優しい嘘が明けるまで
あの凍りつくような冷戦と、カナの底知れない狂気を孕んだ警告を経て、俺たちは初めての二人きりの旅行に出かけることになった。
行き先は、西の方にある静かな温泉地だ。
出発の朝、待ち合わせ場所に現れたカナを見て、俺は思わず声を上げた。
「おい、一泊二日だろ? なんだよその大袈裟な荷物は。海外にでも行く気か?」
彼女が抱えていたのは、どう見ても一泊旅行の枠に収まらないほどの大きなバッグだった。カナは俺の呆れ顔を見ると、悪びれる風でもなく、いつもの愛嬌のある笑顔で言った。
「女の子はいろいろ必要なの! スキンケアとか、サプリとか、お洋服とか……これでも厳選したんだよ?」
そう言われてしまっては、男としてそれ以上突っ込むわけにもいかない。俺は苦笑しながら彼女の重いバッグを車のトランクに放り込み、運転席に乗り込んだ。
車を西に向けて走らせる。
車内にはカナの好きな音楽が流れ、助手席の彼女はすっかり上機嫌だった。
バッグからは相変わらず彼女のこだわりであるオーガニックなおやつや、俺に飲ませるためのサプリメントが次々と飛び出してくる。
数日前、あの薄暗い店で「私も他の男と遊ぶ」と笑顔で脅してきた冷酷な顔は、今の彼女からは微塵も感じられない。
その激しい二面性にどこか肝を冷やしつつも、プライベートな空間で二人きり、街から遠ざかっていく解放感は、俺の心を確実に満たしていった。
途中でいくつか小洒落た道の駅に寄り、地域の特産品を眺めたり、軽い休憩を挟んだりしながら、車はさらに西へ西へと進んでいく。
他愛のない会話で笑い合い、お互いのディテールをさらに埋めていくドライブは、まるで本当のカップルのようで、ひたすら純粋に楽しかった。
数時間のドライブを経て、目的地の温泉宿に到着した。
緑に囲まれた、静かで落ち着いた佇まいの格式高そうな旅館だ。車を停め、大袈裟な荷物を抱えて中に入る。
「私、受付してくるね」
カナは慣れた様子でフロントへ向かい、宿泊の手続きを済ませ始めた。しばらくして、宿のスタッフと話していたカナが、振り返って俺に手招きをした。
「恭介さん、ちょっと来て。一緒に旅館の説明聞こう」
手配されたラウンジのテーブルに向かい、俺はカナの隣に腰を下ろした。
スタッフが丁寧な口調で、食事の時間や館内の案内を説明し始める。その時、ふとスタッフの手元にある受付の記帳用紙が目に留まった。
そこに並んでいたのは、俺の苗字だった。
俺の苗字の下に、俺の名前と、そして「カナ」の名前が、まるで最初からそうであるのが当たり前かのように、同じ苗字の家族として二人の名前が並んで記載されている。
心臓がどきっと跳ねた。お互いに本物の家庭があり、それぞれの家に帰れば別の苗字を持つ身だ。それなのに、この紙の上だけでは、彼女は俺の身内ということになっている。
俺が記帳用紙を見つめているのに気づいたのだろう。
カナが隣から、俺の顔を覗き込んできた。目が合うと、彼女はすべてを分かった上で、悪戯が成功した子供のように「えへへ」と、小さく、満足そうな笑みを浮かべた。
スタッフの説明は続く。館内の大浴場の案内になったその時、スタッフがカナに向けて微笑んだ。
「大浴場はあちらの奥になっております。奥様の方は、あちら側の暖簾からお入りください」
「 奥様 」
その響きが耳に届いた瞬間、カナの表情が劇的に変わるのを俺は隣で見逃さなかった。 否定するわけでもなく、照れるわけでもない。
カナはただ、その「奥様」という言葉の響きを全身で受け止め、深く、静かに、恍惚とした悦に浸っていた。
その表情は、どこか神聖で、同時にどこか狂気を孕んでいるようにも見えた。
この宿の人たちからすれば、俺たちはどこにでもいる、少し仲のいい夫婦という形に見えているのだろう。
この旅の間だけは、俺の本当の妻のポジションに座ることを何よりも欲している。
そんなカナの歪んだ執着心が、その一瞬の表情にすべて凝縮されている気がした。
「はい、わかりました。ありがとうございます」
カナは鈴を転がすような丁寧な声でスタッフに応え、完璧な「妻」の顔をして微笑んだ。
スタッフに案内されて部屋に入り、荷物を下ろすと、俺たちはどちらからともなく「とりあえず、そのあたりを少し散策してみようか」ということになった。
旅館を出て、温泉街の古い並木道を歩き出す。
いつも通っている薄暗いレストランの周りや、お互いの生活圏内であれば、知り合いの目を警戒して数歩分の距離を取って歩くのが俺たちの暗黙のルールだった。
だが、ここは誰も俺たちのことを知らない、遠く離れた西の街だ。
宿を一歩出た瞬間、カナはごく自然に、迷いのない動作で俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
驚いて一瞬カナの顔を見ると、彼女は誇らしげな笑顔で俺を見上げている。
腕に伝わる彼女の体温と、柔らかい感触。周りを行き交う観光客たちの目から見れば、俺たちはどこからどう見ても、平日の休みを利用して小旅行にやってきた、仲睦まじい普通の夫婦にしか見えないだろう。
街のルールに縛られず、白昼堂々と手を繋ぎ、腕を組んで歩く。
その事実に、カナは言葉にできないほどの解放感を覚えているようだった。
温泉街特有の、レトロな雰囲気を残したお土産屋や、少し奥まった場所にある小さな和風のカフェにふらりと入ってみる。
お土産屋の棚に並ぶ名産品を二人で覗き込んでいると、店員の年配の女性が、親しみやすい笑顔で俺たちに声をかけてきた。
「観光ですか? どちらからお越しになられたんですか?」
いつもなら一瞬言葉に詰まるような問いかけだが、カナの対応は驚くほど滑らかだった。
「あ、そうなんです。ちょっと遠くから、のんびり温泉に入りたくて来ちゃいました」
何気ない世間話を交わしながら、カナはごく自然に店員との会話をリードしていく。そのやり取りの端々から醸し出される空気があまりにも自然だったからだろう、店員の女性はしみじみとしたトーンで、羨ましそうにこう言った。
「まぁ、本当に仲の良いご夫婦で。羨ましいですね」
「ご夫婦」
フロントでの「奥様」に続き、またしても投げかけられたその言葉に、カナはあからさまにご機嫌になった。
「ふふ、ありがとうございます」
そう応じる彼女の横顔は、いつもの少し棘のある人妻のそれではなく、本当に大好きな夫に寄りそう若妻のような、無邪気な輝きを放っていた。
誰も自分たちの素性を知らない見知らぬ街。
そこでは、俺の苗字を名乗り、腕を組んで歩いていれば、100%の確率で「仲良し夫婦の旅行」として扱われる。
それが当然の現実として目の前に現れるたびに、カナの胸の中の承認欲求や独占欲が、これ以上ない形で満たされていくのが手に取るように分かった。
数日前、あの冷たい目で俺を脅したカナの言葉が、この幸福そうな笑顔の裏側に張り付いている。
この偽りの「夫婦ごっこ」にここまで悦に浸る彼女の熱量は、やはりどこか常軌を逸していて、底知れない執着を感じさせた。
けれど、俺の腕を強く抱きしめながら、本当に楽しそうに笑うカナを見つめていると、俺の側にも「まぁ、旅の間くらいは」という、甘い諦めのような感情が湧き上がってくるのだった。
散策を終えて宿に戻ると、待ちに待った夕食の時間がやってきた。
個室の食事処に運ばれてくるのは、その土地の旬の食材をふんだんに使った地元の美味しい料理の数々だった。
カナの好きな健康的な食材も美しく盛り付けられており、彼女の目を楽しませている。俺たちは料理に合わせて、宿のスタッフが勧めてくれた地酒を注文した。
すっきりとした口当たりの冷酒を互いのグラスに注ぎ合い、乾杯する。
「美味しい! やっぱりお水が良いところのお酒は違うね」
「あぁ、この料理にもよく合う」
美味しい食事と上質な地酒。日頃の喧騒から完全に切り離された空間で、俺たちの気分はまた一段と上機嫌になっていった。
終始笑顔の絶えない、これ以上ないほどに穏やかで幸福な時間が流れていた。
お腹も心も満たされて部屋に戻る。
今回、俺たちが選んだ部屋には、専用の客室露天風呂がついていた。
これまでに何度もホテルで一緒に風呂に入っている間柄だ。
今更お互いに恥ずかしがるような初々しさなんてない。
どちらからともなく服を脱ぎ捨て、湯煙が立ち上る露天風呂へと身体を沈めた。
「はぁ……最高」
心地いい湯加減に、カナが小さく吐息を漏らす。
夜の冷たい空気に当たりながら、二人で並んで温泉に浸かる時間は、たまらなく贅沢だった。
他愛のない世間話をしながら、ただただまったりとした時間が過ぎていく。
しばらくして、先に温まったカナが「私、先に出るね」と湯から上がっていった。
俺はそのまま一人、静かな夜の闇に包まれながら、露天風呂でもうしばらくまったりと湯を堪能することにした。
湯を独り占めしながら、ここまでのカナとの日々をぼんやりと振り返る。
十分に身体が温まったところで、俺も湯上がりに身体を拭き、浴衣を羽織って部屋へと戻った。
部屋の中には、すでに浴衣を着て髪を軽く乾かした、しっとりと色っぽいカナが待っていた。
俺たちは座敷に腰掛け、お酒を飲みながら、さっき食べた料理の話や、明日行く予定の観光地の話をして、穏やかな余韻を楽しんでいた。
すると、会話の途中でカナがふっと言葉を止め、悪戯っぽく微笑みながら立ち上がった。
「ねぇ……どうかな?」
手つきよく浴衣の帯をほどいたかと思うと、彼女は前をはだけ、そのまま浴衣を床へとストンと落とした。
足元に崩れ落ちた布地の中心に立っていたのは、見たこともないほどに綺麗なランジェリーを纏ったカナだった。
驚く俺の視線を一身に浴びながら、彼女は嬉しそうに、自慢の身体を誇るようにその場でくるっと一周回って見せた。
それは、明らかにこの夜のために用意された、繊細で妖艶な勝負下着だった。
いつもオーガニックだの健康だのと言っているカナが、服の裏側にはこんな男の独占欲を刺激するような、攻撃的でエロティックなディテールを仕込んでいた。
「どう? 似合ってる?」
少し上目遣いに、けれど自分の魅力を完全に理解している大人の余裕を含んだ笑みで、カナは俺の反応を楽しんでいた。
頭の先からつま先まで、隅々まで完璧に手入れされた彼女の身体と、ランジェリーのコントラストが、言葉を失うほどに綺麗だった。
俺が黙ってその艶やかな姿をじっと眺めていると、直前まで堂々と見せつけていたくせに、カナは急に恥ずかしくなったらしい。
「ちょっとー、見過ぎだよ!」
顔をほんのり赤く染めながら少し膨れっ面をして、カナは逃げるようにして敷かれた布団の中へと潜り込んでしまった。
その一連の仕草がまた、たまらなく愛おしかった。
俺もすぐに浴衣を脱ぎ捨て、彼女の待つ布団の中へと滑り込んだ。
そこからは、お互いの存在を確かめ合うように、夜が更けるまで何度も何度も身体を重ねた。
火照った身体を冷ますように、夜中にまた二人で客室の露天風呂に入り、またまったりとしてから布団に戻る。
そんな濃密で贅沢な営みを、貪るように繰り返した。
すべてのエネルギーを使い果たしたカナは、俺の腕の中で満ち足りた表情のまま、すやすやとぐっすり眠りについた。
寝息を立てるカナの寝顔を見つめながら、俺は一人、静かに起き上がった。 まだ暗い部屋の片隅で、残った地酒をグラスに注ぎ、一人で静かに口に含む。
静寂の中で、いろんな考えが頭を巡っていた。
これまではただの飲み友達、そして都合のいい大人の遊び相手、彼女のはずだった。
だが、この旅で俺の苗字を名乗り、「奥様」と呼ばれて恍惚の表情を浮かべたカナ。
俺を縛り付けるような冷酷な狂気を見せたかと思えば、今こうして無防備に眠っている。
(俺たち、これからどうなっていくんだろうな……)
引き返せないところまで足を踏み入れている自覚はあった。
けれど、この心地いい沼から抜け出そうという意思は、今の俺には微塵も湧いてこなかった。
俺も心地いい疲労感に包まれながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
次に気づいた時には、すでに朝の光景が部屋の中に広がっていた。
眩しさに薄く目を開けると、カナの寝ていた隣の布団はすでに空っぽだった。 体を起こして部屋を見渡すと、窓からの柔らかい朝光の中で、カナがすでに起きて鏡に向かっているのが見えた。
昨日「女の子はいろいろ必要なの」と言っていたあの大袈裟な荷物から、様々なスキンケア用品やメイク道具を引っ張り出し、真剣な表情で化粧をしている。
鏡越しに俺が目を覚ましたことに気づくと、カナはパッといつもの可愛い笑顔を咲かせた。
「あ、おはよう。よく眠れた?」
「あぁ、めちゃくちゃ爆睡したわ……。」
「ほら、早く起きないと美味しい朝ごはんの時間が終わっちゃうよ?」
髪を整え、完璧に「綺麗なカナ」へと戻っていく彼女の背中を眺めながら、俺は布団の中で少し伸びをした。
昨夜、何度も身体を重ね、温泉に浸かり、彼女の底知れない執着やこれからの関係について漠然と考えていたはずだった。
だが、朝の光の中で無邪気に微笑む彼女を見ていると、そんな重たい思考はどこかへ霧散してしまう。
ただただ、この贅沢な朝の時間が愛おしかった。
俺たちは少し遅めの朝食をとり、名残惜しそうに旅館をあとにした。 それから、昨日話し合って決めた地元のいくつかの観光地を車で巡った。
お土産を買い、景色を眺め、美味しいものを食べる。それは間違いなく、俺の人生の中で最も新婚旅行に近い、幸福な時間だった。
けれど、楽しい時間はいつか終わる。
夕方になり、車のナビの目的地をいつもの街へとセットした瞬間、車内の空気は少しずつ、けれど確実に変化していった。
迫りくる高速道路の案内板を見つめながら、俺たちはそれぞれの家庭、それぞれの日常という、冷徹な「現実世界」へと静かに戻っていくのだった。




