完璧な仮面と、密かな蜜
カナはここのところ、セールだなんだと息をつく暇もないほど忙しい日々を送っていた。
仕事に追われる彼女とは少しだけ会えない時間が続いていたが、そんなある日の午後、仕事の移動がてら、俺はカナの職場の前を通りかかった。
通りに面したガラスの向こうを、何気なく覗き込んでみた俺は、一瞬、足を止めた。
そこにいたのは、俺の知っているカナではなかった。
ブランドの制服に身を包み、スッとした綺麗な立ち姿で、お客さん相手に感じのいい笑顔で接客をこなしている、どこまでも完成されたカナの姿があった。
お洒落で、清潔感があって、接客している姿もものすごく様になっている、綺麗な大人の女性。
ディスプレイ越しにその姿を眺めながら、俺の胸の奥底から、じわりと温かい優越感が湧き上がってきた。
(あの綺麗な店員が、俺の彼女なんだな)
店の中でテキパキと、スマートに仕事をこなしているあの綺麗な女性は、一歩外に出れば、俺の隣で嬉しそうに腕を組んで歩いてくれる。俺だけが、彼女の恋人という特等席にいる。
そんな、誰にも言う必要のない、秘密めいた純粋な優越感が、俺の心を静かに満たしていくのを感じていた。
その時だった。
お客さんに商品を勧めながら、ふと視線を泳がせたカナが、ガラス越しに佇む俺の姿を捉えた。
お互いの目が、まっすぐに重なる。
その瞬間、カナの表情が変わった。完璧だったプロの接客用スマイルが一瞬で崩れ、丸い目をさらに見開いて驚いている。
本当に嬉しそうに、けれどどこか恥ずかしそうに頬を染めて、顔を少しだけ赤くした。
仕事中だから、もちろん声をかけることも、大きく手を振ることもできない。
カナはお客さんの対応を続けながらも、落ち着かない様子で、チラチラと何度もこちらに視線を送ってくる。
その様子が、たまらなく愛らしかった。
俺はそんな彼女の可愛い姿を少しだけ楽しんだ後、ガラス越しに、優しくニコッと笑って見せた。
これ以上仕事の邪魔をしても悪い。俺はそのまま、静かにその場を後にした。
歩き出しながら、胸の奥がじんわりと温かくなっているのを感じていた。
あの完成されたカナが、俺を見た瞬間に、一人の女の顔に戻る。その特別な事実が、俺の男としての自尊心を、これ以上ないほど甘美に満たしてくれていた。
その日の夕方、カナからLINEが入った。
『仕事、20時に終わるから。その後、会える?』
短い文面からも、彼女が俺と会えるのを心待ちにしているのが伝わってきた。
20時を少し回った頃、約束の場所で合流するなり、カナは少し膨れっ面を作って俺の肩を小突いてきた。
「ちょっとー! なんでお店に入ってこないの?」
その開口一番の抗議に、俺は思わず苦笑してしまった。
「男一人で化粧品屋に入るとか、普通におかしいだろ」
「なんでよ! お客さんとして入ってくればいいじゃない。私が接客してあげたのに」
「なんで俺が、化粧品屋の客として捕まらなきゃいけないんだよ」
俺が呆れたように言うと、カナは可笑しそうに吹き出し、俺たちは顔を見合わせて笑った。そんな他愛のない、いつもの軽口の応酬。けれど、カナの顔には、さっきの照れくささがまだ少しだけ残っているようだった。
カナは俺の腕に自分の腕をぎゅっと絡めると、下から覗き込むようにして聞いてきた。
「ねえ、私、ちゃんと仕事してたの、見てくれた?」
「ああ、見てたよ」
俺は彼女の少し緊張したような瞳を見つめ返し、素直な感想を口にした。
「いつもと違って、なんか『できる女感』がすごく出てた」
「なにそれ! 普段からできる女だし!」
カナはそう言ってぷっと頬を膨らませ、俺の腕を軽く揺さぶった。
その自信満々で、少し勝ち気な彼女らしい物言いに、俺は口角をわずかに上げ、ボソッと呟いた。
「あぁ、セックスはな」
その瞬間、カナの動きがピタッと止まった。
俺を少し睨むようにして下から見上げてきた。
「は? 今なんて言った?」
ジロリと睨みつけてはいるものの、その頬は赤く染まっていて、恥ずかしさを隠すようにぷんぷんしているその様子が、たまらなく愛らしい。
店の中での完璧な接客。そして、今こうして俺の隣で子供のように顔を赤くして怒っている姿。
そのすべてのギャップが、これ以上ないほどの優越感が、再び俺の胸を満たしていく。
「もう、お腹空いた! 早く行くよ!」
カナは照れ隠しで怒ったように俺の腕をぐいっと引っ張り、足早に歩き出した。
俺はその少し早くなった歩調に合わせながら、自然と彼女と並んで夜の街へと歩みを進めた。
カナの浮気という、あの一件。
それを経た今、俺たちの間には、信じられないほど何事もないような、他愛のない会話が流れている。お互いがお互いの傷に触れないよう、静かに、けれど器用に、いつもの恋人としての日常をなぞっている。
俺の口元には、いつも通りの笑みが浮かんでいた。
冷ややかで、どこか一歩引いた、いつもの俺の表情。
(……これで、元に戻ったのだろうか)
腕に絡みつくカナの確かな体温と、柔らかく甘える彼女の声を聴きながらも、俺の頭の片隅には、冷徹な疑問が澱のように居座っていた。
「カナが浮気をした」という決定的な事実は、決して消えたわけではない。ただ、その歪みから目を逸らし、元通りになったかのような錯覚を楽しんでいるだけなのかもしれない。
いつものようにテーブルを挟み、他愛のない会話を交わしながら箸を進めていると、カナがふと、何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。ちょっとしたお知らせがあるんだ」
「お知らせ?」
俺がグラスに手を伸ばしながら聞き返すと、カナはいたずらっぽく目を輝かせ、こちらを覗き込んできた。その表情は、どこか楽しげで、期待に満ちている。
「何だと思う? 恭介さんにとって、嬉しいこと」
「俺にとって嬉しいこと……?」
俺は少し眉をひそめ、言葉の真意を探るようにカナの顔を見つめた。
カナの口から出る「嬉しいこと」が、果たして本当に俺にとってのそれと同じなのか、今の俺にはいささか確信が持てなかったからだ。
あの浮気の一件以来、俺の中のどこかが、彼女の言葉の裏を静かに探るようになっていた。
「嬉しいと思うよ、絶対に」
もったいぶるようにそう言うと、カナはいたずらが成功した子供のように、嬉しそうに声を弾ませた。
「旦那がね、単身赴任になるんだ」
「……単身赴任?」
思わず、口から出た声が少しだけ鈍くなった。
旦那が家を空ける。それはつまり、俺たちが誰の目を気にする必要もなく、自由に会える時間が増えるということを意味している。
けれど、俺の頭の中に真っ先に浮かんだのは、手放しの喜びではなかった。
(家庭を大事にしてこそ、不倫ができる……はずだろう)
それが、俺がこの歪んだ関係を壊さずに続けていくために、必死に自分に言い聞かせてきた唯一の防壁だった。
お互いに守るべき日常があって、壊してはならない生活という境界線があるからこそ、この関係は破綻せずにいられる。家庭という現実的なストッパーがあるからこそ、お互いに「ここから先は踏み込まない」という一線が機能していたのだ。
だが、旦那が単身赴任になるということは、カナの日常からそのストッパーが物理的に消え去ることを意味していた。
縛るものがなくなったカナは、これまで以上に、こちらとの距離感を見失ってしまうのではないか。それに、何より――。
(……子供はどうするんだ?)
カナには子供がいる。
旦那という共同経営者のような存在がいなくなれば、家庭のすべての負担が、そして育児のすべてがカナ一人にのしかかることになる。それなのに、カナは目の前でこれ以上ないほどウキウキと、自分たちの『自由』を楽しそうに語っている。
「ねえ、これからは週末もずっと一緒にいられるかも。何しよっか?」
無邪気な笑顔を見つめながら、俺はただ、引きつりそうな笑みを浮かべることしかできなかった。
そして次の月になり、とうとうカナの旦那は単身赴任で家を離れていった。
蓋を開けてみれば、カナは本当にせいせいしたといった様子で、旦那のいない新しい生活を満喫していた。
メッセージの端々からも、「夫」という存在がいなくなった解放感が溢れ出ていて、彼女の足取りが軽くなっているのが手に取るように分かった。
案の定、カナは平日の夜でも「今日これから会える?」と、頻繁に俺を誘うようになってきた。
ある夜、いつものように食事をしながら、俺はグラスを置いてカナの顔をまっすぐに見つめた。
「カナ、言っておくけど、子供に寂しい思いをさせちゃダメだよ」
「え……?」
不意に真剣なトーンで切り出され、カナは箸を止めて目を丸くした。俺は構わず、淡々と、けれど芯のある声で言葉を続ける。
「カナが俺とこうやって飲みに出るってことは、その間、家では子供が一人きりになるんだろ? 正直、俺はそういうの、好きじゃないんだ」
不倫という歪んだ関係に身を置いている俺が言うのは、矛盾しているかもしれない。それでも、これは俺の譲れない一線だった。大人の都合に子供を巻き込んで、寂しい思いをさせるような真似は絶対に許せなかった。
カナは少し気まずそうに視線を泳がせ、それから俺の腕にそっと手を添えて、すがるように上目遣いで甘えてきた。
「ダメだよ」
俺は遮るように、静かに首を振った。
子供よりも俺との時間を優先されるようなこと、その天秤の比重が俺に傾くことを、俺は決して望んでいなかった。俺が惚れたのは、ちゃんと家庭のこともこなそうと凛と立っているカナであって、恋に狂って母親の役割を放棄する女じゃない。
「子供が寂しい思いをするなら、カナは外に出てこなくていい。会える時にだけ、ちゃんと会おう」
「うん……」
カナは言葉に詰まり、複雑な表情で俺を見つめていた。
旦那が単身赴任になり、物理的な自由を手に入れたはずのカナ。だが、彼女には「子供」という、切っても切り離せない最も大切にすべき存在がある。
自由の身になって浮き足立つカナに対して、むしろ不倫相手である俺のほうが、その大切な存在を守ろうと必死になっている。
そんな自分の妙に真面目な一面に、俺は胸の奥で、苦笑いを浮かべていた。




