旧友
一緒に住み始めてからというもの、家で二人で飲む機会が自然と増え、夜の街へ飲みに出かける頻度はすっかり減っていた。
「久々にアンカー行くか」
休日の夕方、そう声をかけると、カナは「本当!? 行く行く!」と大はしゃぎで服を選び始めた。
久しぶりに二人でおしゃれをして、夜の風を感じながら並んで歩く。家での晩酌も落ち着いていて好きだが、こうして外へ繰り出す特別な高揚感に、カナは始終ご機嫌で嬉しそうに俺の腕に抱きついてきていた。
懐かしい雑居ビルの階段を上がり、馴染みの重厚な扉を開ける。
カラン、と涼やかなベルの音が店内に響いた。
「お、久しぶりですね」
カウンターの奥から、マスターがいつもの穏やかな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「ご無沙汰してます。最近、全然飲みに出てなくて」
俺たちがカウンターの席につくと、マスターはカクテルグラスを磨きながら「お忙しかったんですか?」と尋ねてきた。
「いや、一緒に住むようになってね」
俺がそう明かすと、マスターは目を見細め、「あぁ、それは良かったですね」と嬉しそうに頷いた。そして、手元を動かしながら楽しそうに言葉を重ねる。
「もう夫婦みたいなもんじゃないですか」
「そうなんですよー!」
待ってましたと言わんばかりに、カナが満面の笑みで同意した。そのあまりにも素直なリアクションに、マスターは「ははは、カナちゃんは相変わらずですね」と優しく目を細めて微笑んだ。
上機嫌に話すカナの横顔を見ながら、俺はふと思い出したようにグラスに手を伸ばした。
「あ、そういえばさ……来週から1週間、関西に出張になった」
「えっ……1週間!?」
カナの笑顔が一瞬でフリーズした。
「聞いてないんだけど! 1週間も? 1人だと寂しいなぁ……」
わかりやすくショックを受け、しゅんと肩を落とすカナ。そんなカナを「まあまあ」となだめながら、しばらく酒を酌み交わした。
やがて、「ちょっとトイレ」とカナが席を立った。
カナの姿が奥の通路へ消えたのを確認すると、マスターがニヤニヤと笑みを浮かべながら、グラスを拭く手を止めてこちらに顔を寄せてきた。
「土日も仕事なんですか?」
「……そこは、マスター……へへへ」
俺がニヤリと笑ってグラスを傾けると、マスターはすべてを察したように「くすっ」と喉を鳴らした。
本当は、平日5日間の仕事と講習で用事はすべて終わる。だが、久しぶりの1人時間を満喫し、土日に羽を伸ばして大阪や京都で美味いものでも食って帰ってこようという俺の企みだった。
「相変わらず要領がいいですね。カナちゃんには内緒にしておきますよ」
「助かります。たまには羽伸ばしてこないとね」
男同士の悪だくみを終え、何事もなかったかのような顔でグラスを傾けていると、トイレから戻ってきたカナが「なに二人でニヤニヤしてんの?」と不審そうに首をかしげていた。
◇
1週間の関西出張へ向かう日の朝。玄関でスーツケースを片手に靴を履く俺の横で、カナが腕を組んでこちらを覗き込んできた。
「あっちで変なことしないでよ?」
口を少し尖らせて言ってくるカナに、俺は苦笑しながら鍵をポケットに突っ込んだ。
「それはお互い様だろ。俺がいないからって羽伸ばしすぎるなよ」
「えへへへ……」
そう返すと、カナはどこか企んでいるような、からかうような意味ありげな笑みを浮かべた。その絶妙に思わせぶりな表情に、俺は少し眉をひそめ、声を低くする。
「おい」
「わ、わかってるよ! するわけないでしょ!」
本気のトーンを察したカナは、慌てて手を振りながら焦って否定した。その分かりやすい反応に、俺も呆れつつ表情を緩める。
「じゃあ、行ってくる」
「うん、いってらっしゃい!」
カナの笑顔に見送られ、俺は自宅の扉を閉めた。
◇
新幹線に揺られて大阪に入り、駅近くのビジネスホテルにチェックインを済ませる。
月曜から金曜までの5日間、昼は指定された会場でぎっしり詰まった講習を受け、残りの時間は出張の業務を黙々とこなした。打ち合わせの相手も、ホテルのフロントも、入ったうどん屋の店員も、周りの人間が全員コテコテの関西弁な環境には地味に最後まで戸惑ったが、仕事自体は順調そのものだった。
そして毎晩、ホテルに戻ってひと息ついたタイミングで、必ずカナから連絡が入った。
『今日のご飯何食べたー?』 『恭介さんいないとベッド広すぎて寂しいよー』
画面に表示されるカナからの甘えたメッセージに、「今日は定食食べたよ」「こっちも仕事忙しくてさ、もう倒れそうだから今夜は寝るね」と、怪しまれないようそつなく返信を重ねていく。罪悪感がまったく無いと言えば嘘になるが、俺にはこの週末に向けた「密かな計画」があったのだ。
金曜の夕方、すべての業務と講習が無事に終了した。
ビジネスホテルの部屋に戻り、ネクタイを乱暴にゆるめてベッドへ倒れ込む。スマホの画面を開き、すでに水面下で連絡を取り合っていた大学時代の友人とのメッセージを確認した。予定通り、今夜の待ち合わせは決まっている。本当は仕事なんて今日で全部終わりなのだ。
(よし、ここからが本番だ……!)
一人で羽を伸ばす、最高の週末が始まろうとしていた。
◇
金曜の夜、熱気と喧騒に包まれた梅田の歓楽街。指定された待ち合わせ場所に立ち、通りを行き交う人々を眺めていると、背後から雑踏を切り裂くような威勢の良い大声が飛んできた。
「恭介!」
振り返ると、そこには大学時代と何も変わらない派手なシャツを着たジンの姿があった。
「おー! 恭介、元気にしてたか? ほんま久しぶりやなぁ!」
ジンはコテコテの関西弁で嬉しそうに破顔すると、俺の肩を壊さんばかりの力でバシバシと叩いてきた。
「相変わらずシュッとして変わらんなぁ。仕事全部終わったんか? 今日は遠慮せんとガッツリ飲むで!」
「おう、ジンも元気そうだな。ほんと何年ぶりだ? 」
「コウタとテツも呼んでるから、仕事終わり次第すぐ来るわ。あいつらも恭介に会いたがっとったで」
「そうか、みんな変わってないのかな。楽しみだな」
懐かしさに目を細める俺の反応を見て、ジンはニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
「んでな、あいつも呼んでるから」
「誰だよ?」
「まぁまぁ、来たら分かるって。お楽しみや」
ジンはそれ以上何も明かそうとせず、「立ち話もなんやし、先入っとこうや」と予約していた居酒屋の暖簾をくぐっていった。
賑やかな居酒屋の奥にある座敷に通され、ジンと二人でまずは生ビールで乾杯した。お互いの近況や大学時代のバカ話で場が温まり、2杯目のグラスが空になりかけた頃、個室の引き戸がガラガラと開いた。
「おぉ、恭介! 久しぶりやんけ!」
入ってきたのはコウタとテツだった。「全然変わってねぇな!」「遠くまでお疲れ!」と固い握手を交わす。だが、テンションの上がる俺の視線は、彼らのすぐ後ろから静かに続いて入ってきた二人組の女性に釘付けになった。
その顔を認識した瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。
(……ナナミ?)
そこにいたのは、大学時代に1年ほど付き合っていた元カノのナナミだった。そしてその隣にいるのは、彼女の親友であるリホ。
だが、俺の焦りの理由はただの「元カノとの再会」ではなかった。当時、俺はナナミと付き合っている最中に、その親友であるリホとも一度だけ内緒で関係を持った過去があったのだ。誰にも言っていない、完全に墓場まで持っていく秘密。
「こんばんは、久しぶりやね」
落ち着いた関西弁で挨拶をする二人。俺は背中に一気に嫌な汗が吹き出すのを感じながら、思わずジンの顔を睨みつけた。
ジンは悪びれる様子もなく、「へへへ」と意地悪くニヤニヤ笑っていた。
「狭いから詰めて座れよー。ほら、ナナミは恭介の隣に座りぃな」
ジンがわざとらしく席を促す。ここで拒むのも不自然すぎるため、ナナミは少し照れたような笑みを浮かべながら、俺のすぐ隣に腰を下ろした。少し遅れてリホもテツの隣に座り、俺の方へチラリと意味深な視線を送ってきたが、すぐに何事もなかったかのように目を逸らした。
「恭介、ほんま久しぶりやなぁ」
隣から、昔と変わらない少し甘い関西弁が届く。
「……久しぶり。元気だった?」
俺がぎこちなく返すと、ナナミはジーッと俺の横顔を覗き込むように見つめ、ふふっと楽しそうに笑った。
「久しぶりやけど……相変わらずかっこええなぁ」
隣に座ったナナミは相変わらず喋り好きで、「最近どうなん?」「仕事忙しいん?」と次々に言葉を投げかけてくる。昔と変わらない屈託のない笑顔と弾んだ関西弁に当たり障りなく合わせながらも、俺の意識はどうしてもナナミの向こう側――斜め前に座るリホに向いていた。
大学時代、俺が本当に惹かれていたのは、実はナナミではなく親友のリホの方だった。
清楚な顔立ちとは裏腹に、リホは昔からいわゆる「爆乳」と呼ばれる抜群のスタイルを誇っていた。そして一度だけ、ナナミに内緒で二人きりになり、あの一線を越えてしまった夜の触感と背徳感は、今でも俺の記憶の底に強く焼き付いている。
周りを見渡せば、ジンもコウタもテツも、久々の再会に酒が進んですっかり出来上がっていた。
「なぁナナミ! こっちの昔話も混ざりぃな!」 「えー、なんの話ー?」
ジンたちに大声で呼ばれたナナミが「ちょっとごめんね」と笑って席を立ち、向こうの席へと移動していった。
ぽっかりと空いた俺の隣。そこに、すっと静かな気配が滑り込んできた。
リホだった。
「元気にしてた……?」
グラスを手にしたリホが、少し首をかしげながら俺を見つめてくる。おっとりとした、どこか胸に染み込むような柔らかい関西弁だ。
「うん、まぁなんとか。リホは?」
「うちも、まぁ元気にやってたで」
そう言ってふんわり微笑むリホの手元に目をやった瞬間、俺の視線は止まった。彼女の左手薬指には、小さく光るシンプルなリングが嵌められていた。
「結婚したのか?」
「うん……。もう、うちかて何歳思てるのよ」
リホは少し可笑しそうにクスッと笑った。時の流れを突きつけられたような気分になりながらも、俺は手元のグラスを弄んだ。
「……恭介は?」
「俺も、まぁ……してるっちゃしてる」
リホは「そっかぁ……」と小さく頷き、俺の顔を覗き込んだ。
「今は、地元に住んでるのか?」
「ううん、ここから車で1時間ぐらいのとこ」
「……車? でもリホ、さっきから普通にお酒飲んでるじゃん」
俺が突っ込むと、リホは少しだけ声を落としそっと呟いた。
「うん……。今日はなぁ、こっちに泊まるねん」
おっとりとしたリホの雰囲気に呑まれかけていた俺だったが、彼女が発した「こっちに泊まる」という言葉が、頭の中で鋭くリフレインしていた。
自分でも驚くほど、胸の奥でくすぶっていた何かが急速に熱を帯びていくのを感じる。久々の自由、お酒の勢い、そして何より昔からずっと惹かれていたリホが、今目の前にいる。
俺は手元のグラスを軽く揺らし、隣のリホへ視線を向けた。
「これ、何時まで飲むんだろうな」
リホはグラスに口をつけ、どこかのんびりとした調子で呟いた。
「さぁ……どうやろなぁ。」
「……この後、二人で飲みに行こう」
まっすぐに目を見て告げた俺の言葉に、リホは少し目を見開き、それから「ふふっ」と困ったように笑った。
「え? うち、結婚してるんよ?」
「うん、さっき聞いたよ」
「……それに、ナナミかておるんよ?」
リホの問いかけには、明確な拒絶の色はなかった。どこか俺の様子を伺うような、試すような揺れが含まれている。俺は逃がさないようにリホの目をじっと見つめ返し、低く確かな声を滑り込ませた。
「俺は、リホと飲みたいんだよ」
その直球の攻勢に、リホは少しだけ息を飲み、一瞬言葉を詰まらせた。
騒がしい居酒屋の店内。向こうの席ではジンたちが大声で笑い合い、ナナミも一緒になって昔話で盛り上がっている。その喧騒を遠くに感じながら、俺はテーブルの下でスマホを取り出した。
「LINE教えてよ」
リホは一瞬躊躇するように俺の顔を見たが、どこか諦めたような溜め息をひとつ吐くと、自分のスマホをかざした。
ピピッ、と静かな電子音が二人の間で鳴る。
「……もう。困るやんか」
画面に俺のアイコンが追加されたのを確認しながら、リホはおっとりとした声で、困ったように眉を下げた。
「交換してるじゃんか」
「……ほんま、相変わらずわがままやわ」
スマホを胸元に収め、呆れたように微笑むリホ。そんな彼女の隙を見逃さず、俺は少し顔を近づけて不敵に笑ってみせた。
「そういうとこが俺の魅力だろ?」
「……なんでやねん」
リホはパシッと俺の腕を軽く叩き、照れ隠しのように顔を背けた。だが、拒むような素振りを見せながらも、彼女の頬は朱に染まり、一度交わしてしまった秘密の空気は、確実に二人を包み込み始めていた。
二人の間で静かに熱を帯びていた空気を切り裂くように、座敷の奥から大声が飛んできた。
「恭介! 恭介ー!」
ジンが真っ赤な顔でビールジョッキを掲げながら、こちらを指さして叫んでいる。
「ナナミも! ちょっとこっち来いって!」
ジンたちの呼びかけに、ナナミが「はいはい、なんやのー?」と立ち上がり、俺とリホのいるテーブルの方へとやってきた。ジンはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、酒の勢いに任せてズカズカと踏み込んできた。
「お前ら二人、結局なんで別れたん?」
関西人らしい容赦も遠慮もないストレートな質問に、周囲のコウタとテツも「あー、それ俺も気になってた!」「なんで別れたん?」と身を乗り出してくる。
俺は苦笑いを浮かべながら、手元のグラスを弄んで誤魔化した。
「は? もう忘れたよ。なんでだったかな……」
「うちはちゃんと覚えてるで」
ナナミが腕を組んで、ふふんと胸を張った。
「うちが振られたんよ」
その瞬間、男性陣から一斉に爆音が上がった。
「うわぁぁぁ! 最悪やな恭介!」「おい恭介ー!」「ナナミちゃん振るとか正気か!?」と、ジンを筆頭に容赦ないブーイングの嵐が巻き起こる。コウタも「なんでなん? なんで振ったん?」と興味津々で目を輝かせている。
「……俺、そんなことしたか?」
あまりの集中砲火に首をかしげる俺を見て、ナナミは腹を抱えて笑った。
「ほんまに覚えてないん? 嘘やろ、最低やん(笑)」
バカ騒ぎするみんなの輪の中で笑いながらも、俺はふと隣に目をやった。リホは騒ぎから少し身を引くようにして、おっとりとした笑みを浮かべながら静かに酒を口に含んでいた。
「ほんまに覚えてないんやったら、うちが思い出させてあげるわ」
ナナミはニヤニヤしながら、居酒屋の全員に聞こえるような大声で言い放った。
「恭介がな、当時のサークルの1つ下の女の子とやたら仲良くしててん。で、うちが『うちとその子、どっち選ぶん?』って問い詰めたら……恭介、あっさりその子のほうに行きおったんよ。最悪やろ?」
その瞬間、ジンとコウタが「あぁー……」と声を揃えて顔を見合わせた。
「あの子か……!」「あー、おったおった、あのかわいい子な!」と、当時の記憶が繋がった二人は一瞬で察した顔になり、次の瞬間には爆笑しながら俺を指さした。
「おい恭介! お前ほんま最低だな!」「ナナミちゃんを差し置いてそっち行ったんか!」「罰として飲め! 一気! 一気!」
ジンが容赦なくジョッキになみなみと酒を注ぎ足してくる。俺は額を押さえながら、必死に弁明した。
「おい待てって! 若い頃の話だろ! もう十何年も前の話じゃねぇか!」
「十何年前でも最低なのは最低やで! ほんま、信じられへんやろ!?」
ナナミがみんなに同意を求めながら、「ほんまありえへんわー」と面白がって笑っている。男連中に取り囲まれ、俺が観念してジョッキの酒を煽るハメになる。
一方的に責め立てられ、酒をあおらされた俺は、グラスをテーブルにドスンと置くと、ニヤリと口角を上げた。ただでやられるつもりはない。
「おいおい、俺ばっかり悪者にするなよ。……そういえばジンだって、当時ナナミのこと好きだったよな?」
その場の空気が一瞬で凍りつき、直後に爆発した。
「えっ、そうなん!?」
ナナミが目を丸くしてジンをバッと振り返る。さっきまで大威張りだったジンの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「ち、ちょっと待て! おい恭介! お前何言い出すねん! 余計なこと言うなや!」
普段の威勢の良さはどこへやら、完全に慌てふためいて挙動不審になるジン。そんなジンの様子を見て、テツがニヤニヤしながら追撃の手を緩めない。
「あぁ、そうやったな。ジン、酒入るたびに『ナナミちゃんええよなぁ』って言うとったわ」
「テツまで裏切るんかーい!」
ジンの絶叫が個室内に響き渡る。ナナミは腕を組み、面白がってジンを覗き込んだ。
「なんやぁ、ジンくん。いけずやなぁ……隠さんと教えてくれたら良かったのに」
「ちゃうねん! あれは若気の至りというか、なんというか……!」
タジタジになるジンをみんなで腹を抱えて笑い転げる。
「ほな、そろそろ帰ろか! 明日も仕事やしな」
ジンの合図で、散々盛り上がった飲み会もお開きとなった。みんなでゾロゾロと店を出ると、夜の爽やかな風が酒で火照った身体に心地いい。
「恭介、お前ちゃんとホテル帰れるか?」
「おう、歩いてすぐのとこだから大丈夫だよ」
「そうか。ほな今日はお開きな! 恭介、また絶対連絡するな!」
「おう、またすぐ来るわ」
「恭介、またねー!」と笑顔で手を振るナナミや、コウタ、テツを見送り、ジンたちは数台のタクシーに分かれて乗り込んで去っていった。
喧騒が去った路地に、二人だけが残される。
タクシーに乗らなかったリホに、俺は少し驚いたふりをして声をかけた。
「リホは? タクシー乗らないの?」
「うちも歩いていける距離にホテル取ってあるねん」
二人きりになった途端、街の静けさが急に目立ち始める。俺は手元のスマホに目を落としながら、リホに歩み寄った。
「どうする? 俺、この辺全然わからないんだけど」
「……うちも、あんまりわからんわぁ」
リホはおっとりとした声で呟き、困ったように首をかしげた。その少し無防備な隙を見逃さず、俺はまっすぐリホの目を見つめた。
「俺の泊まってるホテルで飲む?」
その一言に、リホの動きが一瞬止まった。
ふんわりとした瞳が、少しだけ警戒するような、俺の真意を探るような色を帯びて俺をじっと見つめ返してくる。静寂の中、二人分の吐息が白く交差する。
やがてリホは、諦めたように小さな溜め息をひとつ吐くと、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……うーん、じゃあ、そうしよっか」
「決まりな。じゃあ、途中で酒買ってこう」
路地裏のコンビニに寄り、缶チューハイや軽いおつまみを買い込む。袋を下げて歩く夜道、すぐ隣を歩くリホの肩が時折ふれそうになるたび、俺の胸の高鳴りは静かに大きくなっていった。




