↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたは帰る場所を知らない  作者: KYSK


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/108

崩壊のノイズ

「お待たせ! ごめんね、仕事長引いちゃって」


店に現れたカナは、いつもの、非の打ち所がない楽しそうな笑顔を浮かべていた。

別の男と激しい夜を過ごしていたかもしれない女。

そうは思えないほど、その表情にも、まとう空気にも、不自然な淀みは一切ない。


「ううん、俺も今さっき着いたところ。お疲れ様」

俺もまた、鏡の前で何度も確認したような、完璧な笑顔を返した。


席に着くなり、カナは今日仕事で起きたトラブルや、同僚との他愛のない話を本当に楽しそうに話し始めた。身振り手振り。時折弾けるような笑い声。

だが、そのすべてが、今の俺の耳には全く聞こえてこなかった。


目の前で滑らかに動く薄紅色の唇。

楽しそうに細められる瞳。

そのすべてが、昨夜盗み見たあの無機質なテキスト――『泊まっていきなよ』という一文と重なり、ただのグロテスクな記号のように脳内で処理されていく。

俺の意識は、彼女の言葉の表面を滑り落ち、ただ冷徹な殺意に似た静寂だけが頭を支配していた。


やがて、ひと通り話し終えたカナの会話が、ふと途切れた。

スッと表情から温度を消す。仮面を剥ぎ取るように冷徹な顔になった俺は、まっすぐカナの目を射抜いて尋ねた。


「……なにか言うことない?」


グラスを持ったカナの手が、微かに止まったが、彼女はすぐに「なにー?」と首を傾げ、あっけらかんとした顔で笑ってみせた。


「何か私、言うこと忘れてる? あ、そういえばさっき言ってた映画の件――」


「そうじゃない」


俺は彼女の言葉を低く遮った。逃げ道を塞ぐように、視線を固定したまま、冷たく吐き出した。


「浮気しただろ?」


その瞬間、店内の喧騒が完全に消え去ったような錯覚に陥った。

カナの笑顔が消える。だが、そこに現れたのは『動揺』ではなかった。

彼女の顔に浮かんだのは、純粋な、そして強烈な『不快感』だった。


「……は? なんで?」


カナの声のトーンが、一気に低くなる。


「そんなわけないでしょ? どうして恭介さんにそんなこと言われなきゃいけないわけ? なんなの?」


カナは明らかに怒り気味だった。

その表情には、浮気がバレて焦る人間の素振りなど微塵もない。

むしろ、信じていたパートナーから、何の根拠もなく最低な濡れ衣を着せられて心底呆れ、憤慨している――そんな「完璧な被害者」の顔をして、本気で怒り始めていた。


「私をなんだと思ってるの? 疑われるの、本当に心外なんだけど」


俺の胸の奥で、再び真っ黒な感情がぐつぐつと煮え立ち始めていた。


腕を組み、本気で怒り、冷徹な目でこちらを睨みつけてくるカナ。その堂々とした態度、一切の隙も見せない被害者としての演技。

もし俺があの夜、彼女のスマホの画面をこの目で見ていなければ、その完璧な防壁に「俺の勘違いだったか」と引き下がっていただろう。


だが、今の俺の胸にあるのは、怒りを通り越した冷徹な確信だけだった。


俺はフッと低く笑い、テーブルに両肘をついて、カナの顔にじわじわと顔を近づけた。彼女の怒気に満ちた瞳を、正面から、逃げ場をなくすように見据える。


「もうバレてんだよ」


極限まで低く抑えた声で言い放つ。カナの眉がピクリと跳ねた。


「その演技はなんだよ。お前の大好きな完璧なルールが聞いて呆れるわ」


俺は一拍置き、あの明滅する画面に表示されていた「男の名前」を、はっきりと、彼女の耳の奥へ叩き込むように口にした。トドメの一撃を刺す。


「ハルトってやつだろ。もう知ってるんだよ」


その名前が俺の唇からこぼれ落ちた瞬間、世界が完全に静止した。


さっきまで、心外だと言わんばかりに肩を怒らせ、激しい怒りを剥き出しにしていたカナの身体が、まるで石にでもなったかのようにピキリと固まった。

カナは、一言も喋れなくなった。

核心を、それも言い訳のしようがない具体的な名前という「事実」を突かれ、彼女の脳内にある言い訳の回路がすべて焼き切れたのが分かった。


カナの小さな肩が、小刻みに震え始める。さっきまでの威勢のいい防壁はどこへやら、彼女の顔からは血の気が一気に引き、幽霊のように真っ白に変色していく。

見開かれた大きな瞳の奥に、じわじわと、行き場のない涙が溜まっていくのが見えた。


カナはただ、小さく震えながら、涙の膜の向こうから俺のことを凝視している。その目は、許しを請うているようでもあり、すべてを暴かれた恐怖に怯えているようでもあり、あるいは、俺の予測のつかない「狂気の火種」が再び燻り始めているようでもあった。


それでも、カナは乾いた喉から、かすれた声を絞り出した。


「……やってない」


往生際が悪すぎる。その期に及んで、まだ言い訳をしようっていうのか。


「それはもう通用しないんだよ」


冷たく突き放すと、カナは目を見開いたまま、溜まっていた涙を頬にこぼした。


その瞬間、カナという存在が、内側から音を立てて完全に破壊された。

プライドも、完璧主義も、俺を支配していた歪んだルールも、すべてが粉々に砕け散っていく。


「……ごめんなさい」


声にならないような、小さな小さな声だった。

蚊の鳴くような声で、彼女はただひたすらに、その言葉だけを繰り返す。


「ごめんなさい……」


人前なので必死に涙を堪え、完全に崩壊して震えているカナ。

だが、そんな彼女を目の前にして、なぜか俺の心はいたって冷静だった。

怒りで我を忘れることもなければ、哀れみに胸を痛めることもない。

まるでガラス越しに、出来の悪い映画のワンシーンでも眺めているかのような、冷ややかな静寂が俺の中にあった。


マキオの店で一度ドス黒い感情を吐き出しきったからか、あるいは、自分も美里という存在を隠し持っているという後ろめたさが、奇妙な冷徹さを生んでいるのか。


俺は感情の起伏を一切見せない、平坦な声でカナに告げた。


「謝れば許される問題じゃないだろ」


その言葉すら、今のカナの耳には届いているのかどうか怪しかった。

カナはただ、壊れた機械のように、小さく震える声で呟き続けていた。


「ごめんなさい……」


居酒屋の安っぽい喧騒が遠くで鳴り響く中、俺たちのテーブルだけが、底の抜けた深い闇の中に沈み込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。