白い部屋
「美里さんって、普段からこの辺りのエリアにはよく来るの?」
「いえ、たまに買い物に来るくらいです。だから今日、すごく緊張しちゃって」
目的の店へと向かう道すがら、俺たちは他愛のない会話を交わしながら歩いた。
美里は少し早足で俺の半歩後ろを歩き、時折、ショートカットの隙間から色白な首元を覗かせながら楽しそうに微笑む。
派手さはないが、一歩引いて男を立てるようなその仕草は、いかにも看護師らしい落ち着きと品の良さを感じさせた。
やがて、美里が「一人では入りづらい」と言っていた目的の店の前に到着した。 隠れ家のような佇まいのドアをそっと開けると、柔らかな照明に包まれた、超絶おしゃれな空間が広がっていた。
見渡す限り、店内の客はほとんどがカップルだった。薄暗い照明の中で、お互いの顔を見つめ合いながら静かにグラスを傾けている。
「あ、本当だ。これは確かに、女の子一人で入るにはちょっとハードルが高いかもね」
俺が周囲を見回しながら笑って言うと、美里も「そうでしょう?」と悪戯っぽく肩をすぼめた。
「ずっと気になってたんですけど、さすがに一人でこの空間に飛び込む勇気はなくて。今日は恭介さんが付き合ってくれて、本当に良かったです」
だが、俺の脳裏には一瞬、冷たい防衛本能が働いていた。
(……まさか、こんなところに知り合いはいないよな?)
万が一にも、仕事帰りのカナが職場の同僚と紛れ込んでいたりしたら、それこそ一発で修羅場だ。大人の割り切ったルールを共有したとはいえ、別の女と二人きりでこんなムード満点の店にいるところを見つかれば、あの女がどんな「オーガニックな狂気」を剥き出しにしてくるか分かったものではない。
さりげなく、けれど鋭い視線で店内をくまなく見回す。……大丈夫だ。見知った顔は一人もいない。
胸を撫で下ろしたところで、店員に促されて奥のテーブル席へと案内された。
メニューを開いた美里は、「うわぁ、どれも美味しそうで迷っちゃうな……」と、嬉しそうな悩ましげな声を漏らしている。
彼女が迷いながらもいくつか選んだ料理を注文すると、やがて運ばれてきたのは、いかにも女性好みの華やかで洗練された創作料理の数々だった。
盛り付けの美しさといい、器のセンスといい、実に見事なものだった。
(これ、カナを連れてきたらめちゃくちゃ喜ぶだろうな……)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。だが、すぐにそれを打ち消す。
もしカナをここに連れてきて、少しでも俺の手慣れた様子や店のシステムに詳しい素振りを見せたら、彼女は即座に「ねぇ、ここ誰と来たの? なんで知ってるの?」と、笑顔の裏からあの冷徹な尋問を始めてくるに違いない。
想像しただけで背筋が寒くなる。やっぱり、カナをここに連れてくるのは絶対にやめておこう。
そんな内心の危機管理を隠し持ちながら、俺は目の前の美里との時間に集中することにした。
運ばれてきた美味しい料理とお酒を口にしながら、俺たちはさらにお互いのプライベートを深掘りしていく。
美里の病院での仕事の大変さや、バツイチゆえの気楽さとちょっとした孤独感。彼女の言葉を丁寧に拾い上げながら、俺は得意のチャラいトークを展開していった。
気合を入れすぎないラフなスタンスでありながら、相手が一番欲しい言葉や、少しドキッとさせるような絶妙なユーモアを会話に織り込んでいく。
「美里さんみたいな綺麗な看護師さんがいる病院なら、俺、毎日でも通っちゃいそうだな」
「もう、恭介さんって本当に口が上手いんだから! 絶対いろんな人に同じこと言ってますよね?」
美里は頬を少し赤らめながら、終始笑いっぱなしだった。
3点だと思って油断していたはずの夜。
だが、目の前で楽しそうにグラスを傾ける7点の美里の笑顔は、カナとの張り詰めた背徳の世界とはまた違う、ひどく心地の良い、男としての全能感を満たしてくれる空間を作り上げていた。
美味しい料理の効果もあり、お酒はどんどん進んでいった。
美里は決して元々お酒が強い方ではないらしいが、楽しいのか、俺のチャラいトークに合わせて自ら進んでグラスを空けていく。
少しトロンとした目で俺を見つめる彼女の顔は、すっかり赤く染まっていた。
夜も更けてきた頃、そろそろ帰ろうかということになり、お店を後にした。
外の夜風に当たると一気にアルコールが回ったのか、美里の足取りはかなり危うくなっていた。とはいえ、泥酔して潰れているわけではない。
ただただ「楽しい」といった様子で、終始ご機嫌に笑っている。
「美里さん、結構きてるね。大丈夫?」
「うーん、大丈夫……だと思います。でも、ちょっとフワフワするかも」
流石にこのまま一人で電車に乗せるのは心配だった。
俺は紳士的にタクシーを拾い、彼女の自宅がある隣の区のマンションまで送り届けることにした。
タクシーのシートに揺られながらも美里は楽しそうに喋り続け、やがて車は彼女の住む小綺麗なマンションの前に到着した。
車を降り、足元が覚束ない彼女を支えるようにして、部屋の玄関の前まで送り届ける。
美里はバッグから鍵を取り出してドアを開けると、振り返って、潤んだ目で俺をじっと見つめた。
「……あの、もしあれだったら、寄っていきます?」
その瞬間、ドクンと胸が跳ね上がった。
バツイチの独り身、気楽な一人暮らし。
薄暗いエントランスの灯りの中で、色白のショートカットを少し傾けて俺を誘う彼女の姿は、俺が勝手に査定していた「7点」を遥かに超えて、強烈に男の本能を刺激してきた。
そのまま部屋に上がり込みたい気持ちが、激しく渦巻く。
だが、俺はそれを必死で我慢した。
ここで安易に流されては、ただの「チャラくて軽い男」で終わってしまう。
ここはあえて、圧倒的な引き算で余裕を見せるべきだ。
「いや、今日はここで。美里さん、かなり酔ってるしね」
俺はあえて大人の男の包容力を滲ませ、スマートに微笑んでみせた。
「めちゃくちゃ楽しかったから、絶対また飲みに行きましょう。」
「うん、また絶対に」
少し名残惜しそうにしながらも、美里は嬉しそうに頷いた。
我ながら、完璧にいい男を演じきった。これ以上ないくらい紳士的な幕引きだった。
明けて次の日の午後、仕事の合間にスマホを見ると、美里からLINEが届いていた。
『昨日はごちそうさまでした! 家まで送ってくれて本当にありがとう。私、かなり酔っちゃってて……失態を演じちゃって本当にすいませんでした泣』
昨夜のお礼と、自分の飲みすぎに対する素直な謝罪。
俺はすぐに、いつもの余裕のあるトーンで返信を打った。
『全然大丈夫ですよ! 美里さんが楽しそうにしてくれてたから、俺もすごく嬉しかったです』
すると、すぐに既読がつき、美里からの返信画面に心臓が跳ねるような言葉が躍った。
『あの……昨日の夜、部屋に入るの嫌でした……?』
ドキリとした。まさか、あの時の誘いをちゃんと覚えているとは思わなかった。
お酒の席の、その場のノリの失言ではなかったのだ。
俺は少しニヤけそうになるのを堪えながら、必死に頭をフル回転させてスマートな言い訳をフリックした。
『そんなことないですよ!笑 ただ、昨日が初めてのデートだったし、美里さんだって俺が本当はどんな男かまだよく知らないでしょ? だから変に警戒させちゃ悪いなと思って、昨日は遠慮しときました! でも、次はお言葉に甘えてお邪魔しますね!』
この男側の気遣いを見せつつ、次回への布石を打つ完璧な返し。
美里は普段は自宅と職場の往復ばかりで、バツイチゆえのちょっとした孤独を抱えていた。だからこそ、昨日の俺のあの誠実な振る舞いが、ちゃんと響いたと思いたい。
自分の見せた紳士的な振る舞いが、彼女の心に真っ直ぐに届き、確かな好意として返ってきている。その事実は、男として純粋に嬉しかった。
画面の向こうで少し照れたようなメッセージを返してくる美里と、昨日のデートの感想をだらだらと語り合いながら、俺は心地いい充実感に浸っていた。
美里との次のデートは、驚くほどすぐに決まった。
前回のデートに対するお礼として、「今度は私に奢らせてください」という彼女からの提案があり、俺がそれに甘える形で自然と約束が取り付けられたのだ。
当日、俺たちは駅近くのカジュアルなイタリアンレストランで合流した。
前回のお洒落な隠れ家バーとは違い、今回はお互いに少しラフな格好だ。その気取らない雰囲気がかえって距離を縮めたのか、席に着くなり、最初からお互いにリラックスして会話が大いに盛り上がった。
お酒が進むにつれて、美里の頬はまた可愛らしく赤みを帯びていく。
「美里さん、飲む?」
俺がグラスを指差してさらに勧めると、美里は前回のデートで自分がすっかり酔っ払ってしまったことを思い出したのだろう、少しバツの悪そうな笑顔を浮かべた。自然と、俺の顔を茶化すように覗き込んでくる。
「私を酔わせようとしてます? そうはいきませんよ」
悪戯っぽく笑顔でそう返してくる彼女の、自分の限界をちゃんと分かっている大人の女の節度。その仕草の端々に滲む可愛らしさに、男としての独占欲が微かにくすぐられる。
やがてお腹いっぱいになり、店を後にした。夜風が心地いい。
「ごちそうさまでした。じゃあ、お返しに次は俺がどこか連れていきますよ。もう1軒、軽く飲みに行きます?」
俺がそう誘うと、美里は少し足を止めた。
「……あの、もしよかったら、この後はうちで飲みませんか?」
心臓が小さく跳ねた。
前回の約束を、彼女は今夜その約束を果たそうとしてくれているのだ。次はお邪魔しないといけない流れだ。
「分かりました。じゃあ、そうしましょうか」
俺たちは近くのコンビニに寄り、缶チューハイや軽いスナックをいくつか買い込んでから、彼女のマンションへと向かった。
「お邪魔します……」
ドアを開けて中に入ると、そこは非常に綺麗に整理整頓された、白を基調とした室内だった。女性の一人暮らしらしい、清潔感のある、どこか甘くていい匂いが部屋全体を優しく包み込んでいる。
「散らかってますけど、どうぞ」
美里に促され、俺はリビングの小洒落たソファへと腰を下ろした。
美里はというと、ソファの前にあるローテーブルの脇、床の上にちょこんと座った。
自分の家に帰ってきたという安心感からか、美里はコンビニで買ったお酒を嬉しそうに開け、口に運んでいく。テレビのバラエティ番組を流しながら、俺たちは他愛のない会話で再び場を弾ませた。
「私、普段は家で全然お酒なんて飲まないんですよ? でも、なんだか恭介さんと一緒にいると、楽しくてついつい飲んじゃうんです」
その言葉通り、彼女はほどよく上機嫌に酔っているようだった。
やがて、美里は床から立ち上がると、ごく自然な動作でソファの上の俺の隣へと腰掛け直した。二人の距離が一気にゼロになる。
美里の体温と、あのいい匂いがダイレクトに俺の五感を刺激してくる。美里はテレビを見ながらクスクスと笑い、そのまま俺の肩へと、そっと自分の頭を乗せてきた。
ショートカットの髪が俺の首元に微かに触れる。隣から伝わってくる美里の柔らかな温もりと、規則正しい呼吸。そのあまりにも無防備で、確かな好意に満ちた状況に、俺はとうとう我慢ができなくなってきた。
胸の奥で、ドクドクと鼓動が早くなっていくのが自分でもはっきりと分かる。たぶん、美里も俺と同じように、張り詰めた緊張感の中で鼓動を速くしているのだろう。
俺は向き直り、我慢できず美里にキスをした。
唇が離れた瞬間、美里は俺の顔をじっと見つめ、「えー……」と、困ったような声を小さく漏らした。
だが、彼女が俺の身体を拒むことはなかった。美里はそのまま腕を俺の首に回すと、今度は彼女のほうから、求めるようにキスをしてきたのだった。
重なる唇の熱の中で、俺たちの呼吸はしばらくの間、深く深く溶け合っていた。やがてゆっくりと顔を離すと、俺は少し息を整えながら、彼女の潤んだ瞳を見つめた。
「キスしちゃった」
俺が少しイタズラっぽく、はぐらかすようなトーンで言うと、美里は恥ずかしそうに視線を泳がせながらも、すぐに嬉しそうな笑顔を返してきた。
「しちゃいましたね」
その素直な返しがたまらなく愛おしかった。そこからは、お互いに少し照れくささを残しながらも、またテレビの音をBGMにして、先ほどよりも一段と距離の縮まった他愛のない会話を再開させた。
だが、そんな甘い空間を引き裂くように、俺のズボンのポケットの中でスマホが激しく震えた。
美里に気づかれないよう、さりげない動作でポケットからスマホを抜き出し、画面をチラリと盗み見る。画面に表示された通知の名前を確認した瞬間、俺の全身の血が一気に引いていくのが分かった。
――『カナ』
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。どこかで俺たちの姿を見られていたのか? あの店に入る瞬間を、あるいはこのマンションに入る姿を、あの鋭い目が捉えていたとでもいうのか。
「……あ、ごめん美里さん。ちょっと外でタバコ吸ってくるわ」
「あ、はーい。いってらっしゃい」
俺は極めて自然な笑顔を作って言い訳をすると、スマホを握りしめたままリビングを出て、玄関のドアを開けた。
夜の冷たい空気が、火照った身体に容赦なく吹き付ける。
共有廊下の隅でライターの火を点け、紫煙を深く吸い込みながら、俺はカナからのLINEの画面を開いた。
『今何してるの?』
ただそれだけの、短いメッセージだった。
これは一体、どういう意図の文面だ? どこかで俺が別の女といるのを見聞きしたから、カマをかけるために聞いてきているのか。
完璧主義で、自分のコントロールを失うことを何より恐れるカナだ。もし何かを掴んでいるのだとしたら、この短い文面の裏には、すでに逃げ場のない罠が仕掛けられている可能性がある。
頭をフル回転させ、平静を装った文字を慎重にフリックした。これが俺にできる限界の返事だ。
『別に何もしてないけど』
送信ボタンを押す指先が微かに震えていた。
数秒の後、既読がついた。だが、返ってきたカナのメッセージは、俺の予想を大きく裏切るものだった。
『そっか。ネットフリックスで面白い映画見つけたから、忘れないうちに教えたくて』
画面に躍る文字を二度見した。
いたって普通の、なんの裏もない文面だった。
「……はぁ」
肺に残っていた煙と一緒に、重苦しい溜息が一気に口から漏れ出た。全身の力が抜け、大きな脱力感が襲ってくる。完全にこちらの後ろめたさが生んだ、一人相撲の疑心暗鬼だった。
だが、安堵が通り過ぎると同時に、今度は苛立ちが湧き上がってきた。
こっちは人生の危機かと思うほどの冷や汗をかかされたのだ。
そんな他愛のない用件なら、わざわざこの深夜にLINEしてくるなよ、と。
「会ったときでいいだろ」と打ち込みそうになるのを理性で抑え込み、無難な返信を送った。
『忘れそうだから。時間あったら見てみてね』
『わかった』
事務的なやり取りを終わらせ、煙草の火を携帯灰皿に押し付けた。
俺は再び美里の待つ白い部屋へと戻るためにドアノブを回した。
「おかえりなさい。外、すごく寒かったでしょ? 大丈夫?」
リビングに戻ると、美里が心配そうな、けれど底抜けに優しい笑顔で俺を迎えてくれた。
「うん、ちょっと冷えたかも」
「ほら、こっち来て。座って?」
美里はソファの上でスペースを作り、俺の手を優しく引いた。言われるがままに彼女の隣へ腰を下ろすと、美里はすかさず俺の冷えた身体に寄り添い、その温もりを分けてくれるようにそっと抱きついてきた。
カナの連絡によって極限まで張り詰めていた俺の神経と、行き場のない苛立ちが、彼女の腕の中でみるみるうちに解きほぐされていく。
カナの完璧で狂気的な愛が引き起こす嵐。そこから逃れて辿り着いた美里の部屋は、今の俺にとって、すべてを忘れさせてくれる至高の避難所だった。
俺は再び、彼女の柔らかな唇へと顔を近づけていった。
「……タバコ臭いなぁ、もぅー」
美里は少し顔をしかめ、甘えるような呆れた声を小さく漏らしながら、
パチリと部屋の電気を消した。
白い部屋が静かな闇に包まれ、俺たちの夜が深く沈んでいく――。




