逆流する独占欲と歪む均衡
クリスマスという一大イベントをなんとか乗り越えたものの、その後にやってくる年末年始は、さすがにお互い家庭を持つ身として忙しく、会う頻度は自然と減っていった。
会えない時間は妙に長く感じられて寂しさはあったが、こればっかりは家庭優先という大人の暗黙のルールだ。仕方ないと自分に言い聞かせるしかなかった。
年が明けてしばらく経つ頃には、あの薄暗い「アンカー」の常連たちの間でも、わざわざ口には出さずとも「カナは恭介の彼女だろう」という空気が完全に出来上がっていた。
マスターの粋な計らいも含め、周囲にはなんとなく察されている。そんな心地いい周知の事実の中で、俺たちの関係は安定しているはずだった。
あの夜までは。
ある週末の夜、俺はいつものカウンターで、よく顔を合わせる後輩のタクヤと、同じく常連の女の子の三人で並んで座り、他愛のないバカ話で大いに盛り上がっていた。
その女の子は俺のすぐ隣に座っていて、お互いに酒が入っていることもあり、距離感近く楽しげに笑い合っていた。
途中でタクヤが「ちょっとトイレ行ってきます」と席を立った。
俺とその女の子の二人でそのまま楽しそうに話し込んでいた、まさにその瞬間だった。
店のドアが開き、カナが入ってきた。
こちらに気づいたカナと目が合った瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
カナの表情が、明らかにいつもと違っていたのだ。
完全に笑顔が消え、見たこともないような冷徹な顔でこちらを凝視している。
俺からすれば、普段からよく店で会う女友達と普通に喋っているだけのお馴染みの光景だ。
やましいことなんて何一つない。だが、カナの受け止め方は違ったらしい。
トイレから出てきたタクヤが、俺たちの席に戻る途中で、入ってきたばかりのカナにガシッと捕まえられた。
「あ、カナさん、こんばんはー」と能天気に挨拶するタクヤに対し、カナは挨拶もそこそこに、鋭い口調で詰め寄っているのが遠目にも分かった。
二人の会話の細かい内容まではこちらの雑音でよく聞こえない。
だが、カナがタクヤを完全にロックオンして、厳しい表情で問い詰めているのは一目然だった。後からタクヤに聞いた話だと、この時カナは「あの人誰なの? 恭介さんとどういう関係?」と、かなりの剣幕でタクヤに詰め寄っていたらしい。
俺の隣に座っている女の子は、そんなカナの視線に気づきながらも、「あ、彼女さん来たみたいよ」と、特に悪びれる様子もなく普通に大人の対応をしている。
取り乱しているのはカナだけだった。
カナはタクヤを睨みつけながら、さらに何かを言っている。そのただならぬ空気に気圧されたのか、タクヤとその女の子は、俺たちに気を使って
「じゃあ、俺たちあっちのテーブル移動しますね」と、そそくさと別の場所に席を移していった。
静まり返った俺の隣の席に、カナが音を立てるようにして座ってきた。
開口一番、彼女は横を向いたまま、嫌味たっぷりのトーンで低く呟いた。
「楽しそうでいいね」
「……いや、普通に喋ってただけだろ」
俺が努めて冷静に返しても、今のカナには一切耳に届かないようだった。彼女は目の前のグラスを一気に煽ると、冷え切った声で言った。
「私、もう帰るね」
そう言うと、入ってきたばかりだというのに、さっさと荷物をまとめて店を出て行ってしまった。
あまりにも理不尽でめんどくさい態度に、俺は呆れてしまい、後を追う気すら起きなかった。
だが、俺の胸の中にあったのは、単なる「めんどくささ」だけではなかった。
フツフツと湧き上がってきたのは、激しい苛立ちだ。
そりゃあヤキモチを焼くのは勝手だし、俺に文句を言ってくるならまだ分かる。だが、あいつが八つ当たり気味に詰め寄ったタクヤは、あくまで『俺の後輩』であって、カナの後輩でも何でもない。
(俺の後輩に、何お前の身内みたいな顔して偉そうな態度取ってんだよ……!)
自分のナワバリというか、大切にしている男同士の関係性に、カナが「彼女面」をして傲慢に踏み込んできたことが、俺のプライドを激しく逆撫した。
俺の後輩に変な気を遣わせるんじゃねぇ、という怒りが収まらなかった。
案の定、深夜になってから、スマホにカナから長文のメッセージが送られてきた。画面をスクロールしなければ読めないほどの愚痴のオンパレードだ。
『他の女の人がいいなら、その子と仲良くすればいいじゃない』
『私と一緒にいるより楽しそうだったね』
そんな文面を見つめながら、俺は冷めきった目でため息をついた。あんなに可愛くて物分かりのいい人妻だと思っていたカナの裏側にあった、底知れない独占欲の狂気に触れた気がした。
それから数日の間、俺たちの間には、凍りつくような冷たい空気が流れ続けることになる。
数日後、カナから短いメッセージが届いた。
『夕食食べに行こうよ』
一時の感情が爆発しただけで、さすがに数日経ってほとぼりも冷めたのだろう。そう思った俺は、これ以上揉めるのも馬鹿馬鹿しいので、普通に戻ったつもりで彼女と食事に出かけた。
だが、俺の考えはあまりにも甘かった。カナはまだ、あの夜のことを奥深くでしっかりと根に持っていたのだ。
薄暗い店のテーブル席で、運ばれてきた料理を口に運びながらも、カナの口から出るのは棘のある言葉ばかりだった。
「恭介さんって、やっぱりチャラい感じは治らないんだね」
「だから、ただの常連同士で喋ってただけだって」
「ふーん……。私のこと都合の良い女だと思ってるなら、私もそういう感じで付き合っていくね?」
そう言って、カナは綺麗に口角を上げて笑ったのだ。 目は一切笑っていない。ただ形だけ作った歪な笑顔のまま、彼女は淡々と、しかし確実に俺の逃げ場を無くすような言葉を繋げた。
「私ね、恭介さんが他の女の人と仲良くするなら、別にそれでもいいよ? その代わり、私もこれから他の男の人とたくさん遊んだりするけど、文句は言わないでね。お互い自由でいいじゃない? そのほうが楽でしょ」
背筋に、今まで感じたことのないような冷たい戦慄が走った。
「あなたが裏切るなら、私も他で自由に男を作る」という、冷徹な等価交換の提示だった。
笑顔でサラリと「浮気するよ?」と脅しをかけてくるその割り切り方。俺が他の女と喋るだけで、そこまで冷酷なディールを持ちかけてくる執念深さに、本能的な恐怖を感じずにはいられなかった。
(……こいつ、ヤバいかもしれない)
脳裏に「メンヘラ」という言葉が強烈に浮かんだ。
だが、感情的に泣き叫ぶような小娘のメンヘラとはワケが違う。男が一番プライドを傷つけられ、独占欲を狂わされるポイントを完全に理解した上で、それを笑顔で人質に取っている人妻の狂気だ。
これまでは俺がどこか余裕を持ってチャラく構え、パワーバランスは俺の上にあると思っていた。だが、その均衡が音を立てて崩れていく。
カナの機嫌を損ねないように、必死で言葉を選び、なだめて、機嫌を取る。
その一連の作業の中で、俺は主導権を完全に握られかけていることを自覚した。
カナは一通り、胸の中に溜まっていた愚痴や嫌味を吐き出すと、毒が抜けたように少しずつ落ち着きを取り戻していった。
男をギリギリまで追い詰めた後、スッと引く。そのコントロールの仕方も、どこか恐ろしかった。
冷え切った空気を変えるために、俺は切り札を口にした。
「……今度どこか旅行でも行こうよ」
その一言が、カナの表情を劇的に変えた。さっきまでの冷酷な狂気はどこへやら、彼女の瞳は一瞬でパッと輝き、あからさまに上機嫌になったのだ。
「本当!? 行く行く!」
「あぁ。どこかゆっくりできる温泉地でも探そう」
お互いにスマホを引っ張り出し、ネットで温泉宿の情報を探し始めると、お互い正気を取り戻してきた。
「ここ凄く綺麗! 恭介さん、ここ行きたい!」
「お、いいじゃん。飯も美味そうだな」
行き先が決まる頃には、カナはいつもの愛らしくて、俺に甘えてくる可愛い彼女の顔に完全に逆戻りしていた。
目の前で無邪気に笑うカナを見つめながら、俺は安堵すると同時に、強烈な違和感を拭えずにいた。
この女は、可愛いだけの存在じゃない。自分の思い通りにならなければ、いつでも牙を剥く恐ろしい狂気を孕んでいる。
喉元を過ぎれば熱さを忘れると言うが、俺の胸に刻まれたあの冷たい視線の恐怖は、消えることはなかった。
それでも、俺は彼女との旅行を心待ちにしている。
バランスが崩れ、主導権を握られかけていると分かっていながらも、俺はさらに深く、カナという沼の奥底へと引きずり込まれていくのだった。




