決着
休日の午後、まったりとした時間が流れるリビングで、カナのスマホが短く震えた。
画面を確認したカナの手が、ぴたりと止まる。
「……決まった」
ぽつりと漏れ出た声に、俺はコーヒーカップを置いた。カナはずっと、前夫との離婚調停の渦中にいた。それが今日、正式に成立したという弁護士からの連絡だった。
「そっか……終わったんだな」
「うん……」
膝の上でスマホを握りしめるカナの表情は、どこか複雑だった。長かった話し合いから解放された「嬉しさ」と、一つの人生の形が完全に終わってしまったという「悲しさ」。色々な感情が交差して、整理がつかないようだった。
「……なんか、変な感じ。清々しいはずなのに、ちょっと寂しい気もして」
「そりゃそうだろ。いろいろあったんだから」
俺はカナの肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。カナは俺の胸に顔をうずめ、小さく安堵の息を吐き出した。
「いろいろありがと……ほんとよかった」
俺の体温を確かめるように強くしがみついてくるカナ。
「……まあ、俺たちの生活は何も変わらないけどな」
俺がそう言って微笑むと、カナは胸から顔を上げ、少し赤くなった目で俺をじっと見つめ返してきた。
「そうだね。今まで通り……ううん、これからもよろしくね」
少し照れくさそうに、でもどこか吹っ切れたような晴れやかな笑顔。
「あぁ、こちらこそ」
俺が頷くと、カナは安心したように大きく息を吐き、俺の手に自分の手を重ねてギュッと握りしめてきた。
正式に離婚が成立したからといって、明日から急に二人の関係やこの部屋の風景が変わるわけじゃない。ただ、カナを縛り付けていた過去の鎖がひとつ外れ、二人の時間がほんの少しだけ前に進んだのは確かだった。
恭介はふと思い立って声をかけた。
「なにかお祝いする? ……お祝いってのも変だけど」
「うんうん!」
カナは顔を輝かせ、何度も大きく頷く。
「じゃあ、飯でも食べに行こうか」
「やったー!」
ソファから跳ね起きるように立ち上がり、嬉しそうに手を叩くカナ。
「何が食べたい?」
「えー、うーん……カレー!」
「え? お祝いでカレーかよ……」
思わず拍子抜けしてツッコミを入れたが、カナは譲らないといった様子で胸を張った。
「今はカレーが食べたいの!」
「いや、カレーでもいいけど……。じゃあ、行こうか」
「うん! すぐ準備する!」
豪勢なディナーでもなく、普通のカレー。そんな気取らないチョイスが、どこかカナらしくて笑えてくる。パタパタと部屋の奥へ着替えに向かう彼女の背中を見送りながら、俺も上着を手に取った。
すっかり陽の落ちた街を二人で歩き、近所のチェーン店のカレー屋さんに入る。カウンターとテーブルが少しあるだけの、見慣れた店内だ。
「私、カツカレー!」
メニューを開く間もなく、カナが元気に店員さんに声を張る。
「じゃあ、俺も同じのを」
運ばれてきた熱々のカツカレーを前に、二人でスプーンを握る。
特に会話もなく、ただ並んで黙々とカレーを口に運ぶ時間。サクサクのカツとスパイシーなルーの香りが口いっぱいに広がり、一心不乱に食を進めた。
「ふぅー、食った食った。暑いな……」
おでこの汗を拭いながら俺が息を吐くと、カナも満足そうにスプーンを置いた。
「うん、お腹いっぱい!」
「ほんとにこれでいいの? お祝いなのに」
水で口を潤しながら尋ねる俺に、カナは心底嬉しそうな笑顔を向けた。
「うん、美味しかった!」
「……そっか。じゃあ、シャンパンか何か買って帰ろう」
「うん、いいね!」
少し先にある酒屋へ向かう。店内に入り、二人でワインセラーの棚を覗き込んだ。
特別高価なヴィンテージではなく、手頃な値段のシャンパンを一本。それと、チーズや生ハムといった軽い生珍味のつまみをいくつかカゴに入れた。
「よし、これでバッチリだね」
「おう。冷えてるうちに帰るぞ」
会計を済ませ、袋を下げて夜道を並んで歩く。
街灯が静かに照らす夜道、肩が触れ合うくらいの距離感で、二人の足音が心地よく重なる。離婚調停が終わり、カナを縛っていた過去がひとつ消えた。だけど、大騒ぎするわけでもなく、いつもと変わらない歩調でこうして二人で歩いている。
豪華なレストランや特別なロケーションじゃなくていい。
こういう素朴な時間が、一番大切なんだ。
テーブルの上にグラスを二つ並べ、俺は瓶の口に手をかけた。
「……おめでとう、 で、いいのか……?」
「うんうん!」
カナは嬉しそうに頷き、両手を合わせてこちらの様子を見つめている。
「じゃあ……おめでとう!」
ポーン!
心地よい音とともにコルクが抜け、香ばしい葡萄の香りがふわりと広がった。グラスにトクトクと注ぐと、シュワシュワーッと細かな泡が弾ける。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯!」
カチンとグラスを鳴らし、泡を口に含む。
「っあーー、美味しい!」
カナは喉を鳴らして飲み干すと、満足そうに息を吐いた。
「これこれ! カレーの後のシュワシュワ、最高!」
「カレーの後にシャンパン飲む奴、あんまいないと思うけどな」
俺が苦笑いしながらグラスを傾けると、カナは「美味しいんだからいいの!」と無邪気に笑った。どこにでもある小さな部屋で、手頃なシャンパンの泡が弾ける。カナの表情から少しずつ肩の力が抜けていくのを、俺は優しく見守っていた。
グラスを傾けながら、俺はふと部屋を見回して呟いた。
「……なんか地味なお祝いじゃないか?」
「そう? これくらいがいいんだよ」
カナは嬉しそうにグラスを揺らし、フフッと微笑む。
「あ、酔う前にお風呂入ろう。先入ってくるわ」
「うん、いってらっしゃい〜」
俺はさっさと自分のお風呂を済ませた。続いてカナが浴室へと向かい、パタリとドアが閉まる。
(……せっかくだからな)
俺は棚からいくつかのアロマキャンドルを取り出し、テーブルや棚の上に並べて火をつけた。リビングの電気を消すと、揺らめく橙色の灯りが部屋を静かに包み込む。さらにスマホを操作し、小さな音量でメロウなR&Bを流した。
しばらくして、カチャリと浴室のドアが開き、カナが出てきた。
「わ! なに……!?」
暗くなった部屋とキャンドルの光に、カナは驚いて目を丸くする。
「せっかくだから」
「ふふ、なんかムーディーだね! ……あ、ちょっと待ってて」
カナは何かを思いついたように悪戯っぽく笑うと、パタパタと寝室へ消えていった。
数分後、扉が開く。
「お待たせ〜」
現れたカナの姿に、俺は思わず息を呑んだ。
いつものスウェットではなく、胸元が深く開いた際どい色気ムンムンのキャミソール。薄い生地越しに身体のラインが浮き出ていて、キャンドルの光に濡れた肌が艶めいている。
「せっかくだからねw」
ニヤニヤしながら俺の反応を楽しむように、カナはゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
目の前の艶やかな姿に視線を奪われながらも、俺はテーブルの上のグラスを持ち上げた。
「じゃあ……もう1度、乾杯」
「乾杯」
カチンと小さなガラスの音が響く。
キャンドルの炎がゆらゆらと揺れ、カナのなめらかな肩や胸元のラインを艶っぽく浮かび上がらせていた。BGMの低いベース音が静かに部屋の空気を震わせている。
さっきまでのカレー屋での空気とはまるで違う、ムード200%の空間。
(……これはこれで、くだらないバカ話ができない雰囲気だな)
密やかな熱が二人の間に漂い始めていた。
「なに? じっと見ちゃって……」
カナはグラスを傾けながら、上目遣いに俺の顔を覗き込んでくる。その瞳には、キャンドルの小さな灯りが妖しく映り込んでいた。
「相変わらず綺麗だなと思って」
俺が素直にそう口にすると、カナは満足そうに口元をほころばせた。
「うふふ、やっぱり?」
グラスをくるくると回しながら、カナは少し自慢げに顎を上げて微笑む。
「なんだよ……やる気満々じゃんか」
俺がニヤニヤしながら視線を送ると、カナは「えー?」と不満そうに口を尖らせた。
「やる気満々とか言わないでよ! 急にこんなムーディーな雰囲気作っといて何言ってんのよ」
「いや、キャンドル点けただけで速攻でその勝負服着て出てくるとは思わないだろ」
「勝負服じゃないってば! せっかく乗ってあげたのに!」
「勝負服あるの? あ、勝負下着か?」
俺がニヤつきながら尋ねると、カナは顎に指を当てて少し考え込む仕草を見せた。
「うーん、こういうのはどれも勝負下着だからなぁ」
「その中でも、勝負の時のナンバーワンがあるだろ?」
「うーん……うん、ちょっと待ってて!」
そう言って、カナは再びパタパタと寝室へ駆け込んでいった。
しばらくして戻ってきたカナ。薄暗い部屋の中で浮き上がるのは、真っ黒なレースで作られた、身体のラインが丸見えになる透け透けのランジェリー。
「……これかな?」
カナは少し照れくさそうに、裾を両手でつまんでみせた。
「へー……今までそれ、着たことあるのか?」
「え……」
恭介の低く冷めた声に、カナの表情がぴきりと固まる。
「少なくとも俺は見たことないが。着たことはあるのか?」
「え……う、うん……」
動揺を隠しきれず、視線を泳がせるカナ。元夫との過去の記憶が、黒いレース越しに生々しく目の前に突きつけられた気がした。俺の喉の奥から、冷たい言葉が漏れ出る。
「……すぐ脱いでこいよ」
さっきの際どいキャミソールに着替え直してきたカナが、どこか縮こまりながら寝室から出てきた。
「ごめんね……」
消え入るような声で頭を下げるカナを見て、俺は自分の短気さを反省し、息を軽く吐き出した。
「いや、いいんだ。こっちこそ悪かったな」
「もうあれは二度と着ないから……」
真剣な目でそう訴えかけてくるカナの頭を、俺はぽんぽんと優しく撫でた。
「気にすることない。……なんか重くなったな。飲もうぜ」
「う、うん!」
気まずい雰囲気を払拭するように俺がグラスを持ち上げると、カナはパッと表情を明るくし、慌てて自分のグラスを手に取った。
カチンとグラスを鳴らし、再びシュワシュワと弾ける泡を飲み込む。冷たいシャンパンが喉を通り過ぎると同時に、先ほど部屋を支配していた刺々しい空気が消えていく。
「……元旦那のこと、引きずってるのか……?」
グラスを回しながら俺がぽつりと呟くと、カナは目を丸くして手をブンブンと振った。
「ちょっと、やめてよー! そんなわけないでしょ!?」
「そっか」
「どうして急にそんなこと聞くの?」
少し悲しそうな、でも本気で嫌がるような顔で俺を見つめてくる。
「いや、ちょっと聞いてみたかっただけ」
「もう、そういう話はやめて」
「ごめんごめん」
俺は素直に手を挙げて謝った。カナの言葉に嘘がないことは、その必死な表情を見れば痛いほど伝わってきた。元夫への未練なんかじゃなく、ただ単に持っていた下着を深く考えずに出てきただけなのだ。
カナがすっと身を寄せ、いつもの特等席である俺の膝の上に腰を下ろした。
キャンドルの柔らかな光が、彼女の華奢な背中や首筋をほのかに照らし出している。俺は静かに手を伸ばし、彼女が着ているキャミソールの両方の肩紐を指先で滑らせるようにして、ゆっくりと肩からずらした。
すり抜けた生地が胸の下まで落ち、しなやかな胸が露わになる。
けれど、カナは自分の身体を隠そうともせず、まっすぐな瞳で俺の顔を見つめたままだった。そこには羞恥心よりも、俺に対する強い愛おしさと安心感が満ちていた。
「ふふ……」
カナは小さく笑うと、首元に両手を回し、そのまま俺の首筋に顔をうずめるようにしてギュッと抱きしめてきた。
肌と肌が密着し、お風呂上がりの甘い香りと柔らかな温もりがダイレクトに伝わってくる。黒いレースのことで少しだけ生じた気まずさも、いま俺の腕の中にいる彼女の体温が綺麗に溶かしていくようだった。
抱きしめ返した俺の手が、露わになったカナの背中や胸元を優しく撫で上げていく。彼女は小さく吐息を漏らしながら、俺の肩口にそっと唇を寄せ、愛を確かめるように何度も小さなキスを重ねてきた。キャンドルの揺らめく灯りの中、静かなBGMに重なるように、ふたりの呼吸が少しずつ熱を帯びて深まっていく。




