代償の獣
カナはずっと、下を向いたままだった。
涙がテーブルに小さな水溜りを作っていくのを、俺はただ静かに見下ろしていた。
「バレなければ、そのままアイツと続けてたのか?」
俺の低い問いかけに、カナは小さく、激しく首を横に振った。
「……違う……違う。一度だけ……一度会っただけ……」
消え入りそうな声での、必死の弁明。
だが、その一回が事実であると本人の口から示された瞬間、俺の頭の奥で何かが静かにキレた。
あれほど異常なルールで俺を縛り付け、行動を監視し、支配しているような顔をしていたくせに。
俺が少しでもルールを外れそうになれば、あの笑顔の裏に潜む狂気で俺を恐怖させていたくせに。
その本人が、裏では別の男の腕の中に身を委ね、肌を重ねていた。
その身勝手さと、あまりにも理なき裏切り。
これまで張り詰めていた緊張感と抑圧が、一気に凄まじい「苛立ち」となって俺の全身の血を駆け巡った。そうでもしなければ、自分が内側から壊れてしまいそうだった。
「……出よう」
俺は伝票を掴むと、冷たく言い放って席を立った。
カナはビクッとして、涙を拭いながら俺の後ろを黙ってついてくる。
無言のまま会計を済ませ、夜の街へと飛び出した。
歩きながらも、苛立ちは収まるどころか増幅していく。この行き場のない感情の反動だった。
俺はカナの細い手首を掴むと、そのまま駅とは逆の方向へ引っ張っていった。
向かう先は、ネオンがギラつくラブホテルの街。
カナは抵抗しなかった。ただ、怯えたような、すべてを諦めたような目で俺に引きずられていた。
部屋に入り、ドアが閉まった瞬間に、俺は彼女の身体を乱暴にベッドへと押し倒した。 それは、裏切られた男の、文字通りの「襲撃」だった。怒りと独占欲に任せて、その白い肌を貪っていく。
服を剥ぎ取り、その身体を乱暴に抱きすくめる。
カナは痛みを堪えるような、ひどく切ない表情を浮かべて俺を見つめていた。その瞳には、かつて俺を支配していたあの鋭さは微塵もなく、ただただ俺を失うことを恐れるような、ひどく脆い一人の女の光が宿っていた。
だが、カナはその切なさを振り払うように、申し訳なさそうな目で、いつも以上に激しく俺の身体を求めてきた。俺の機嫌を取るように、必死になって俺を喜ばせようと奉仕してくる。俺の怒りを少しでも和らげようとするその必死な姿が、さらに俺の衝動を煽った。
「……ごめんなさい、恭介さん」
喘ぎ声の合間に、カナは一回だけ、搾り出すようにそう漏らした。
その必死な、情欲と罪悪感にまみれたカナの姿をねじ伏せるように、俺はただ本能のままに、強く身体を重ね合わせた。
嵐のような時間が終わり、シーツの海に波が引いていく。
エアコンの無機質な稼働音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。
二人で裸のままベッドに横たわっていると、不意にカナが横から俺の身体にしがみついてきた。細い腕で俺の胸元を強く抱きしめ、その小さな顔を胸に埋めてくる。
「……う、あ、……っ」
次の瞬間、カナは声を上げて泣き始めた。
しゃくり上げ、大粒の涙を俺の胸にこぼしながら、子供のように激しく泣きじゃくっている。自分の犯した罪を、心底悔いているような涙だった。
俺はカナの細い背中越しに、ぼんやりと天井の模様を眺めていた。その時、頭の奥で、マキオのあの冷徹な言葉が不意によみがえった。
『恭介さんにも美里さんがいますよね。そこはどうするんすか?』
……そうだ。マキオの言う通りなんだ。
俺だって、似たようなもんだ。ただバレていないというだけで、俺はカナ以上にひどい裏切りを繰り返している。既婚者でありながら美里を抱き、その美里を隠しながらカナを抱いている。
自分のあまりの欺瞞と最低さに、猛烈な嫌悪感が込み上げてくる。
俺がこれ以上、被害者の顔をしてカナを責め続ける資格なんてない。そして、いつまでもこの過去に囚われて怒りを引きずっていれば、いずれ俺自身の「美里」という綻びにも行き着き、すべてが破滅するだろう。
終わったことをいつまでも言ってても仕方ない。これからどうするかを考えた方がいい。
それが、俺たち二人がこれからも関係を壊さずに一緒にいるための、唯一の不器用な選択肢だった。
俺は小さく息を吐くと、腕の中のカナを少しだけ強く抱きしめ返した。 彼女の涙で濡れた髪に手を回し、これ以上お互いを壊し合わないために、低い声で告げた。
「……次、同じことがあれば終わりにしよう」
カナは俺の胸に顔を埋めたまま、その言葉の意味をしっかりと体に刻み込むように、小さく何度も頷きながら泣き続けた。
最低の自分に嫌悪感すら抱きながら、俺たちはこうして再び一つの日常へと戻ろうとしている。
ホテルから出た後、カナは何も言わずに俺の隣に並び、そっと腕を組んできた。
いつもの、何事もなかったかのような、恋人同士の距離感。俺はその腕を振り払うこともしなければ、強く引き寄せることもしなかった。
ただ、組み合わされた体温を感じながら、自然な歩幅で夜の街を並んで歩いた。
静まり返った夜の帳の中を、二人で歩く。
お互いの胸の奥には、それぞれ言葉にできない思いが渦巻いていた。けれど、それをお互いに口にすることは二度となかった。
何も言わず、何もなかったかのように、ただ前を向いて歩く。
全てはさっき、あの熱を孕んだ密室の中で解決させたのだ。
いや、永遠に解決することなどないのだと、俺たちはどこかで知っていた。
それでも俺たちは、その欺瞞に目を瞑り、無理やりに元の関係に戻ろうとする。
一度お互いの胸に穿たれた決定的な傷跡は、これからどんなに親密になろうとも、一生消えない冷たい溝として、俺たちの間に音もなく横たわり続ける。
それでも俺たちは、何食わぬ顔でその溝の上を歩き続けるしかなかった。




