魔性の女
カウンターの端で一人、静かにグラスを傾ける恭介の姿が見えた瞬間、小百合は思わず足を止めた。
(あ……恭介くんだ)
横顔のライン、グラスを持つ指先、少し冷めたような独特の雰囲気。中学の頃からどこか大人びていて、ずっと遠くから目を追っていたあの頃の面影が、一瞬で蘇る。
小百合は呼吸を整え、意を決してその隣へと歩み寄った。
「1人ですか?」
「あ、はい」
恭介は短く答え、横目にちらりと小百合を見たが、すぐに目の前のグラスに視線を戻した。完全に「酒場で見知らぬ女性に声をかけられた」時の、あしらい慣れた大人の対応だ。全く気づいていない。
(私のこと全然気づいてないなぁ……)
昔からクールで、女子からの視線にもどこか無頓着だった。その変わらなさにおかしくなりながら、小百合は隣のハイスツールに腰を下ろした。
「隣、座ってもいいですか?」
「あ、はい、どうぞ」
相変わらず恭介は落ち着いた手つきでタバコに火をつけ、静かに煙を吐き出す。小百合は胸の奥がキュッと締め付けられるような、懐かしい高鳴りを覚えた。
中学時代、恭介は学校中の女子の憧れの的だった。地味で目立たなかった自分にとって、彼は眩しすぎる存在で、一度もろくに言葉を交わしたことすらなかったのだ。
「小百合です。初めまして」
「恭介です。どうも」
(知ってるよ!恭介くんでしょ)
「普段は何されてるんですか?」
小百合が尋ねると、恭介はグラスの氷をカランと鳴らし、少し照れくさそうに苦笑した。
「普通の仕事ですよ。小百合さんは?」
「私はアパレル関係です。今日はたまたま仕事帰りで」
そのまま休日の過ごし方や、この店の居心地の良さなど、他愛もない会話が静かに続いていく。
恭介の話し方はどこまでもスマートで、押しつけがましさが一切ない。相槌の打ち方、言葉を選ぶ間の取り方、ふとした瞬間に見せる柔らかい目元。
(昔から憧れてたけど……やっぱり、かっこいいな)
胸の奥から込み上げる感情に耐えきれず、小百合は思わず呟いていた。
「かっこいいですね」
恭介は煙草を灰皿の縁でトントンと叩き、少しだけ目を細めて微笑んだ。
「小百合さんもお綺麗ですよ」
その言葉が、耳の奥で甘く響く。
本当は「私だよ、中学の時同じクラスだったでしょ?」と明かすつもりだった。けれど、当時の自分は目立たない大人しい女子で、恭介とまともに口をきいたことすらなかったのだ。もし正体を明かしたら、この夢のような時間は「あぁ、昔の同級生か」という冷めた現実に変わってしまうかもしれない。
何より、憧れだった人に「綺麗だ」と褒められるこの瞬間が、あまりにも心地よかった。
小百合は自分の正体を胸の奥に閉じ込め、知らん顔でグラスのカクテルに口をつけた。
「結婚されてるんですか?」
小百合が少し探るように尋ねると、恭介はグラスを見つめたまま、苦笑交じりに肩をすくめた。
「あぁ、まあ、微妙な感じですけど。小百合さんは?」
「私も結婚してます」
「ですよね。こんな綺麗な人を男が放っておかないでしょ」
サラッと言ってのける恭介に、小百合は心の中で(あの時、全く相手にしてなかったじゃない……)とツッコミを入れつつ、甘い敗北感に浸っていた。当時は見向きもしなかったくせに、今の恭介はあまりにも罪作りだ。
「この後、何かあります?」
「いや、特に。飲んでるだけですよ」
「じゃあ、もう1軒行きませんか?」
「いいですよ。行きましょうか」
恭介はスマートに立ち上がり、会計を済ませる。その背中を見送りながら、(なんかグイグイくる女性だな、嫌いじゃないぞ)と恭介が内心面白がっていることなど、小百合は知る由もない。
移動した店は、少し賑やかなスペインバルだった。ワイングラスと生ハムが並ぶテーブルで、二人はまた他愛もない世間話を再開する。
「いつもお一人なんですか?」
小百合が尋ねると、恭介はパエリアの皿を寄せながら答えた。
「いや、たまに連れがいますけど」
「……そうなんだ」
連れ、という言葉に一瞬胸がチクリとしたが、小百合はすぐに笑顔を取り戻してワインを口に含んだ。
「私みたいに、急に声をかけてくるタイプってイヤですか?」
少し小悪魔っぽく上目遣いで聞いてみると、恭介は煙草に火をつけ、フッと煙を吐き出しながら笑った。
「いえいえ、むしろ助かります。好きですよ」
その「好きですよ」という言葉の響きに、小百合の心臓がまた跳ね上がった。正体を明かさないまま、どこまでも大人の男として接してくる恭介の余裕に、小百合はすっかり酔いしれていた。
「すごくタイプだったんで、声をかけちゃいました」
小百合が少し照れたように、でもまっすぐ恭介の目を見て言う。
「あぁ、そうなんですか?嬉しいです。ありがとうございます」
恭介は全く嫌味のない、余裕のある笑みを浮かべて返した。
「迷惑でした?」
「迷惑だなんて。小百合さんみたいな人は好きですよ」
流れるように返ってくる恭介の甘い言葉。中学生だった頃の自分が見たら、卒倒してしまうかもしれない。小百合は心の中でと溜息をつきながら、いたずらっぽく微笑んだ。
「あら、相思相愛ですね」
「そ、そうなんですかね。あはは」
普段は冷静な恭介が、小百合の予想以上の積極さに少しだけ気圧され、苦笑いを浮かべる。その一瞬見せた隙のような表情に、小百合は胸の奥がキュンと鳴るのを感じた。
当時は遠くから見つめることしかできなかった手の届かない存在。それが今、自分の目の前で、自分の言葉にちょっとだけ照れている。
グラスを重ねるごとに会話は弾み、二人はすっかりいい気分でワインを空けていった。
「そろそろ、行きましょうか」
恭介がスマートに会計を済ませ、店を出る。少し外の冷たい風に当たりながら、ビルのエレベーターへと乗り込んだ。
狭い密室の中、急に訪れる静寂。ふと、小百合が恭介の肩にそっと頭を乗せてきた。
恭介も嫌がる素振りも見せず、ごく自然な手つきで小百合の細い腰を引き寄せる。
互いの温度が伝わる距離で視線が交交じり合い、吸い寄せられるように自然と唇が重なった。
チーン、と軽い電子音が鳴り、エレベーターが1階に到着する。開く扉。
「……もう帰るの?」
上目遣いで尋ねる小百合に、恭介はフッと口元を緩めた。
「いや、まだ大丈夫だけど?」
「じゃあ……ちょっと休憩しましょうか」
「そうですね。そうしましょうか」
吸い込まれるように、二人は近くのホテルへと向かった。
部屋に入り、先にシャワーを浴びる小百合。浴室の鏡に映る自分の顔を見つめながら、小百合は激しく葛藤していた。
(……正体、明かそうかな。でも……言ったら『なんだ、同級生か』って言われるかな。うん、このまま『素敵な大人同士』ということにしとこ)
結局、正体は明かさないと心に決め、火照った身体のままベッドへと戻った。
暗がりの中、恭介に強く抱きしめられる。心地よい体温と香り。憧れ続けた人の腕の中で、夢のような現実に小百合の胸は張り裂けそうだった。
「……恭介くん」
感極まった小百合の口から、昔ずっと心の中で呼んでいた名前が、思わず零れ落ちてしまった。
「……小百合」
恭介も耳元で、優しくその名を呼んで抱きすくめてくる。
その声の甘さに、もう限界だった。正体を隠し通すつもりだった決意が、一瞬で吹き飛んでしまう。
小百合は恭介の胸に手を当て、潤んだ目で見つめ返しながら、堪えきれずに問いかけた。
「……ねぇ、私のこと、覚えてる? わかる?」
「わかるよ。小百合だろ」
耳元で低く囁かれた声に、小百合の息が止まった。
(え……? どういうこと?)
心臓が早鐘のように打ち鳴り、頭の中が真っ白になる。恭介の腕の中で固まる小百合を、恭介は愛おしそうに見下ろしていた。
「私のこと、覚えてるの……?」
「もちろんだよ」
「え、いつから……!?」
「2軒目あたりぐらいかな」
「え、うそ……!?」
小百合は信じられない思いで目を見開いた。
当時は一度もまともに話したことすらなくて、地味だった自分のことなんて記憶の片隅にもないと思ってたのに。
動揺する小百合の頬に、恭介はそっと指先を滑らせた。どこまでも優しく、大人の余裕を漂わせた微笑みを浮かべながら。
「綺麗になったな。本当に綺麗だよ」
ずっと憧れていた人に、すべてを見破られていた照れ臭さと、昔と変わらない胸のときめき。
「気付いてたなら言ってよ」
小百合はハッと息を飲み、思わず恭介の胸に置いていた手に力を込めた。
「帰り際に言おうと思ってたんだ」
「……ずるい」
小百合はゆっくりと首を振り、真っ直ぐに恭介の目を見つめ返した。逃げたり隠したり、子供みたいに取り乱したりはしない。
今まで「行きずりのイイ女」として作っていた余裕の仮面が剥がれ落ち、そこにあったのは、ずっと胸の奥に秘め続けてきた一途な眼差しだった。
「好きだったんだもん。今も好きよ」
言葉に刻まれた、何年分の熱と重み。
大人の戯れでも、その場のノリでもない。昔からずっと恭介に届かせたかった本心が、狭い部屋の中に静かに響き渡る。
恭介は一瞬、言葉を失ったように目を丸くした。
これまで何人もの女性にあしらい慣れてきた恭介でさえ、小百合のまっすぐで誤魔化しのきかない言葉には、息を呑むしかなかった。
「あの頃は言えなかったから……」
小百合は自ら恭介の首にそっと腕を回し、爪を立てるように強く抱き寄せた。
「こんなに綺麗だったっけ? 整形した?」
緊張がほぐれた空気に乗せて、恭介がいつもの調子でふざけた質問を投げかける。
小百合は呆れたように小さく吹き出すと、恭介の頬を両手で軽く挟み込み、至近距離でまっすぐに見つめ返した。
「してないわよ。……恭介くんが気付いてなかっただけでしょ?」
「そうか? 中学の時はもっと大人しかっただろ」
「当たり前じゃない。恭介くんの前だと緊張して、ろくに話せもしなかったんだから」
昔の自分を思い出したのか、小百合はくすっと笑い、それから少しだけ切なそうに目を細めた。
「ずっと遠くから見てた。……今こうしているのが、不思議」
少し背伸びした大人の余裕と、溢れ出す一途な想い。そのギャップを前にして、恭介は「参ったな」というように苦笑し、小百合の手を優しく握り返した。
ベッドのまどろみの中、小百合は恭介の腕の中で長くて細い足を少しだけ丸め、恭介の顔を見上げつぶやく。
「……また、会える?」
恭介は小百合の長い髪にそっと指を通し、いつもの大人の余裕と優しさを込めて答えた。
「もちろん」
それで安心したのか小百合はとんでもないことを口にする
「うちくる?」
小百合の口から飛び出した予想外の誘いに、恭介は思わず眉をひそめた。
「え? 結婚してるんだろ?」
「大丈夫。旦那の家じゃなくて、私だけの部屋があるの」
「……自分用の部屋?」
「うん。旦那は会社をいくつか経営しててお金には不自由してないからさ。私専用にマンションの一室を借りてもらってるの。旦那はそこには絶対来ないし、鍵も持ってないの」
小百合はベッドの上で細く長い脚を優しく組み替え、秘密を共有するようにくすりと笑った。
「誰にも邪魔されない、私だけの部屋。……恭介くんに来てほしいな」
洗練された大人の女性としての優雅さと、恭介の前だけで見せる小悪魔のような隙。旦那の影を一切感じさせない「自分だけの秘密基地」へ誘う小百合に、恭介は「参ったな」と苦笑いを浮かべた。
ホテルを抜け出し、小百合の案内で到着したのは、一等地に佇むタワーマンションだった。
鍵を開けて中に入ると、洗練されたインテリアで統一された開放的な空間が広がっている。
「1人で住むにはかなり広いな。」
リビングを見渡しながら恭介が呟くと、小百合はヒールを脱ぎながらくすっと笑った。
「そうね、使ってない部屋もあるけど」
高身長でスタイル抜群の小百合が、広いリビングのソファに深く腰を下ろす。その佇まいはまさに「勝ち組の綺麗な奥さん」そのものだ。
「成り上がったな」
恭介が少し意地悪く口元を緩めて言うと、小百合はクッションを抱きかかえ、少しだけ頬を膨らませて返した。
「やめてよ。そういう言い方」
「事実だろ。中学の時の小百合からは想像もつかない大豪邸だ」
「もう、いじめないで。……私にとっては、どんなに広くてもただの箱だったんだから」
小百合はクッションに顎を乗せ、上目遣いで恭介を見つめる。
「でも、今日からは違う。恭介くんが来てくれたから」
広い部屋にポツンと漂っていた寂しさを消し去るように、小百合は恭介に向かってそっと腕を伸ばした。
「昔、地味だったからさ」
小百合はソファーの上で長い脚を抱え込み、自嘲気味に微笑んだ。
「その反動なのかな。恭介くんを前にすると、自分でも驚くくらい大胆になっちゃう」
恭介は隣に腰を下ろし、ワイングラスを傾けながら小百合の横顔を眺めた。
「反動ねぇ……。確かに、あの頃の小百合を知ってたら今の攻め様は信じられないな」
「だって、いつまでも大人しくしてたら、今こうして恭介くんを私の部屋に連れてくることなんてできなかったんだから」
上品で洗練された「綺麗な奥さん」の見た目と、昔のコンプレックスを裏返しにしたような、恭介限定の大胆さ。
その危うい色香に、恭介はフッと口元を緩め、小百合の華奢な肩を抱き寄せた。
「遊んでるの?」
ソファの上、至近距離で恭介の瞳を覗き込みながら、小百合が静かに問いかける。
「まぁ、ほどほどに」
恭介がいつものように掴みどころのない笑みでかわすと、小百合は探るような視線を崩さない。
「ほどほど? ……彼女いるの?」
「あぁ、いるよ」
その一言が出た瞬間、小百合の表情が一瞬だけ硬く曇った。
洗練された大人の余裕で隠していたはずの感情が、ほんのわずかな隙間から零れ落ちる。一間の静寂の後、小百合は恭介の胸元に置いていた手に、ぎゅっと力を込めた。
「彼女と別れないの?」
「なんだよ、突然」
不意を突かれた恭介が呆れたように苦笑すると、小百合は横を向くことなく、まっすぐに恭介を見つめ返した。昔は目を合わせることすらできなかったはずの瞳に、強い光が宿っている。
「別れたら?」
「変なこと言うなよ」
「変じゃないわよ」
大胆で、少し強引な物言い。かつての地味で控えめだった少女の影などどこにもない。だが、その強がりな態度の奥底には、恭介を失いたくないという必死な情念が見え隠れしていた。
「……恭介くんとずっと一緒にいたいから」
自分でもわがままだと分かっているはずなのに、抑えきれずに溢れ出た本音。
恭介は煙草の煙をゆっくりと吐き出すと、小百合のまっすぐな視線を受け止め、困ったように眉を下げた。
「嬉しいけど、難しいな」
「私がなんでもしてあげるよ?」
小百合は恭介の首に指を絡め、縋るような、けれどどこか妖艶な眼差しで囁いた。夫の財力も、自分自身の美しさも、この広すぎるマンションも、恭介を繋ぎ止めるためなら何だって差し出すと言わんばかりの必死さだ。
しかし、恭介は落ち着いた手つきで小百合の指をそっと解き、グラスをテーブルに置いた。
「別れるという選択肢はないんだ」
はっきりと一線を引く言葉。小百合の瞳に落胆と、少しの怒りが混ざり合う。
「……じゃあ、なんで来たの?」
自分には夫がいて、恭介には彼女がいる。一線を超えない理屈なんていくらでもあったはずなのに、なぜ自分の誘いに乗ってここまでついてきたのか。責めるような小百合の問いに、恭介はフッと罪のない笑みを浮かべた。
「小百合が綺麗だから、かな」
あまりにもずるい、本音と建前が混ざり合った返答。
昔は自分に気づきもしなかった男が、大人になった今の自分を「綺麗だ」と認めてここにいる。その事実に、小百合は深くため息をつき、毒気を抜かれたように恭介の胸に額を預けた。
「……ずるいなぁ」
拒絶された悔しさと、それでも「綺麗だから」と言われて舞い上がってしまう甘い敗北感。
呟いた小百合の指先が、恭介のシャツのボタンを一つ、また一つと外していく。その手つきに躊躇はない。
「別れてくれないなら、いいよ。……でもね、恭介くん」
小百合は恭介の膝の上に跨がるようにして座り直し、上から恭介の瞳を覗き込んだ。高身長で細身な身体が描く曲線と、上質な香水の匂いが恭介の視界と嗅覚を支配する。
「私といる時間だけは、その子のこと、考えないで」
耳元で聞こえる、甘く重い宣誓。
小百合の手が恭介の首筋から髪へと絡みつき、逃げ場を塞ぐように激しく唇を奪った。ホテルで見せた照れや遠慮はもうどこにもない。
彼女の存在を知ったことで、小百合の「憧れの人を手に入れたい」という欲望は、狂気にも似た執着へと変わっていった。
自分がどれだけ美しくなっても、どんなに上質な部屋を用意しても、恭介の心の真ん中には別の女がいる。その事実が、かつて自分が見向きもされなかった中学時代の惨めさを刺激して、狂おしいほど小百合を突き動かす。
恭介がどれだけ「彼女とは別れない」と線引きしようとしても、この部屋に来るたび、小百合の圧倒的な執着と色香に毒されていく。
ベッドに押し倒された恭介を見下ろす小百合の瞳には、愛しさと、それ以上に深い所有欲の炎が揺らめいていた。
続く




