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あなたは帰る場所を知らない  作者: KYSK


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静かな余白

美里という女は、自分が必要な時にしか連絡をしてこない。


『暇してるなら来る?』


スマホの画面にぽつりと言い訳のように表示される、その短いメッセージ。

踏み込みすぎることもなければ、こちらのプライベートを詮索することもない。その、互いの領域を侵さない絶妙な距離感が、今の俺にはたまらなく心地よかった。


カナとの、あの血を吐くような嘘の暴き合い。

そして、何事もなかったかのように腕を組んで歩いた夜。

恋人という形に収まりながら、その実、足元には一生消えない冷たい溝が横たわっている。

あの異常な支配と、その裏にあった身勝手な裏切りに、俺の心は思った以上に疲弊しきっていた。

恋愛というものが持つ、あの泥泥とした感情のぶつかり合いに、すっかりあてられてしまっていたのだ。


だからこそ、美里の部屋に向かう足取りは、いつになく軽かった。


美里は、俺が何を抱え、何に疲れているのか、何も聞いてはこない。

ただ、扉を開ければ、いつもと変わらない少し薄暗い照明と、静かな音楽が俺を迎えてくれる。


「いらっしゃい、恭介くん」


ただその一瞬を、何も考えなくていい真っ白な時間として楽しむ。


最近、俺は美里の部屋を訪ねる際、必ずちょっとしたお土産を買っていくようになった。

仕事帰りに見つけた小さな洋菓子や、彼女が好きそうなちょっとした手土産。

扉を開けてそれを差し出すと、美里は本当に嬉しそうに目を細めて、子供のように喜んでくれる。

その無邪気で可愛い姿を見るだけで、俺の荒んだ心のノイズが、すうっと引いていくのが分かった。


いつからか、俺は美里との身体の関係を望まなくなっていた。

今の俺には、誰かの肌に触れ、情動を交わすだけのエネルギーが残っていなかった。


どこかで、カナに対する奇妙な「罪悪感」のようなものが、俺の身体にブレーキをかけているのかもしれない。

あの夜、俺の胸で子供のように声を上げて泣きじゃくったカナの涙。

裏切られた被害者でありながら、自分もまた加害者であるという、あのホテルでのひどい自己嫌悪。

カナを許し、関係を修復しようと決めたからこそ、俺の中の何かが、美里に手を出すことを拒んでいるようでもあった。


美里は、その俺の変化に何かしら気づいているのだろう。


身体の関係を求めなくなった俺を前にして、美里は何も聞いてはこない。

けれど、ふとした瞬間の瞳の奥に、ほんの少しだけ寂しそうな、物足りなさそうな揺らぎが見える。

その美里の寂しさが、痛いほど俺の胸に伝わってきて、俺自身も酷く寂しい気持ちにさせられた。


それでも、彼女は決して不満げな顔を俺に見せることはなく、いつも通りニコニコと穏やかに笑って、俺の隣にいてくれるのだ。


俺はグラスを傾けながら、そんな美里の顔をじっと見つめ、思考の泥濘に沈んでいた。


(美里も……カナと同じように、他の男に抱かれているのだろうか)


一度疑念の毒が回ると、それは際限なく広がっていく。

俺がいない間、美里は他の男と楽しくやっているのだろうか。隙間に、他の男が入り込み、この部屋で、俺と重ねたのと同じような時間を過ごしているのだろうか。


既婚者であり、カナという恋人もいる俺には、美里を束縛する権利など爪の先ほどもない。

それは百も承知だった。

だが、彼女の物足りなそうな笑顔を見ていると、男としての醜い独占欲と焦燥感が、胸の奥をチリチリと焦がしていく。


じっと見つめすぎたのだろう。美里がふっと首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。


「なに? 私のこと可愛いなと思って見てるの?」


その少し照れたような、からかうような声音。俺はグラスをテーブルに置くと、嘘偽りのない本音をそのまま口にした。


「そうだよ、可愛いなと思って見てた」


茶化されると思っていたのか、俺のストレートな言葉に、美里は一瞬だけ丸い目を見開いた。それから、照れ隠しをするように楽しげに笑った。


「ふふ、なにそれ。恭介くん、具合でも悪いの?」


「そうかもな」と、俺も小さく笑い返す。


俺がその気になって、彼女の手を取って求めさえすれば、美里はいつでも喜んで応じてくれるだろう。それは分かっていた。

だが、今の俺が求めているのは、そういう熱い肉体の交わりではなかった。

ただ、この静かな、けれど確かに互いを求め合っている寂しさに、身を浸していたかった。


結局、俺は美里の部屋を訪ねては、ひたすら酒を煽り、泥酔して帰るような日が多くなっていった。


現実から逃げるようにグラスを重ね、呂律が怪しくなっていく俺を、美里はいつも、心底心配そうな目で見つめていた。


「……ねえ、かなり酔ってるよ。少しだけでもここで寝てから帰ったほうがいいよ」


美里はそう言って、優しく俺をベッドへと促してくれる。

お言葉に甘えて、俺は彼女のベッドに身体を横たえる。

けれど、どれだけ酒が回っていようとも、俺が彼女の身体を抱き寄せることはなかった。

ただ静かに目を閉じ、そのまま眠りに落ちる。


何もせず、ただ酒を飲んで、眠って、時間が来れば帰っていく俺。

そんな抜け殻のような俺を、美里は文句一つ言わずに見守り続けている。


そんな一方通行の、甘えきった関係が長く続くわけがなかった。


気づけば、あんなに頻繁だった美里からの連絡が、パタリと途絶えるようになっていた。

彼女のアイコンが通知欄に現れることはない。


いつも都合よく差し伸べられていた手が引っ込められると、途端に身勝手な寂しさが頭をもたげる。

自分から手を引いたくせに、連絡が来なくなると、無性に彼女のあの静かな部屋が恋しくなり、会いたくて仕方がなくなるのだ。


俺は自嘲気味に息を吐きながら、自分から短いメッセージを送った。


『暇だから行ってもいい?』


いつだって「いいよ」と返ってきていた、その問いかけ。だが、しばらくして返ってきた美里からの返信は、予想に反して冷ややかなものだった。


『今日はもう寝るから』


スマホの画面を見つめたまま、何か、言いようのない変な気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。

いつも自分のすべてを受け止め、泥酔した俺を心配そうに見守ってくれていたあの美里に、初めて明確に「拒絶」されたのだ。

その事実が、思った以上に俺のプライドと心を鋭く抉った。


(新しい男か……?)


脳裏に、最悪な妄想が火花を散らす。

カナの一件があった直後だからこそ、俺の疑心暗鬼は限界に達していた。

美里のあの物足りなそうな、寂しそうな笑顔。

彼女はしびれを切らして、俺以外の男をあの部屋に招き入れているのではないか。

あのベッドで、今頃は別の男と――。


美里はもう、俺のことを必要としなくなったのだろうか。

胸をかきむしるような焦燥感に耐えかね、俺は別の日、もう一度だけ美里に連絡を入れた。


『今日、空いてる?』


祈るような気持ちで画面を見つめる。だが、戻ってきた返信は、やはりかつての彼女のものではなかった。


『今忙しくて。』


極めて簡短で、事務的な拒絶。

また、拒否された。


美里の部屋という、俺を無条件で甘やかし、現実から守ってくれていた唯一の防壁が、音を立てて閉ざされていく。

拒絶の冷たさに身を震わせながら、俺はスマートフォンの黒い画面に映る、ひどく惨めで滑稽な自分の顔を、ただじっと見つめ返すことしかできなかった。


何も手につかないまま、ただ時間だけが冷酷に過ぎていく。


数日後、ポケットの中でスマートフォンが短い振動を知らせた。

画面を滑らせると、そこには待ち望んでいた名前が表示されていた。

美里だった。


『この前はごめんね。明日くる?』


その短いテキストを見つめながら、俺の胸は喜びよりも先に、暗く濁った思考に支配された。

(明日ならいい……? じゃあ、断られたあの日は、やっぱり他の男と遊んでたってことなのか?)

他の男との予定がない日だけ俺を呼ぶ。

そんな都合のいい身代わりにされているのではないかという疑念が、頭をもたげる。


だが、そんな猜疑心を抱えながらも、次の日、俺の身体は吸い寄せられるように美里のマンションへと向かっていた。


エレベーターを降り、いつもの扉の前に立つ。心臓の鼓動がやけにうるさい。

鍵が開き、出迎えた美里の部屋の中は、いつもと何も変わっていなかった。お気に入りのアロマの香り、薄暗い間接照明、静かな音楽。


「いらっしゃい、恭介くん」


いつものように穏やかに微笑む彼女の顔を見た瞬間、張り詰めていた俺の何かが、ぷつりと切れた。

俺は強がることもできず、ソファに腰掛けるなり、努めて平然を装いながら尋ねた。


「……他の男が、来てた?」


馬鹿げた質問だとは分かっていた。だが、聞かずにはいられなかったのだ。

美里は一瞬だけきょとんとした顔を見せたが、すぐにいつものようにニコニコと柔らかく笑って首を横に振った。


「そんなわけないでしょ? この部屋にくるのは恭介くんだけよ」


その一切の曇りのない、包み込むような笑顔。

それなのに、俺の胸の奥にある子供じみた焦燥感は、まだ収まらなかった。膝の上で拳を握りしめ、自分でも情けなくなるほど拗ねた声をこぼしてしまう。


「だって……二回も断られてる」


それは、大人の男の口から出るものとは思えない、ただの駄々っ子の抗議だった。

美里はそんな俺の様子を見て、ふっと優しく目を細めると、まるで小さな子供を優しく諭すように、一歩近づいてしゃがみ込んだ。


「仕事が本当に忙しかったの。……寂しかった?」


その、すべてを見透かしたような、けれど温かい眼差し。

俺はもう、格好をつける気力すら残っていなかった。美里を見つめたまま、吐き出すように本音をこぼす。


「……寂しいに決まってるじゃん」


カナの裏切りに傷つき、罪悪感に押し潰され、誰にも本音を言えずに張り詰めていた俺の心が、美里のその一言で一気に決壊していく。


美里はくすりと小さく笑うと、俺の頭をそっと胸元に引き寄せるように、両腕を広げた。


「どうしたの? ほら、おいで」


美里は、どこまでも優しかった。

その細い腕に抱きしめられ、その柔らかな体温に包まれた瞬間、俺の脳裏を支配していたドス黒い猜疑心も、焦燥感も、すべてが嘘のように溶けて消えていった。


俺はただ、彼女の胸に顔を埋め、その温もりを貪るように、静かに目を閉じた。

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