崩壊のノイズ
「お待たせ! ごめんね、仕事長引いちゃって」
店に現れたカナは、いつもの、非の打ち所がない楽しそうな笑顔を浮かべていた。
別の男と激しい夜を過ごしていたかもしれない女。
そうは思えないほど、その表情にも、まとう空気にも、不自然な淀みは一切ない。
「ううん、俺も今さっき着いたところ。お疲れ様」
俺もまた、鏡の前で何度も確認したような、完璧な笑顔を返した。
席に着くなり、カナは今日仕事で起きたトラブルや、同僚との他愛のない話を本当に楽しそうに話し始めた。身振り手振り。時折弾けるような笑い声。
だが、そのすべてが、今の俺の耳には全く聞こえてこなかった。
目の前で滑らかに動く薄紅色の唇。
楽しそうに細められる瞳。
そのすべてが、昨夜盗み見たあの無機質なテキスト――『泊まっていきなよ』という一文と重なり、ただのグロテスクな記号のように脳内で処理されていく。
俺の意識は、彼女の言葉の表面を滑り落ち、ただ冷徹な殺意に似た静寂だけが頭を支配していた。
やがて、ひと通り話し終えたカナの会話が、ふと途切れた。
スッと表情から温度を消す。仮面を剥ぎ取るように冷徹な顔になった俺は、まっすぐカナの目を射抜いて尋ねた。
「……なにか言うことない?」
グラスを持ったカナの手が、微かに止まったが、彼女はすぐに「なにー?」と首を傾げ、あっけらかんとした顔で笑ってみせた。
「何か私、言うこと忘れてる? あ、そういえばさっき言ってた映画の件――」
「そうじゃない」
俺は彼女の言葉を低く遮った。逃げ道を塞ぐように、視線を固定したまま、冷たく吐き出した。
「浮気しただろ?」
その瞬間、店内の喧騒が完全に消え去ったような錯覚に陥った。
カナの笑顔が消える。だが、そこに現れたのは『動揺』ではなかった。
彼女の顔に浮かんだのは、純粋な、そして強烈な『不快感』だった。
「……は? なんで?」
カナの声のトーンが、一気に低くなる。
「そんなわけないでしょ? どうして恭介さんにそんなこと言われなきゃいけないわけ? なんなの?」
カナは明らかに怒り気味だった。
その表情には、浮気がバレて焦る人間の素振りなど微塵もない。
むしろ、信じていたパートナーから、何の根拠もなく最低な濡れ衣を着せられて心底呆れ、憤慨している――そんな「完璧な被害者」の顔をして、本気で怒り始めていた。
「私をなんだと思ってるの? 疑われるの、本当に心外なんだけど」
俺の胸の奥で、再び真っ黒な感情がぐつぐつと煮え立ち始めていた。
腕を組み、本気で怒り、冷徹な目でこちらを睨みつけてくるカナ。その堂々とした態度、一切の隙も見せない被害者としての演技。
もし俺があの夜、彼女のスマホの画面をこの目で見ていなければ、その完璧な防壁に「俺の勘違いだったか」と引き下がっていただろう。
だが、今の俺の胸にあるのは、怒りを通り越した冷徹な確信だけだった。
俺はフッと低く笑い、テーブルに両肘をついて、カナの顔にじわじわと顔を近づけた。彼女の怒気に満ちた瞳を、正面から、逃げ場をなくすように見据える。
「もうバレてんだよ」
極限まで低く抑えた声で言い放つ。カナの眉がピクリと跳ねた。
「その演技はなんだよ。お前の大好きな完璧なルールが聞いて呆れるわ」
俺は一拍置き、あの明滅する画面に表示されていた「男の名前」を、はっきりと、彼女の耳の奥へ叩き込むように口にした。トドメの一撃を刺す。
「ハルトってやつだろ。もう知ってるんだよ」
その名前が俺の唇からこぼれ落ちた瞬間、世界が完全に静止した。
さっきまで、心外だと言わんばかりに肩を怒らせ、激しい怒りを剥き出しにしていたカナの身体が、まるで石にでもなったかのようにピキリと固まった。
カナは、一言も喋れなくなった。
核心を、それも言い訳のしようがない具体的な名前という「事実」を突かれ、彼女の脳内にある言い訳の回路がすべて焼き切れたのが分かった。
カナの小さな肩が、小刻みに震え始める。さっきまでの威勢のいい防壁はどこへやら、彼女の顔からは血の気が一気に引き、幽霊のように真っ白に変色していく。
見開かれた大きな瞳の奥に、じわじわと、行き場のない涙が溜まっていくのが見えた。
カナはただ、小さく震えながら、涙の膜の向こうから俺のことを凝視している。その目は、許しを請うているようでもあり、すべてを暴かれた恐怖に怯えているようでもあり、あるいは、俺の予測のつかない「狂気の火種」が再び燻り始めているようでもあった。
それでも、カナは乾いた喉から、かすれた声を絞り出した。
「……やってない」
往生際が悪すぎる。その期に及んで、まだ言い訳をしようっていうのか。
「それはもう通用しないんだよ」
冷たく突き放すと、カナは目を見開いたまま、溜まっていた涙を頬にこぼした。
その瞬間、カナという存在が、内側から音を立てて完全に破壊された。
プライドも、完璧主義も、俺を支配していた歪んだルールも、すべてが粉々に砕け散っていく。
「……ごめんなさい」
声にならないような、小さな小さな声だった。
蚊の鳴くような声で、彼女はただひたすらに、その言葉だけを繰り返す。
「ごめんなさい……」
人前なので必死に涙を堪え、完全に崩壊して震えているカナ。
だが、そんな彼女を目の前にして、なぜか俺の心はいたって冷静だった。
怒りで我を忘れることもなければ、哀れみに胸を痛めることもない。
まるでガラス越しに、出来の悪い映画のワンシーンでも眺めているかのような、冷ややかな静寂が俺の中にあった。
マキオの店で一度ドス黒い感情を吐き出しきったからか、あるいは、自分も美里という存在を隠し持っているという後ろめたさが、奇妙な冷徹さを生んでいるのか。
俺は感情の起伏を一切見せない、平坦な声でカナに告げた。
「謝れば許される問題じゃないだろ」
その言葉すら、今のカナの耳には届いているのかどうか怪しかった。
カナはただ、壊れた機械のように、小さく震える声で呟き続けていた。
「ごめんなさい……」
居酒屋の安っぽい喧騒が遠くで鳴り響く中、俺たちのテーブルだけが、底の抜けた深い闇の中に沈み込んでいた。




