終焉
小百合のマンションを出ると、夏の朝の薄水色の空が広がっていた。街は静まり返り、冷えた空気が徹夜の肌に心地いい。
鍵を回して自宅のドアを開けると、時刻はちょうど7時だった。
靴を脱ごうとした瞬間、リビングの明かりが点いているのに気づく。
ソファには、すでに着替えを済ませたカナが座っていた。腕を組み、冷ややかな視線をまっすぐにこちらへ向けている。
「何時だと思ってるの? 朝帰り?」
低い、けれど怒りを孕んだ声が玄関まで響く。
小百合の部屋で味わったあの甘く狂おしい熱気とは対照的な、現実の冷たさ。
「……遅くなってゴメン。ちょっと飲みすぎて、店で落ちてた」
恭介がいつものように掴みどころのない調子で言い訳を口にすると、カナはゆっくりと立ち上がり、恭介の目の前まで歩み寄ってきた。
「ふーん。店で落ちてたんだ」
カナは疑わしそうな目を向けたものの、恭介の首元や服に余計な匂いが残っている様子はない。念のためにシャワーを借りてしっかりと洗い流してきたのが功を奏した。
「ああ。マジで泥酔してさ。……とりあえず、めちゃくちゃ酒臭いから風呂入ってくるわ」
「ちょっと、恭介さん……!」
追求しようとするカナの声を背中で聞き流しながら、恭介は素早くバスルームへ逃げ込んだ。
扉を閉め、脱衣所で深く息を吐き出す。
服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びると、温かい水流とともに徹夜の疲労と酒が抜けていく。
シャンプーを手に取り髪を洗っていると、脳裏に浮かぶのは小百合の最後の表情だ。
自分の部屋に連れ込まれ、結局朝まで解放されなかった。彼女の存在を知ってからの小百合の大胆さと執着は、どこか恐ろしさすら感じるほどだった。
(参ったな……)
髪を流しながら、恭介は苦笑いを浮かべる。
リビングで待ち構えるカナの不機嫌な顔と、自分を沼に引きずり込もうとする小百合の情熱。
浴室のドアを開け、タオルで濡れた髪を拭きながら脱衣所から出てくると、カナが腕を組んで壁にもたれかかっていた。
「で? 何してたの?」
「飲んでただけだよ」
頭にタオルをかけたまま、恭介は素っ気なく答える。
「ふーん、全く信じてないけどね」
「ほんとだよ」
冷ややかな視線を送ってくるカナに、恭介はいつものように波風を立てない飄々とした態度を貫く。
「まぁ、いーわ。帰ってからじっくり聞かせてもらうから」
それだけ吐き捨てると、カナはバッグを肩にかけ、出勤の準備をして玄関へと向かった。
バタン、と重いドアの閉まる音が部屋に響く。
ひとまず追及をかわしたものの、「帰ってから」という言葉がズシリと胸に残る。カナの勘の鋭さは伊達ではない。
ソファーに深く腰掛け、深く溜息をつく恭介のスマホが、ポケットの中で小さく震えた。
画面を見ると、小百合からのメッセージが届いている。
『無事に帰れた? 今夜も部屋で待ってるね』
朝の光が差し込むリビングで、恭介は画面を見つめたまま、逃げ場のない二つの熱量に挟まれていることを痛感していた。
◇
「さて、続きを聞かせてくれる?」
リビングのソファに腰掛けたカナが、足を組んで恭介を射抜くような視線で見つめてくる。
「ほんとに飲んでただけだって」
恭介はカバンを置き、できるだけ平静を装って上着を脱いだ。
「そんな話誰が信じるのよ」
「事実なんだから仕方ないだろ」
「私、キレそうなんだけど」
カナの眉間に深くシワが寄り、声のトーンが一段低くなる。
「なんでだよ……」
「じゃあ、こうしましょうよ。位置がわかるアプリ入れようよ」
唐突に出された提案に、恭介の動きがピタリと止まった。
「……なんでだよ」
「なんでって? どういうこと? は?」
恭介のあからさまな難色に、カナの目が限界まで見開かれる。静かな怒りが爆発寸前の熱を帯び始める。
「なんでだよ」
「位置がわかれば迎えに行くこともできるでしょ? 何か都合が悪いことがあるわけ?」
逃げ道を塞ぐような完璧な正論。冷酷なまでの詰め寄りに、恭介は生唾を飲み込んだ。都合が悪いどころの話ではない。小百合の隠れ家マンションに通っていることが一発でバレてしまう。
「あるわけないだろ」
「はい、じゃあ、決定ね」
カナはスマホを取り出すと、一切の反論を許さない素早い手つきで画面を操作し始めた。
「そういうのやめろよ…」
恭介が突っぱねると、カナの堪忍袋の緒が完全に切れた。
「自分が怪しいからでしょっ! 何考えてるの!?」
リビングにカナの怒声が鋭く響き渡る。恭介は思わず息をのんだ。
「朝帰りしておいて、言い訳は『ただ飲んでただけ』? それでアプリ入れるの嫌がるなんて、やましいことがありますって自分で言ってるようなもんじゃない!」
肩を上下させ、胸の奥に溜め込んでいた不信感を一気に吐き出すカナ。瞳には激しい怒りと、それと同じくらいの不安とショックが滲んでいる。
「私をバカにするのもいい加減にしてよ……!」
いつもなら適当にいなせるはずの恭介も、カナの本気の怒りを前にして軽口すら叩けない。
スマホの画面には、位置情報アプリのダウンロード画面が開かれたままだ。
「そういう監視みたいなマネ、俺は嫌だ」
恭介が冷たく言い放つと、カナの動きが完全に止まった。
「……は?」
「怪しいとかそういう問題じゃない。信用されてないのが腹立つんだよ」
すり替えのような言い訳で頑なに拒む恭介。その態度こそが、なによりの「有罪判決」だった。
カナの瞳から一気に光が消え、冷酷な怒りが顔を覆う。
「……分かった」
カナは静かに呟くと、脱ぎ捨ててあった恭介の上着とカバンを掴み、そのまま玄関のドアを開けて廊下へ投げ捨てた。
「ちょっと、カナ――」
「出てって」
「おい、話を聞――」
「出ていけって言ってんの!!」
鼓膜を割るような怒声とともに、カナは恭介の胸を両手で力任せに突き飛ばした。
よろめいて玄関の外へ押し出された瞬間、ドカンッ!と重い音を立ててドアが閉まり、内側からカチャリと鍵のロックされる音が響く。
静まり返ったマンションの廊下。足元には投げ捨てられた自分のカバン。文字通り「叩き出された」恭介は、頭を抱えて深いため息をついた。
ホテルを探すか、ネカフェにでも駆け込むか。一瞬そんな選択肢が頭をよぎる。
だが、着替えもなく、カナの激怒によって精神的にもすり減った状態で、今さらビジネスホテルに一人で泊まる気力も湧いてこない。
ポケットから取り出したスマホの画面には、相変わらず小百合からのメッセージが届いている。
『部屋で待ってるね』
(……行くのを躊躇ってたのに、行くしかなくなったな)
彼女を裏切り続けることへの最低限の躊躇いや、小百合の底知れない執着への警戒心は確かにあった。これ以上小百合の部屋へ行けば、もっと抜け出せなくなるという危機感もあった。
だが今の恭介には、行く場所がない。
自分が引き寄せられているのか、それとも小百合が手招きしているのか。
逃げ場を失った恭介は、嫌でも小百合の待つあの広いマンションへ足を向けざるを得なくなったのだった。
◇
インターホンを鳴らすと、扉はすぐに開いた。
出迎えた小百合は、恭介のやつれた顔と手に下げたカバンを見るなり、すべてを察したように柔らかい笑みを浮かべた。
「……彼女に、追い出されちゃってさ」
自嘲気味に告白した恭介の頭を、小百合は愛おしそうに自分の胸元へ引き寄せる。
「あら、大変だったわね」
上質な香水の匂いと、包み込まれるような暖かさ。
「でも、よかった。……これからは私がずっとそばにいるから、大丈夫よ」
囁きながら、小百合の指先が恭介の髪を撫で、首筋を滑り落ちていく。
かつて手の届かなかった憧れの人。その男が今、自分なしでは行く場所すらない無力な姿で腕の中にいる。小百合の胸の奥で、ドス黒く甘い歓喜が弾けた。
「今日はもう、なにも考えなくていいから……ね?」
小百合は恭介の唇を塞ぐと、逃がさないように強く抱きすくめ、貪るように、しつこくその身体を求めていった。恭介もまた、罪悪感を麻痺させるように小百合の熱の中に落ちていく。
翌朝、小百合の広いベッドの中で目を覚ました恭介は、枕元で静かに震えたスマホを手にとった。
画面に表示されていたのは、カナからのメッセージだった。
『もう帰ってこなくていいです。』
絵文字も文句もなく、余計な感情を一切削ぎ落とした、よそよそしい言葉。
激怒して怒鳴り散らしていた昨日の姿が嘘のように、カナは完全に恭介を切り捨てていた。
「どうしたの……?」
背後から小百合が滑らかな肌を寄せてきて、恭介の首元に顔をうずめる。
「……ううん、なんでもない」
画面を伏せた恭介の頬に、小百合が満足そうな笑みを浮かべながらキスを落とした。
そう言って画面を伏せた恭介の言葉を、小百合が信じるはずもなかった。むしろ、その微かな動揺とスマホの画面こそが、恭介の退路が断たれた決定的な証拠であることを小百合は瞬時に察する。
(もう、あなたには私しかいないのね)
そう確信した瞬間、小百合の中で眠っていた欲望が、朝の光の中で再び激しく燃え上がった。
小百合は恭介の首元に顔をうずめたまま、白くしなやかな脚を恭介の腰に深く絡めつめた。
「嘘……なにかあった顔してる」
恭介が口を開く前に、小百合の指先が彼の胸元から滑り降り、躊躇なく下腹部へと向かう。
「待てよ、小百合、朝から――」
「ダメ。逃がさない」
甘く、けれど拒絶を許さない強固な拒否。
昨夜あれほど貪るように求めたというのに、小百合の欲求は満たされるどころか、恭介を自分のものにしたという実感が湧くほどに加速していた。かつて遠くから見上げるしかなかった「雲の上の憧れ」。その男が今、自分のベッドで、自分の手によって翻弄されている。その事実が小百合を狂わせるのだ。
カナからの冷酷なメッセージの余韻も、罪悪感すらも、小百合の圧倒的な熱量によって塗りつぶされていく。朝の光が降り注ぐ部屋で、恭介は抗うこともできず、ただただ小百合の深い執着の沼へと沈み込んでいくしかなかった。
「恭介くんの好きなようにしていいのよ。何がしたい? どうしたい?」
小百合は恭介の胸に顔を埋め、甘えるように、けれど逃がさない強さで体を密着させて囁く。
小百合にとって、恭介を満たすことは最高の快楽であり、同時に彼を支配することでもあった。
「恭介くんのやりたいこと、全部私が叶えてあげる……だから、ここにいて」
出かけようとすれば甘い執着で引き留められ、昼夜を問わず身体を求められる。
最初はカナへの罪悪感や、小百合の常軌を逸した熱量に戸惑っていた恭介だったが、人間とは愚かなもので、甘やかされ尽くす環境に一度毒されると、思考することすら億劫になっていく。
(……まあ、いいか)
美しい女に全身全霊で愛され、貪られる。恭介の心と身体は、逃げ場のない小百合の沼に、確実に、そして心地よく慣れてしまっていた。
◇
恭介を追い出して数日が過ぎた自宅。
カナのスマホに、恭介からの連絡が来ることは一度もなかった。
「……ハッ、ほんと最低」
静まり返ったリビングで、カナは冷ややかな溜め息をつく。
追い出した直後こそ一瞬の迷いもあったが、連絡すら寄越さないことが恭介の「黒」を完全に証明していた。
怒りはすでに冷め切り、残ったのはドロドロとした強い嫌悪感だけだ。
一度でも「信じよう」とした自分が馬鹿馬鹿しい。
「許すわけないじゃん。絶対に」
未練など一片もない。自分を裏切った男に対する完全な拒絶と冷酷な断絶の意思を固めながら、カナは淡々と部屋の清算を進めようとしていた。
◇
「髪、切ったほうがいいよ」
ソファーで寛ぐ恭介の頭を撫でながら、小百合がふと言った。
そう言われてみれば、恭介の髪はだいぶ伸びていて、今や後ろで軽く結べるくらいの長さになっている。ここ最近のバタバタと、小百合の部屋での退廃的な生活のせいで、自分の身なりを気にする余裕すら忘れていた。
「そうだな。ちょっと美容院行ってくるわ」
「ついていこうか?」
立ち上がろうとする恭介の服の裾を、小百合が少し名残り惜しそうにつかむ。
「いいよ。楽しみに待っといて」
「うん、わかった」
小百合の頭を優しく撫でて外へ出る。
カナに追い出された当初はどうなることかと思ったが、小百合との生活は思いのほかうまく進んでいた。至れり尽くせりの環境と、自分を全身全霊で求める小百合の熱量。居心地の良さに毒された恭介の心は、すでに過去の日常を遠い出来事のように感じ始めていた。
数時間後、マンションの鍵を開けて恭介が帰宅する。
玄関で靴を脱ぐ恭介の姿を見た瞬間、出迎えた小百合はハッと息を飲んだ。
「……かっこいい! すごくいいよ!」
カットを終えた恭介は、これまでのボサボサだった長髪をすっきりと整え、長めの前髪を大人っぽく横に流していた。そして何より、黒かった髪が柔らかな茶髪に変わっている。
「染めたんだ?」
「うん。変かな?」
「ううん、全然! すごくいいと思う……なんだか、すごく嬉しいな」
興奮気味に瞳を輝かせる小百合。
昔憧れていた「かっこいい恭介」が、自分の目の前でさらに洗練され、魅力的な男として磨き上げられていく。しかもその姿を見られるのは、自分だけなのだ。
独占欲と歓喜が一気に押し寄せ、小百合の頬が紅潮する。
「ねえ、ちょっとこっち来て……」
我慢しきれないといった様子で、小百合は帰ってきたばかりの恭介の首に手を回し、爪を立てるような強さでその身体を引き寄せた。
小百合の部屋での生活に慣れてきた恭介だったが、どうしても一つだけ手元になくて困っているものがあった。
仕事で使うパソコンだ。こればかりは買い直すのも面倒で、どうしても回収する必要があった。
(カナが仕事で不在の昼間に行けば、顔を合わせずに済むだろ)
そう踏んだ恭介は、一人でかつての部屋へと向かった。
◇
カナは退屈で鬱屈とした毎日を過ごしていた。
洗面所に2本並んだ歯ブラシや、玄関に置き去りにされたスリッパを見るたび、嫌でも恭介のことを思い出してしまう。
(だけど、浮気は絶対に許さない。私の判断は間違っていないんだから)
そう自分に言い聞かせるものの、心にぽっかりと空いた穴は塞がらない。
仕事が休みだったその日の午後、カナが部屋で一人ダラダラと過ごしていると、静かな部屋に突如金属音が響いた。
――ガチャ。
「え!? 」
思わず跳ね起きるカナ。動転して立ち上がった瞬間、ガサガサと鍵束が擦れ合う音がして、リビングの扉が開いた。
部屋に入ってきたのは――長めの髪を洗練された茶髪に変え、横に流した、今まで見たこともない恭介だった。
「……ッ」
カナは目を見開き、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
小百合のもとで甘やかされ、貪られるような日々を送ってきたせいか、今の恭介からは隠しきれない色気が全身から溢れ出ている。それを見たカナは、微かに息が荒くなるのを止められなかった。
部屋の中にカナがいるとは思っていなかった恭介も、驚いて足を止める。
「あ、いたのか。ごめん」
「う、ううん、大丈夫……」
動揺を隠せないカナの声に、恭介は手短に用件を告げた。
「パソコン取りにきたんだ」
「……うん」
リビングの奥へ向かう恭介の動きを、カナは吸い寄せられるように目で追ってしまう。背格好は知っているはずの彼なのに、醸し出す雰囲気が以前とまるで違う。
デスクからパソコンを抱えると、恭介は余計な長居をする気もない様子で、さっさと出口へと向かった。
「悪かったな。じゃ」
「う、うん……」
バタン、と重いドアが閉まり、再び部屋に静寂が訪れる。
「……ッ」
胸を押さえると、カナの心臓は驚くほど激しくドキドキと鼓動を打っていた。
(なになになに……!? なにあれ……っ!?)
自分を裏切った最低の男のはずなのに。怒りと嫌悪感でいっぱいだったはずなのに。
あまりにも色っぽく、劇的にかっこ良くなって現れた恭介の姿が脳裏から離れず、カナは呆然と立ち尽くすしかなかった。
続く




