希望
少し変化した恭介を見て、心の隙を突かれたカナは、急激に早くなった鼓動を押さえつけながら、その場に崩れ落ちるようにソファーへ腰掛けた。
(……なにあれ。意味わかんない)
脳裏に焼き付いて離れないのは、洗練された茶髪と、どこかアンニュイで色っぽさを纏った恭介の姿だ。自分と一緒にいた頃の、少しボサボサで無頓着だった彼とはまるで別人のようだった。
「……もしかして」
ぽつりと漏れた声が、静かなリビングに寂しく響く。
「……ほんとに、飲んでただけだった……の?」
一度芽生えた疑問は、カナの心の中で一気に大きくなっていく。
あの朝、自分が一方的に決めつけて、アプリを強制しようとして、強引に追い出してしまったのではないか。彼の「事実なんだから仕方ないだろ」という言葉は、本当にただの事実だったのではないか――。
(私が……勝手に勘違いして、追い詰めちゃったの……?)
自分が犯したかもしれない過ちの大きさに、手足が冷たくなっていく。
「……ううん、違う!」
カナは激しく頭を振って、浮かんできた弱気な考えを打ち消した。
「じゃあ、なんなのよあの髪! 恭介さんが自分から茶髪にするわけないじゃん!」
恭介は自分の身なりにそこまで固執するタイプではなかったはずだ。それなのに、出て行ってわずか数日で髪を切り、色まで変えている。
(女だ。絶対に女がいる……!)
「飲んでいただけ」という彼の主張を信じたい気持ちと、急激な変化の陰に見える「別の女」の影。
怒りと後悔、そして猛烈な嫉妬が混ざり合い、カナの心はかつてないほど激しく乱れ始めていた。
◇
小百合のタワマンへ戻り、持ち帰ったパソコンをデスクに置いた恭介。
その様子をじっと見ていた小百合が、どこか引っかかったような声で尋ねてきた。
「あぁ、取りに行ったんだ」
「どうして? 買い換えればいいじゃない?」
「そういうわけにはいかないんだよ。仕事のデータも入ってるし」
言葉を濁しながら答える恭介に、小百合の瞳が鋭く光る。
「……前の部屋に行ったんだ?」
「ん? あぁ……」
「彼女と会った?」
不意を突かれた恭介は、一瞬返詰まりながらも小さく頷いた。
「あ、あぁ。偶然な」
その瞬間、小百合の表情からすっと温度が消え、みるみると顔が曇っていく。
「……やめてよ」
掠れたような、けれど重く冷たい声だった。
「会うつもりはなかったけど、部屋にいたんだよ。偶然会っただけだって」
恭介は焦って弁明しようとしたが、小百合は彼の言葉を遮るように首を振り、強い眼差しで静かに繰り返した。
「やめて」
かつて「憧れの人」だった恭介を、今こうして手に入れて貪り尽くしている小百合にとって、過去の女の影がちらつくこと自体が耐えがたい屈辱であり恐怖だった。
「もう二度と、あの部屋には行かないで。お願いだから」
小百合は恭介の腕にしがみつくと、抱きすくめ、自分の所有物であることを確かめるように激しく身を寄せてきた。
◇
カナはソファーに深く身体を沈めたまま、天井をぼんやりと見つめていた。
あの日、パソコンを取りにきた恭介の姿が、焼きついて離れない。
長めに残した髪を横に流し、柔らかな茶髪に染めた恭介。以前の無頓着な雰囲気は消え失せ、全身から抗いがたい色気が溢れ出ていた。
(浮気をした、最低な男……)
自分の気持ちは痛いほど理解していた。あんな誠意のない態度を取られ、アプリすら拒絶されたのだから、冷めて嫌悪感を抱くのが当然だ。そう自分に言い聞かせてきたはずだった。
(でも……たぶん、私、まだ好きなんだ)
毒のようにカナの心を蝕んでいく。
あの怒声も、追い出した選択も、全部自分の早とちりだったのではないか。「ただ飲んでいただけ」という言葉を信じてあげていれば、今も二人はここで笑い合っていたのではないか。そう思いたくて、すがりたくて仕方がない。
自分の勘違いであってほしい。彼を信じたい。
会いたくない……だけど、会いたい。
矛盾する感情に引き裂かれながら、カナは膝を抱え、冷たくなった静かな部屋でただじっと身を縮めていた。
「どうすればいいんだろう……」
頭を抱え、カナは一人悶々と悩み続ける。
このまま二度と会わずに終わらせれば、一生後悔することになるかもしれない。だけど、浮気した疑惑のある男を自分から許すなんて絶対に嫌だし、自分から「会いたい」なんて連絡してプライドを捨てるのも許せない。
(……偶然、会う形にするしかない)
口実を探して必死に知恵を絞るカナ。その時、ふと玄関のポストが頭に浮かんだ。
「そうだ、手紙……!」
恭介宛ての郵便物が、この部屋に届いていたはずだ。パソコンと同じように、これを取りに来る口実なら自然すぎる。
カナはすぐにスマホを取り出し、素気なさを装ってLINEの画面を開いた。
『手紙がたくさん来てます。取りに来ないのならこちらで処分します』
文面を確認し、送信ボタンを押す。
(よしっ! これでいいぞ!)
しばらくして、画面に短い返信が入った。
『わかりました』
「よしよしよし……!」
思わず小さなガッツポーズを作るカナ。けれど、すぐに我に返って表情を曇らせた。
(待って、もし私が仕事でいない時間にサッと取りに来られたら、元も子もないじゃない)
自分が家にいる時間を匂わせるべきか、それとも張っておくべきか。恭介と「直接会うこと」を前提に必死で策を巡らせている自分に気づいた瞬間、カナの胸がギュッと締め付けられた。
(私……なんだかんだ理由をつけて、恭介さんに会おうとしてる……)
あんなに怒って、追い出して、最低な男だと嫌悪したはずなのに。
(やっぱり、好きなんだ……)
隠しきれなくなった自分の本心に気づき、カナはスマホを抱きしめたまま、静かに唇を噛み締めた。
ベッドに入り、半ば諦めかけて寝ようとしていたカナの耳に、突如として静寂を切り裂く金属音が届いた。
――ガチャ。
「え……!? 今……っ!? うそっ!」
カナは飛び起き、乱れた髪を整える暇もなく焦ってリビングへ駆け出した。
玄関から入ってきたのは、やはり恭介だった。
薄暗い廊下の中でもはっきりとわかる茶髪と、どこかアンニュイな雰囲気。
「遅い時間にごめんな」
「う、ううん……」
動揺を隠せないカナのことなど気にとめる様子もなく、恭介は棚の上に置かれていた手紙の束をバサッと掴み上げた。そのまま帰ろうとする雰囲気に、カナは焦燥感を募らせる。
(このまま帰られたら、二度と会えない……!)
カナはぎゅっと拳を握りしめ、勇気を振り絞って声をかけた。
「ね、ねぇ… コー、コーヒーでも飲む……?」
恭介は一瞬動きを止め、手紙を持ったままカナを振り返った。
「ん? あぁ……じゃあ、そうしようか」
短く答えると、恭介は慣れた足取りでかつての定位置だったソファへ歩み寄り、深く腰を下ろした。
その背中を盗み見ながら、カナは急いでキッチンへと向かう。手が微かに震え、カップを鳴らしそうになるのを必死で抑えながらコーヒーを淹れる。
「どうぞ…」
「ありがとう」
差し出されたカップを受け取る恭介の手と、一瞬だけ指先が触れ合う。
そのわずかな体温にすら、カナの心臓は跳ね上がるように激しく鳴り響いていた。
湯気が揺れるカップを両手で包み込み、恭介は無言でコーヒーに口を付けた。
カチ、カチ、と壁掛け時計の針が刻む音だけが静かなリビングに響く。かつて当たり前のように二人で過ごしていた空間なのに、息が詰まるほどの緊張感が漂っていた。
(言わなきゃ……このまま終わっちゃう……)
膝の上で拳を強く握りしめ、カナは耐えきれずに声を絞り出した。
「……元気?」
「ん? あぁ。……カナは?」
久々に恭介の口から自分の名前を呼ばれ、カナの胸がギュッと締め付けられる。低く落ち着いたその声に、体中の細胞が反応してしまうのが悔しい。
「う、うん……まぁ、普通」
再び訪れる重い沈黙。
恭介の横顔を見つめる。横に流した茶髪が、間近で見ると余計に彼を大人っぽく、どこか遠い存在に見せていた。胸の奥がチリチリと痛むのを押し殺しながら、カナはそっと呟いた。
「……髪、変えたんだね」
恭介はカップをテーブルに置くと、少し照れたように髪に触れた。
「うん。変かな?」
「……いや、いいと思うよ」
本当は「かっこよすぎる」「誰に勧められたの?」と問い詰めたい言葉が山ほどあるのに、嫌われたくない一心で、カナはただ短く答えるのが精一杯だった。
「どこにいるの?」
意を決して尋ねたカナの問いに、恭介の手がわずかに止まる。
「友達のとこ」
「……女の人?」
ダイレクトな突っ込みに、恭介は一瞬だけ瞳を泳がせ、返答に躊躇した。
小百合の顔が脳裏をよぎる。だが、ここで「そうだ」と言えば、またあの日のような泥沼の怒声と追及が始まることは目に見えていた。何より、今の冷め切ったような、けれど縋るようなカナの目を見つめていると、本当のことなど言えるはずもなかった。
「……いや」
短く、誤魔化すように嘘をつく。
カナはその言葉の合間にあるわずかな「間」を見逃さなかった。胸の奥が冷たく冷え込んでいくのを感じながらも、それを追求してしまえば、今つながっている細い糸が完全に切れてしまう恐怖に支配される。
「……そっか」
嘘だとわかっているのに、それ以上追及できない。
本当のことを知りたい気持ちと、信じた振りをしていたい気持ち。葛藤に引き裂かれながら、カナは力なく頷くことしかできなかった。
「質問してもいい……?」
カナの声はかすかに震えていた。恭介はカップを持ったまま、静かにカナを見つめ返す。
「なに?」
カナは深く息を吐き出し、あの日のトラウマに直結する一番聞きたかった問いを、勇気を振り絞って口にした。
「……朝帰りした時、ほんとは何してたの?」
その瞬間、恭介の脳裏に小百合の顔と、あの夜の甘い熱量が嫌でも浮かび上がる。真実を言えるはずがなかった。今さら小百合の存在を明かせば、修羅場どころの話ではなくなる。
「飲んでたよ」
表情一つ変えず、恭介は素っ気なく、けれど迷いのない声で嘘を重ねた。
カナはその答えを聞くと、ふっと肩の力を抜いて俯いた。嘘か本当かを暴くことよりも、恭介の口から直接「飲んでいただけ」という言葉を聞けたことで、自分を無理やり納得させようとしているようだった。
「……そっか。なんか、ごめんね。疑ったりして」
申し訳なさそうに呟くカナの姿に、恭介の胸の奥がちくりと痛む。だが、もう引き返すことはできない。
「いや、気にすんな」
恭介は短くそう答えると、残りのコーヒーを飲み干した。
空になったカップをテーブルに置き、恭介が立ち上がる。
手紙の束を持ち上げ、そのまま玄関へ向かおうとする背中を見て、カナの頭の中は真っ白になった。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
そう言って立ち上がり、テーブルの上の手紙の束を手に取った恭介。
(……行かないで)
カナの頭の中は真っ白になり、思考より先に足が動いていた。
パタパタと廊下へ向かう恭介の背中を追いかけ、彼がリビングの扉のドアノブに手を伸ばした、まさにその瞬間。
(ここを出られたら、本当にもう二度と……!)
「……っ」
溢れ出た感情を抑えきれず、カナは恭介の背後にすがりつくようにして、伸ばされた彼の右手を両手でギュッと握りしめた。
ドアノブをつかむ手前で、恭介の動きがピタリと止まる。
ゆっくりと振り向いた恭介の目に、両手で自分の手を固く握りしめ、必死な眼差しで自分を見上げているカナの姿が映った。
「……ん? なに?」
落ち着いた、けれど戸惑いを含んだ恭介の声が、静まり返った部屋に落ちた。
扉を開けようとした恭介の手を握りしめてからのことは、カナ自身もよく覚えていなかった。
頭で考えるより先に、体が、本能が勝手に動いていた。
恭介の腕をがむしゃらに引っ張り、強引にソファへ押し倒す。その拍子に、手に持っていた手紙の束が空に舞い、リビングの床へバサバサと虚しく散らばった。
「……カナ?」
不意を突かれ、ソファに倒れ込んだ恭介が困惑の声を上げる。
だが、その言葉すら最後まで言わせなかった。カナは恭介の上に覆いかぶさると、彼の唇を貪るように塞いだ。
息が詰まるほどの強いキス。
(渡さない……誰にも渡さない……っ)
カナの頭の中を支配していたのは、整った茶髪になり、自分の知らない色気を纏って戻ってきた恭介への、激しい独占欲と恐怖だった。
荒い息を吐きながら唇を離すと、カナは焦った手つきで恭介の服に手をかけ、強引に脱がせにかかる。ボタンを弾き飛ばさんばかりの勢いに、恭介は制止する間すら与えられない。
続けて、カナは自分の服も躊躇なく脱ぎ捨てた。
「……カナ、待っ――」
「黙って……!」
制止しようとする恭介の言葉を鋭い声で拒絶し、カナは恭介の上に跨がった。
今まで見せたこともない狂おしいほどの情動と、激しい嫉妬をそのままぶつけるように、カナは恭介の身体を一方的に責め立てていく。
自分を捨ててどこかへ行こうとした男への怒りと、それでも手放せないという執着。相反する感情をすべて吐き出すように、カナは恭介を激しく求め続けた。
嵐のような時間のあと、静まり返ったリビングでカナは恭介の胸に顔を埋めていた。
床には散らばったままの手紙。規則正しく上下する恭介の胸の鼓動を感じながら、カナはポツリと問いかけた。
「恭介さんは、どうしたいの?」
「え? うーん……」
歯切れの悪い返答に、カナの胸の中に再び冷たい不安が広がる。自分の全てをぶつけたというのに、恭介の態度はどこか他人事のようだった。
「どうするの?」
「うん……」
「うん、じゃなくて」
カナは顔を上げ、恭介の瞳をじっと見つめた。そこには、かつての自分だけを見てくれていた熱量が感じられない。その事実が、カナの焦りを強く煽る。
「私にはもう、興味がなくなったの……?」
「いや、そんなことはないけど……」
曖昧に言葉を濁す恭介。その一言が、カナの中に残っていた僅かな理性を吹き飛ばした。
「じゃあ、なんで……っ」
カナは恭介の上に再び体重をかけ、逃がさないようにその身体に跨がった。
まだ去らせない。自分だけのものだと、もう一度その身体に刻み込むように、カナは再び恭介を求め始めた。
「帰ってくるんでしょ?」
恭介を見下ろすカナの瞳には、縋るような必死さと、今にも崩れ落ちそうな脆さが同居していた。
「……」
答えない恭介に、カナの胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「そんなに新しい彼女がいいの?」
「……彼女はいない」
恭介は目を逸らしながら、短くそう否定した。小百合の存在を隠し通さなければならないという保身と、目の前で必死になっているカナへの罪悪感が、恭介の口を重くさせる。
「じゃあ……私のことは、もう嫌いになったの?」
震える声でそう尋ねるカナの顔を、恭介は素直に見返すことができない。激しく求められ、ぶつけられた熱量の余韻が残る中で、嫌いになったなんて言えるはずもなかった。
「いや、カナのことは好きだよ」
それは嘘ではなかった。けれど、今の恭介には小百合という逃げ場があり、甘やかされる生活に毒されているのも事実だった。
その「好き」という言葉を頼みの綱のように掴み取り、カナは恭介の頬を両手で挟み込んだ。
「じゃあ……明日も、明後日も、帰ってくるんでしょ?」
答えを急かすように、逃がさないように、カナは恭介の唇に自分の唇を極限まで近づける。
小百合のもとへ帰らなければならない恭介にとって、その問いはあまりにも重く、逃げ場のない選択肢だった。
乱れた服を二人で無言のまま着直している最中、恭介の脳裏には様々な思考が渦巻いていた。
小百合のもとへ戻れば、心地よい生活がある。けれど、いま目の前で必死に自分を繋ぎ止めようとし、激しく求めてきたカナの存在を、完全に切り捨てることもまたできずにいた。
服のボタンを留めながら、恭介は決断を迫られるように口を開く。
「……カナは、俺のこと許せる…?」
「許せるって? 飲んでただけなんでしょ?」
どこか縋るような、自分に言い聞かせるようなカナの問い返しに、恭介は一瞬言葉を詰まらせた。
「……まぁ、そうだけど」
自分が吐いた嘘が、そのままカナの免罪符になっている。胸を刺す罪悪感を押し殺しながら、恭介は静かに尋ねた。
「……俺のこと、嫌いになってるんじゃないのか?」
追い出されたあの日、カナが見せた拒絶の顔。そして連絡を一切寄越さなかった自分に対して、当然冷め切っていると思っていた。
だが、カナは即座に強く首を振った。
「なってるわけないでしょ……!」
溢れ出しそうな涙をこらえながら、カナは恭介の目を真っ直ぐに見つめる。
その言葉が、そして自分を真っ直ぐに見つめるカナの瞳が、恭介の胸に重く突き刺さる。
小百合という甘い沼を選ぶのか、それとも嘘を重ねたままカナのもとへ戻るのか。
静まり返った部屋の中で、服の袖を固く握りしめたまま、恭介は二つの選択肢の間で激しく葛藤していた。
恭介は手紙をポケットにねじ込むと、逃げるように玄関へと向かった。
「どこいくの?」
後ろから追いかけてくるカナの声。
「うん…帰るわ…」
「どこ行くの……っ! 恭介さん!」
悲痛な叫びを背中に受けながら、恭介は素早くドアを開け、そのまま外へ躍り出た。
――バタン。
重い扉が閉まり、静寂が廊下に落ちる。
取り残されたカナは、ポツンと玄関に立ち尽くした。
「……はぁ」
深いため息が口から漏れる。なりふり構わず必死に繋ぎ止めようとしたのに。
涙は出てこなかった。あまりの虚無感と、「やっぱりもうダメだったんだな」という冷めた事実だけが、静かに心の中に浸透していった。
◇
タワーマンションへ戻った恭介を、小百合が出迎える。恭介の微かな異変、そして服の乱れを小百合は見逃さなかった。
「どこ行ってたの?」
「うん、ちょっと」
「……なに? どうしたの?」
不穏な空気を感じ取った小百合が問い詰める。恭介は靴を脱ぐと、小百合の目を直視できずに口を開いた。
「……やっぱり、自分の部屋に帰るわ」
その言葉に、小百合の身体が強張る。だが、恭介の固い決意を感じ取ったのか、すっと表情を消して静かに頷いた。
「そっか……。うん、わかった」
「ありがとな」
「ううん。……でも、約束して」
小百合は恭介の腕を強く掴み、暗い情念を宿した瞳でじっと見つめ返した。
「なに?」
「また来るって約束して」
「え?……うん」
「絶対よ?……約束破ったら、家まで行くからね」
冗談には聞こえない声音。その重みに、恭介は引きつった笑みを浮かべて頷くしかなかった。
「……わかったよ」
「じゃあ、またな」
「うん……」
◇
深夜の部屋。一人になったカナは、気分を変えるように鏡に向かい、試したことのない新しい化粧を静かに施していた。自分の顔を客観的に見つめながら、気持ちを整理しようとあがいていた。
(そろそろ、お風呂に入らないとなぁ……)
重い腰を上げようとした、その時だった。
――ガチャ。
「え……!?」
心臓が跳ね上がる。鍵が開く音。
廊下を歩く足音が聞こえ、そのままリビングの扉が開いた。
そこに立っていたのは、荷物を抱えた恭介だった。
「ただいま…」
思考が完全に停止する。ドクンと、心臓が一度大きく鳴り響いて止まったかのようだった。
二人を包む、数秒間の完全な沈黙。
鏡の前で固まっていたカナは、溢れ出しそうになる感情を必死に抑え込み、震える声でつぶやいた。
「……おかえり」




