやすい彼女は一気にあの同僚の「正論」へと流れていってしまうだろう。
分かってはいるが、男としての照れがある。俺は少し視線を外しながら、誤魔化すように応えた。
「……もちろんだよ」
だが、カナはその程度の生ぬるい返事では納得しなかった。
彼女の目は一切笑っていなかった。
「そういう答えじゃなくて。私のことが好きなのかどうか、聞いてるの」
逃げ道を完全に塞がれた。
美容部員として完璧に手入れされた彼女の顔が、至近距離で俺の告白を要求している。
俺は内心で小さく舌打ちをした。
「……好きだよ」
腹を括ってその言葉を口にすると、カナの表情が劇的に変わった。
それまでの不安げで頑なだった顔が嘘のように消え去り、いつもの俺を陶酔させるような、甘く満足げな笑みがその唇に浮かんだ。
張り詰めていた空気が一気に弛緩する。その瞬間の彼女の表情を見て、俺は確信した。よし、こちら側に引き戻せた、と。
「ほら、だからさ、周りの意見なんて気にするなよ」
俺が重ねて言うと、カナはもう完全にいつもの調子を取り戻していた。
「すいません、お酒もう1杯ください!」
カナは晴れやかな声で店員を呼び、新しいグラスを注文した。
同僚から吹き込まれた正論のトゲは、俺の「好きだよ」という言葉の毒によって、綺麗に溶かされてしまったようだった。
余計なことを言う友達の影をひとまず振り払い、俺たちは再び、二人だけの閉ざされた背徳の世界へと潜り込んでいく。
「なぁ、そもそもその友達が言うことと、俺の言うこと、どっちが大事なんだよ?」
こちら側に引き戻した確信を得た俺は、少し調子に乗って、意地悪にカナを責めてみた。
カナは新しく届いたグラスを手に持ちながら、「もう、意地悪言わないでよぉ」と、嬉しそうに身を寄せてくる。
余計な友達の正論なんて、俺の一言で簡単に吹き飛ぶ。この空間の主導権は、完全に俺の手の中にあった。
そのはずだった。
ガヤガヤとした雑音と共に、店の扉が開いた。入ってきたのは、見知らぬ若い男が2人だった。
男たちは店の中を見回しながら、俺たちの席のそばを通り過ぎようとした。その瞬間、片方の男が足を止め、驚いたように目を見開いてカナの顔を覗き込んだ。
「あれ? カナじゃん! 何してんのこんなところで?」
カナも男の顔を見るなり、声を弾ませた。
「えーっ!? 久しぶり! 何やってるの二人とも?」
どうやら昔からの知り合いらしい。
男たちは俺の存在などまるで視界に入っていないかのように自然な動作で、あろうことか、カナの隣の席にどっかりと腰を下ろした。
俺は心の中で強烈な不快感を覚えたが、男たちは構わず「最近どうよ?」「相変わらず綺麗じゃん」とカナに絡んでいく。
カナもまた、いつも俺に見せるような人妻の顔とは違う、古い友人と接する時特有の、フランクで無邪気なトーンで昔の話に花を咲かせ始めた。楽しそうに大笑いするカナの姿は、俺の知らない彼女の一面だった。
盛り上がる3人を横目に、俺は完全に蚊帳の外だった。
一人で静かに酒を喉に流し込む。時間が経つにつれて、場を弁えない男たちの態度と、それを許して盛り上がっているカナに対して、ふつふつと激しい怒りが込み上げてきた。ちょっと腹立つどころの騒ぎじゃない。
もう限界だった。俺はグラスを置き、冷たい声で言った。
「俺、帰るわ」
そそくさと立ち上がり、会計を済ませようと伝票を掴む。俺の突然の行動に、カナはハッと我に返ったように血相を変えて立ち上がった。
「えっ、待ってよ!」と急いで荷物をまとめようとする。
「いいよ、久しぶりの友達だろ? ゆっくり話してくれば?」
俺は振り返りもせず、突き放すように言って店の外へ出た。
「いや、私も帰るから! 待ってってば!」
カナが後ろから慌てて店を飛び出し、夜の街を歩く俺の背中を小走りで追いかけてくる。追いついたカナが、俺の腕を掴んで不安げに顔を覗き込んできた。
「ねぇ、何か怒ってるの?」
その的外れな問いかけに、俺のイライラは頂点に達した。歩みを止め、カナを振り返って睨みつける。
「当たり前だろ。俺はカナと飲んでるんだぞ? なのにおかしいだろ、あの状況」
「だって、本当に久しぶりに会った地元の友達だよ? ただの世間話じゃん……」
「じゃあ、なおさらあそこでゆっくり話してればいいだろ。俺のことは気にせずにさ」
すると、カナは俺の怒りの理由を察したのか、途端に表情を緩ませた。
「もしかして……ヤキモチ焼いてくれてるの?」
クスクスと嬉しそうにニコニコしながら、俺の顔を覗き込んでくる。
その余裕ぶった態度に、猛烈にむかついた。俺の嫉妬を誘って楽しんでいるその態度が、どうしても許せなかった。
「は?何言ってんの?」
俺は一段と声を低くして、カナに冷徹な事実を突きつけた。
「前に俺が女友達とほんの少し話したとき、どんな風に激怒したか忘れたわけじゃないよな? なんなんだよそれ。完全にあの時の俺と同じ状況だよな?」
「あ……」
その瞬間、カナの顔からさっきまでのニヤけた笑みが一瞬で消え失せた。
街灯の光に照らされた彼女の顔が、見る見るうちに強張っていく。
いつも完璧に自分の感情をコントロールし、俺の心を手のひらで転がしているはずのカナが、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
自分が犯したダブルスタンダードの矛盾。
それを俺に完璧な正論で論破されたという事実。
それは彼女にとって、単に「怒られた」という次元の話ではなかった。
絶対に失態を見せないはずの自分が、男たちとの安っぽい昔話に流され、俺の前で致命的なミスを犯してしまったことへの、静かな激しい動揺だった。
自分の完璧主義が足元から崩れたような、そんなプライドの焦燥が、彼女の瞳の奥で微かに震えていた。
自分の失態に内心打ちのめされている大人の女の顔を見ていると、不思議と頭に血が上っていた俺の怒りも、すうっと引いていくのが分かった。
「……まぁ、友達と話したい気持ちもわかるよ。久しぶりに会ったんなら尚更だろ」
俺は深く息を吐き出し、声を少し柔らかくした。
「でもさ、長話をするのは今じゃないだろ。俺とカナで飲んでる時間なんだからさ。そこは考えてほしかったわ」
俺がそう諭すと、カナは小さく息を吸い込み、プライドの滲む声で、けれど必死に俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「……ごめん。本当に。」
感情的に泣き喚くわけでもなく、ただ自分の犯した失策を認め、それでも俺の心が離れることを防ごうとするような、張り詰めた声だった。
いつもの余裕めいた微笑みはどこにもない。そこにあるのは、俺に対する剥き出しの執着と、それをコントロールし損ねた自分への苛立ちだった。
「これからもさ、こういう偶然の遭遇とか、どうしても知り合いに対応しなきゃいけない場面って起きてくると思うんだよ」
俺は一歩近づき、これからの現実的な話をすることにした。
「その時は、少しだけ挨拶して切り上げるか、せめて『地元の友達だから少し話していい?』って俺に一言説明するのが普通だろ? 無視して盛り上がられたら、俺だっていい気はしないよ」
カナは自分に言い聞かせるように、強く頷いた。
夜の街の片隅で、俺たちはまた一つ、お互いを縛り付けるための「小さなルール」を共有することになった。
けれど、この夜の小さな出来事は、俺たちの関係に静かな変化をもたらす境界線となった。
この一件以来、俺たちの人前での振る舞いは、少しずつ、けれど確実に変わっていった。
お互いに本物の家庭を持つ「既婚者同士」としての冷徹な割り切りと、それでいて誰よりも深く相手を独占したいという歪な執着。
その二つの矛盾した役割を、誰もいない場所と、誰かが見ている場所で、極めてスマートに使い分ける術を身につけていったのだ。
知り合いに会えば、大人の余裕を持って対応する。
けれど、二人の間だけの秘密のルールは絶対に破らない。
自分の失態すらも糧にして、カナはさらに完璧な「彼女」としての役割を強固にしていった。
俺たちはより洗練され、より引き返せない背徳の世界へと、さらに深く足を踏み入れていくのだった。




