部室の悪ノリと、7点の誤算
あの夜の街での衝突と、新たに共有した「人前での振る舞い」に関する小さなルールを経て、俺たちの関係は驚くほど安定した時期を迎えていた。
周りから見れば、俺たちはどこにでもいるような、ごく普通の仲睦まじいカップルそのものだった。
カナの仕事はシフト制のため、お互いの都合がつく平日の昼下がりなどに時間を見つけては、車を出して少し遠出のデートをすることが増えた。
助手席のカナは、相変わらずデパートの美容部員らしい完璧なセンスでお洒落をしており、隣に並んで歩くだけで男としてのプライドが満たされるような自慢の彼女だった。
バッグからは「恭介さんの健康のためだから」と、相変わらず中身のよく分からないオーガニックのサプリメントが飛び出してくる。そんな彼女のルーティンに対して、俺が「またそれかよ」と苦笑する。
そんな他愛のないやり取りさえも、すっかり俺たちの日常の心地いいリズムになっていた。
誰も俺たちの素性を知らない場所で、ごく自然に手を繋ぎ、肩を並べて歩く。カフェに入って一つのパンケーキを二人で分け合いながら、最近観た映画の話やくだらない思い出話で笑い合う。
その空間にあるのは、背徳感でも歪な執着でもない。ただの、どこにでもいる幸せな二人の時間だった。
お互いに本物の家庭へと帰れば、それぞれ別の苗字を持ち、別の人間としての日常を送っている。
その冷徹な現実を、今の俺たちはわざわざ口に出して確認することはしなかった。
言わなくとも、あの温泉旅行や夜の街での出来事を経て、二人の間には完璧な「割り切り」の共通言語が完成していたからだ。
「ねぇ、今度の休みはどこ行こうか? 美味しいイタリアンのお店、見つけたんだよ」
帰り道の車内、夕暮れ時の街並みを眺めながら、カナが楽しそうに次の約束を口にする。
「いいね。そこにしよう」
ハンドルを握りながら俺が応えると、カナは満足そうに俺の左腕に自分の手を重ねてきた。
激しい嵐のような感情の揺れを知っているからこそ、この何も起きない日常の温かさが、体にじんわりと染み渡っていく。
けれど、このどこまでも平穏な幸福こそが、俺たちをさらに深く、もう戻ることのできない泥沼の奥底へと引きずり込んでいく呼び水であることに、この時の俺はまだ気づいていなかった。
そんなカナと会えない夜、俺は決まって後輩が経営しているバーに顔を出していた。
その店は、集まる客もマスターである後輩も、気心の知れた身内ばかりの空間だった。
ドアを開ければ、そこはまるで学生時代の溜まり場にそのまま戻ったかのような、妙な安心感がある場所だ。大人の建前や複雑な人間関係なんて一切持ち込む必要はなく、下ネタや男同士の本当にくだらないバカ話だけで、夜が更けるまでいくらでも盛り上がることができた。
その夜も、カウンターでだらだらと酒を飲んでいるうちに、誰からともなく「マッチングアプリ」の話題になった。
そこにいた、俺と同じように普段からチャラチャラと遊んでいる仲間のケンジが、最近そのアプリを使ってうまく女の子と遊んでいるというエピソードをニヤニヤしながら披露し始めたのだ。
その生々しい戦果報告を聞いているうちに、酒の勢いも手伝って、周囲のテンポが一気に跳ね上がった。
「マジかよケンジ! 面白そうじゃん。みんなでやってみようぜ!」
誰かが声を上げると、お調子者たちが一斉にスマートフォンを取り出した。
高校生の部活の居残り時間のような、悪ノリの連鎖だ。
俺もその場の空気に飲まれるようにして、手慣れたケンジにやり方を聞きながら、その場でアプリの登録を済ませた。
プロフィールを設定し、画面に次々と表示される女の子の写真を眺めながら、「この子可愛い」「いや、こっちの方がタイプだろ」と、画面を覗き合っては全員でバカみたいに盛り上がる。
しばらくそんな風に騒いでいると、カウンターの端にいた奴のスマホが、ピコンとアプリからの通知音を鳴らした。「おっ、さっそく来たぞ!」とまたひとしきり笑い声が弾む。
そんな悪ノリの中で酒を飲み続けていた時、テーブルの上に置いていた俺のスマホの画面が、不意に白く光った。アプリからの新しいお知らせの通知だった。
「ほら見ろ、楽勝じゃねーか」
俺は少し誇らしげな顔をして、画面をみんなに見せびらかすように自慢した。「おおっ、恭介さすが!」とケンジたちがハエのようにハシャぐ。
ニヤけそうになる顔を抑えながらメッセージの画面を開くと、そこには「初めまして!」という丁寧な挨拶が届いていた。
「どんな女だよ?」と、周りの視線を感じながら、品定めをするように相手のプロフィール画面をスクロールしていく。
画面に映っていたのは、俺より2つ年下の看護師の女だった。
名前は美里。
デパートの美容部員として常に隙のないお洒落を崩さないカナとは、またどこか雰囲気の違う、落ち着いた佇まいの女だった。
俺は男たちの視線を背中に浴びながら、「初めまして! よろしくお願いします」と、無難な返信を打ち込んで送信した。
そこからは、驚くほどスムーズにメッセージのラリーが続いた。
「美里っていいます。よろしくね」という返信から始まり、こちらの住んでいる場所から少し離れた「隣の区」に住んでいることなど、たわいもない情報が小気味よく開示されていく。
男同士のくだらないノリの延長線のまま、「じゃあ今度、仕事終わりにでも軽く飲みにいきましょうよ」と、少しチャラついたトーンで会話を転がしていくと、美里のノリも決して悪くなかった。
アプリの中での短いラリーの末、俺たちはごく自然な流れで、そのままLINEの連絡先まで交換してしまった。
画面の向こう側の新しい女、美里と、自分の手元に残ったLINEのアカウント。
カナとの間に作ったはずの「小さなルール」の枠組みの外側で、また新しい背徳のディテールが、悪ふざけのノリから静かに芽を吹き始めようとしていた。
ケンジたちとの悪ノリも落ち着き、バーをお開きにして自宅に戻った日の深夜だった。
枕元に置いたスマホが、静かにバイブレーションを鳴らした。画面を見ると、さっき交換したばかりのアカウントからLINEが届いていた。
『こんばんは、美里です。さっきはありがとうございました』
アプリのチャラついたノリとは違い、文面からはどこか落ち着いた大人の雰囲気が伝わってきた。
そこからは、お互いの身辺調査のような会話から始まった。
普段どんな仕事をしているのか、休日は何をしているのか、普段はどの辺りのエリアによく飲みに行くのか。当たり障りのない、けれどお互いの距離を測るようなラリーがテンポよく続いていく。
会話が進むうちに、美里はバイツチで、今は気楽な一人暮らしを送っていることが分かった。
『普段は本当に自宅と職場の往復ばかりで。毎日これといった楽しみもないんですよね笑』
画面に並ぶ彼女の言葉には、独り身の寂しさと、退屈な日常から少しだけ抜け出したいというリアルな本音が滲んでいた。
俺はスマホの画面を見つめながら、ふと思った。
少し失礼な考えだとは自分でも分かっていたが、そもそもこういうマッチングアプリに登録しているような女に、飛び抜けて綺麗な人なんてそうそういないだろう、と。
デパートの美容部員として常に完璧な美貌を維持し、俺を狂気的に縛り付けようとするカナのような女は、皆無だ。
だが、俺にとっては「綺麗な人はいないだろう」と思えるくらいの方が、かえって好都合で気が楽だった。
相手に過度な期待をしない分、男としてのプライドを守るための余計な計算も要らない。
俺は肩の力を抜き、いつもの手慣れたチャラい攻めのトークで、画面の向こうの美里を盛り上げていった。
「毎日退屈なら、今度美味しいお店でも行きましょう」
そんな風に誘いの言葉を投げかけてみる。だが、それはあくまでその場のノリと酒の勢いで言っているだけで、この時の俺は、本気で彼女と飲みに行きたいと切望しているわけではなかった。
ただの退屈しのぎ、男同士の悪ノリの延長線上にすぎなかったのだ。
しかし、美里の側も俺の軽いノリが心地よかったのか、深夜だというのにメッセージのラリーは途切れることなく、長い時間続いていった。
その夜を境に、俺たちの間には不思議なルーティンが出来上がった。夜になると、美里からいつも自然なタイミングでメッセージが届き、他愛のない世間話をする。カナと会えない夜の静まり返った部屋で、顔も知らない女とのラリーに応じる時間は、俺にとって実に「いい暇つぶし」になっていた。
美里との毎夜のラリーが始まってから、しばらく経ったある日のことだった。
いつも通りの他愛のない世間話の最中、彼女から少し踏み込んだメッセージが届いた。
『実は、前からすごく気になっているお店があるんですけど、一人だとちょっと入りにくくて……。もしよかったら、今度付き合ってくれませんか?』
ただの暇つぶしだと思っていた画面の向こうのやり取りが、急に「現実の約束」として動き出した瞬間だった。
アプリのプロフィールに載っていた美里の写真は、どれも画質が粗かったり、遠目から撮られたものだったりで、お互いの容姿はなんとなく雰囲気が分かる程度でしか確認していなかった。
世間に溢れるマッチングアプリのトラブル――美人局の類だったり、あるいは写真とは似ても似つかない別人が現れたりするような詐欺の可能性が、一瞬頭をよぎる。
男としての最低限の警戒心を働かせながらも、俺はその誘いに「いいですよ、行きましょう」と同意の返事を出した。まぁ、何があっても大抵の修羅場はくぐれる自信はあった。
待ち合わせ当日、俺はあえて気合を入れすぎない、少しラフな格好をして約束の場所へと向かった。
雑踏の中でスマホを見ながら待っていると、ふと視線を感じた。
横断歩道の向こうから、信号が変わると同時にこちらへと歩いてくる一人の女性がいた。上品なロングスカートの裾を揺らしながら、迷いのない足取りで、まっすぐ俺のほうへと向かってくる。
俺の手前で足を止めた彼女は、少し緊張したような、けれど丁寧な笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んだ。
「……恭介さん、ですか?」
俺が頷くと、彼女はホッとしたように表情を緩ませた。
「初めまして、美里です。お待たせしちゃいましたよね」
目の前に立つ美里は、すっきりと色白な女性だった。
派手さはないが、非常に小綺麗で清潔感のある佇まいをしており、身にまとっている空気はいかにも育ちの良さそうな「看護師」そのものだった。
俺は内心、激しく面食らっていた。
いつも隣にいるカナの美貌を10点満点とするならば、目の前の美里は、だいたい7点といったところだろうか。完全に油断していた。
どうせアプリで男を探しているようなバカな女だ、せいぜい3点くらいの、容姿に自信のない退屈な女が来るもんだとたかを括っていたのだ。それが蓋を開けてみれば、普通に十分に綺麗な大人の女だった。
警戒心とは別のベクトルで走った軽い衝撃を、俺は表情に出さないよう瞬時に噛み殺した。
いつものチャラついた余裕のある男の仮面を被り直し、美里に向けてスマートに微笑んでみせる。
「初めまして。全然待ってないですよ。……じゃあ、早速行きましょうか」
「はい、お願いします」
美里は嬉しそうに微笑み、俺の半歩後ろをついて歩き出した。
カナとの完璧な日常の裏側で、俺の足は、また別の女との新しい「夜」へと踏み出していた。3点だと思っていた女が提示してきた、予想外の「7点」という現実。
その微かな誤算が、これからの二人の関係をどこへ導いていくのか、この時の俺はまだ測りかねていた。




