二つの歪みと、黒い反転
シーツの隙間から滑り込んでくるわずかな外気の冷たさに、俺はふと目を覚ました。
まだカーテンの向こうは薄暗い。スマホの画面をそっと遮光しながら確認すると、午前4時を回ったところだった。
隣では、美里が小さく寝息を立てて心地よさそうに眠っている。
ショートカットの髪が枕に散らばり、昨夜の甘い余韻を残したままの無防備な横顔がそこにあった。
愛おしさが胸をかすめるが、それと同時に、冷徹な理性が俺の脳髄を叩き起こす。
(……帰らなきゃな)
忘れてはならない。俺は既婚者だ。
どんなにこの白い部屋が心地よくても、朝帰りをして本物の家庭に言い訳のできない綻びを作るわけにはいかない。
それがこの世界を泳ぎ続けるための最低限の鉄則だった。
美里を起こさないよう、ベッドの軋み音さえ殺しながら慎重に身体を起こす。
床に散らばった衣服を静かに拾い集め、気配を消したまま袖を通していく。
完璧に身支度を整え、リビングを後にして玄関のドアノブに手をかけた、その時だった。
「……恭介さん?」
背後から、衣擦れの音と一緒に、まだ眠気の残る掠れた声が聞こえた。
振り返ると、寝室のドアの隙間から、美里が大きなシャツを羽織ってこちらをぼんやりと見つめていた。
「あ、起こしちゃった? ごめんね」
「ううん……気をつけて帰ってね」
美里はそれ以上何も追求せず、ただ虚ろな目で優しく微笑み、俺を見送ってくれた。その大人の割り切りと寂しさが混ざり合った表情が、胸の奥に妙な棘を残した。
あの夜を境に、俺と美里の関係は急速にその形を変えていった。
毎日のメッセージのラリーは途切れることなく続き、いつしか俺は彼女を「美里」と呼び、彼女は俺を「恭介くん」と呼ぶようになっていた。
アプリのチャラついた出会いから始まったはずの二人の距離は、完全に日常の枠組みへと組み込まれていた。
『今日、こっち来れる?』
シフト制で夜勤もある美里から、仕事終わりにそんな誘いがあれば、俺は時間が許す限り彼女のマンションへと車を走らせた。
ドアを開けると、そこにはいつも、俺が飲むための冷えたお酒とちょっとしたつまみが綺麗に用意されていた。
バツイチの一人暮らしという寂しさからなのか、あるいは看護師という職業柄、誰かの面倒を見ることが身体に染み付いているのか。
リビングのソファに腰掛け、俺が美味そうにグラスを傾ける姿を、美里は本当に嬉しそうに、満足げに眺めている。
そんな彼女の尽くし方に、俺の乾いた独占欲は激しく満たされ、いつしかその姿を「愛おしい」とさえ思うようになっていた。
ふと気づけば、美里は俺に対して「彼女いるの?」とか、そういうプライベートに踏み込むような類いの質問を一切してこないのだった。
あえて聞かないことで、二人きりで過ごすその一瞬の空間と時間だけを、純粋に楽しみたいのだろう。
もしかしたら彼女にとって俺は、一人暮らしの埋まらない寂しさを、ほんの少しだけ都合よく埋めてくれる存在なのかもしれない。お互い様、と言えばそれまでだった。
「ねぇ、恭介くん。たまには外にご飯食べに行かない?」
ある夜、ソファで俺の腕に寄り添いながら、美里が少しねだるようにそう言った。ごく普通の恋人同士なら、当たり前のささやかな願いだ。
だが、その言葉を聞いた瞬間、俺の脳内には瞬時に「最大級の警告音」が鳴り響いた。
理由は言わずもがな、カナの存在だ。もし美里と外を歩いているところをカナに見つかれば、あの笑顔の裏に潜む「狂気」が完全に破裂し、すべてを破壊し尽くす。
「あー……そうだね。今度落ち着いたらね」
俺はいつもの生返事でその場を流しながら、心の中で冷や汗をかいていた。
美里の差し出す圧倒的な癒やしに溺れながらも、俺の足首には、カナという名の目に見えない冷たい鎖が深く食い込んでいるのだった。
カナのほうはといえば、相変わらず毎日仕事に忙しそうにしながらも、それなりに連絡をよこし、適度な頻度で一緒に飲むという関係が続いていた。
あの夜の街での刺すような緊張感はどこへやら、今のカナはひどく落ち着いている。美里の部屋という完璧な避難所を手に入れた俺にとって、このカナとの平穏な日常は、むしろ心地いいローテーションの一部にすらなっていた。
何も詮索されず、ただ癒やしをくれる美里。
そして、適度な距離感で俺の男としてのプライドを刺激し続ける本命のカナ。
こういう平凡で、すべてをコントロール下に置けている毎日が、一番いい。
そう、思っていたが、大事件が勃発する。
ある夜、いつものように二人で酒を飲んでいる席でのことだった。「ちょっとお手洗い」と、カナが席を立った。テーブルの上には、彼女のスマホがぽつんと取り残されている。
その直後、スマホの画面が短く明滅し、バイブレーションが卓上を震わせた。
ポップアップされた通知に、見知らぬ男の名前が表示されていた。
胸の奥が、嫌な音を立ててざわつき始める。見てはいけないと分かっていても、誘惑に抗えなかった。
さっきまで画面を触っていたカナは、自動ロックがかかる前に席を立っている。俺は吸い寄せられるように手を伸ばし、その通知をタップした。
『この前は楽しかったね。次は泊まっていきなよ』
ドクン、と心臓が破裂しそうなほど大きく跳ねた。
次の瞬間、頭の中がぐにゃりと歪んだ。湧き上がってきたのは、単純な怒りではない。嫉妬と、裏切られた侮蔑と、男としてのプライドを完膚なきまでに叩き潰された、言葉では言い表せない真っ黒な感情だった。
俺をあれほど狂気的なルールで縛り、手綱を握っていたはずのカナが、裏で他の男に抱かれていた?
吐き気がした。猛烈な嫌悪感の中で、俺はカナが戻ってくる前に、スマホを伏せて完璧に元の位置に戻した。
「お待たせー」
何事もなかったかのように、いつもの非の打ち所がない笑顔でカナが席に戻ってくる。
「……おう」
俺は喉の奥を震わせながら、必死で「普通」を装った。
乾いた笑い声を出し、グラスを傾ける。だが、目の前に座るカナのその薄紅色の唇を見るたびに、さっきの男からのメッセージが頭の中でリフレインした。
この唇で、他の男と。この身体で、別の男と。
笑いかけてくるカナの顔が、俺の頭の中でパンと破裂した。もう、一秒だって一緒にいるのは限界だった。
店を出て、駅へと向かう道すがら、俺は歩きながらぶっきらぼうに告げた。
「あ、ごめん。俺、ちょっとこの後、寄るところあるから。今日は一緒に帰れないわ」
「え? そうなんだ。飲みすぎないでね」
手を振って改札へと消えていく彼女の背中を見送りながら、俺は大きく息を吐いた。このまま家に帰るなんて到底無理だ。このドス黒い塊を抱えたまま、一人になるのが猛烈に怖かった。
行き先は、後輩のマキオが営んでいる静かなバーだ。
こいつは昔から、俺がどんなに荒れていても決して調子を合わせず、常にまともな意見で俺を落ち着かせてくれる。
「いらっしゃい、恭介さん。……どうしたんですか、そんな顔して」
カウンターの奥から投げかけられる、聞き慣れたマキオの声。
俺は泥のように重い身体を引きずるようにしてスツールに腰掛けた。指先が、まだ怒りと衝撃で小刻みに震えていた。
「……カナが、他の男と浮気してる」
絞り出すように言うと、マキオは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻って、低く呟いた。
「……それはマズいっすね」
そこから、俺は堰を切ったようにマキオに文句を言い散らかした。
どれだけ裏切られた気分か、あの女がどれだけ調子のいいことを抜かしていたか、胸の中のドロドロとした黒い感情をこれでもかと吐き出した。
マキオは俺の私生活のすべてを知っている。だからこそ、俺の怒りや言い分に「そうっすよね」「きついっすね」と同意を示しながらも、ただ感情に流されることなく、静かに俺の言葉を聞いていた。
一通り俺が吐き出し、荒い息をついたところで、マキオがグラスを磨く手を止めて、まっすぐ俺を見た。
「恭介さん。浮気されて怒る気持ちは当然ですし、めちゃくちゃ分かりますけど……恭介さんにも美里って人がいますよね。そこはどうするんすか?」
マキオの静かなトーンが、カウンターに冷たく響いた。
「……っ」
グーの音も出なかった。胸の奥を鋭利なナイフで一突きにされたような衝撃だった。そうだ。カナが他の男と寝ていようが何だろうが、バレていないだけで、俺にだって美里という存在がいる。自分だって裏切りを働いている身なのだ。
自分を棚上げしていた立場と、マキオの言い返せない言葉の鋭さに猛烈にイラつき、俺は八つ当たりのように悪態をついた。
「それはそれだろ! 関係ねぇよ!」
だが、マキオはそんな俺の子供じみた反発を、冷徹なまでの正論で完全に叩き潰してきた。
「関係なくないですよ。そもそもカナさんだって、恭介さんの奥さんから見れば、ただの浮気相手でしょう?」
頭の中で何かが凍りつく音がした。
正論だ。あまりにも、正論だった。俺がどれだけカナに対して特別な感情を抱き、独占欲を燃やそうが、外から見れば俺たちはただのドロドロとした不倫関係の当事者同士でしかない。
「……チッ、もういいわ」
俺はふてぶてしい態度を崩さないまま、代金をカウンターに叩きつけ、逃げるように店を出た。
冷たい夜風に吹かれながら、駅までの道を一人で歩く。
頭が冷えてくるにつれて、マキオの言った言葉が呪いのように頭の中でリフレインした。……その通りだ。マキオの意見は、何一つ間違っちゃいない。俺が怒る資格なんて、本当はどこにもない。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、カナからのLINEだった。
『飲みすぎてない?』
別の男と激しく抱合っていたかもしれない女からの、健気なふりをした生存確認。
俺の胸の奥で、マキオの正論によって一度は抑え込まれた黒い感情が、より冷徹で、歪んだ形に変わって鎌首をもたげた。
俺は歩きながら、冷え切った指先で画面を叩いた。
『明日、飲みに行こう』
すぐに既読がついた。
『うん! 行こう!』
画面の向こうで、カナが嬉しそうに返事をする気配が伝わってくる。
その文字を睨みつけながら、俺はスマホをポケットに深く押し込んだ。明日、あの薄紅色の唇がどんな言い訳を紡ぐのか、じっくりと見極めてやる。




