自責
日差しの強い昼下がり。雑踏の喧騒が響く駅前の通りを、カナは歩いていた。
信号待ちの人波の中で、ふと見覚えのある後姿が目に入る。歩き方、お気に入りのチャコールのジャケット。間違いなく恭介だった。仕事で外出しているとは聞いていたが、こんな場所で遭遇するとは思っていなかった。
「恭介さん……?」
恭介のすぐ隣に、一人の女性がいた。
上品な雰囲気の女性の横で、恭介は当たり前のような顔をして、その女性の腕を持ち、ぴったりと寄り添って歩いていた。
時折、顔を覗き込むようにして何かを語りかけ、女性がうなずくと、恭介も嬉しそうに目元を緩ませる。
人目の多い駅前だというのに、隠す素振りすら一切ない。あまりにも自然に、あまりにも堂々と、二人は触れ合いながら歩いていた。
喉の奥がキュッと縮み、声が出ない。
あんなに身を寄せて、あんなに優しい顔をしている。
カナはその場に立ち尽くしたまま、金縛りに遭ったように二人から目を逸らすことができなかった。二人はそのまま会話を交わしながら地下鉄の入り口へと向かい、ゆっくりと階段を下りていってしまった。
胸の奥で、ドクドクと不気味で激しい鼓動が打ち鳴らされていた。
◇
その夜。玄関の鍵が開く音がして、恭介が帰ってきた。
「ただいまー。いやー、今日は移動が多くて参ったよ」
靴を脱ぎ、何事もなかったかのように手洗いに向かおうとする恭介の背中に、リビングで待ち構えていたカナの低い声が突き刺さる。
「ねぇ。何か言うことない?」
恭介は足を止め、不思議そうに振り返った。
「ん? ないけど?」
「……あるよね?」
「だから、ないって。急に何だよ」
「あるでしょっ!」
カナの声がリビングに鋭く響き渡った。いつもの柔らかい雰囲気は欠片もなく、全身から怒りのオーラを吹き出している。
「どうしたんだよ、急に大声出して……」
「今日見たんだよっ! 女の人と歩いてるのをね! どういうつもりなの? 堂々と。バカじゃないの!?」
恭介は一瞬ポカンとし、それからあっけらかんとした顔で吐き捨てた。
「ん? うーん…あぁ……」
その拍子抜けしたような反応が、カナの火に油を注いだ。胸の奥でドロドロと渦巻いていた嫉妬と不信感が、一気に激しい怒りとなって爆発する。
「『あぁ』じゃないでしょ!? 腕まで組んで、おかしいんじゃないの!?」
カナの金切り声がリビングに虚しく響き渡る――。
◇
恭介は次のアポイントへ向かうため、地下鉄の入り口へ向かって早足で歩いていた。その時、階段の手前でぴたりと足を止め、白杖を細かく動かしながら困惑したように立ち尽くしている女性の姿が目に入った。
綺麗に整えられた黒髪の、上品な女性。だが、その瞳は焦点を結んでおらず、階段の段差の位置を探りあぐねている様子だった。周囲の人波は、誰もが忙しそうにその横を素通りしていく。
恭介は躊躇することなく、その女性のもとへ歩み寄った。
「こんにちは。地下鉄に乗られますか? 良ければご案内しますよ」
女性は一瞬ハッとした表情を見せた後、安堵したように「あ……助かります。階段がどこからか分からなくなってしまって……」と小さく息を吐いた。
「大丈夫ですよ。じゃあ、腕持ちますね」
恭介は女性の肘の上あたりをしっかりと、だが優しく手で支えた。目の不自由な人を誘導する際、手首を引っ張るのではなく、腕や肩を支えて自分の半歩前を歩かせるのが安全な介助だと知っていたからだ。
「段差が三段あります。ゆっくり行きましょう」
「ありがとうございます。すみません、お手数をおかけして」
「気にしないでください。僕も今から電車に乗るところですから」
恭介は相手の歩幅に合わせてゆっくりと階段を下りていった。途中、すれ違う人にぶつからないよう身体を寄せ、足元に気を配りながら言葉をかける。
地下のホームへ下りても、恭介は手を離さなかった。黄色い点字ブロックの内側まで誘導し、電車が到着するのを待つ。
「何線に乗られるんですか?」
「東西線です。二つ目の駅で下りる予定なんです」
「それなら、次に来る電車で大丈夫ですね」
ホームに滑り込んできた電車の風が、二人の髪を揺らす。プシューッと音を立ててドアが開くと、恭介は女性を先導するようにドアの前へ誘導した。
「電車来ましたよ。これに乗れば大丈夫ですよ」
「本当にありがとうございました。助かりました」
「お気をつけて」
女性がゆっくりと車内へ入るのを見届ける。困っている人に手を差し伸べ、安全に目的地へ送り届ける。
恭介にとっては下心も、迷いも、やましい気持ちも一切存在しない、人間として至極当たり前の、純粋な善意による行動だった。
◇
「……だから、おかしいんじゃないの!?」
叫び声の余韻が消えゆくリビングで、恭介は小さく溜息をつき、頭を掻きながらゆっくりと言葉を口にした。
「……あの人は、目が不自由な人だったんだよ」
「……え?」
カナの動きがピタリと止まる。
「階段の手前で困ってたから、地下鉄のホームまで案内して、電車に乗せてあげただけだ。腕を持ったのは、階段だから危ないだろ?……それのどこがおかしいんだよ?」
淡々と告げられた真実に、カナの頭は一瞬白くなった。 浮気でも、やましい関係でもない。恭介が言っているのは、紛れもない「親切」だ。
(目の不自由な人……介助……?)
自分の早とちりだったのだと、頭では理解した。謝らなければいけない場面だということも分かっていた。だが、昼間に見たあの光景――恭介が他の女の人に優しく寄り添い、触れ合い、柔らかい笑顔を向けていたあの姿が、脳裏に焼きついて離れない。
ドロドロとした醜い感情が、正論を前にしてもなお、喉の奥から込み上げてくる。
「っ……でも! だからって、あんなに親しそうにする必要ある!?」
「は?」
「そこまで優しくする必要ないでしょ!? 腕まで触って、優しそうな顔して……私以外の女の人に、なんでそこまでするのよ!?」
理屈ではない嫉妬の炎に突き動かされ、吐き出してしまった見苦しい言葉。
それを聞いた瞬間、恭介の表情からあっけらかんとした色が消え去った。
瞳の奥に冷たく重い光が宿り、眉間に深い皺が刻まれる。恭介はゆっくりと踏み出し、カナとの距離を詰めた。
「……ふざけてんのか、カナ?」
一段低くなった恭介の声に、カナの背筋がゾクリと凍りつく。いつも受け止めてくれる恭介の優しさは、そこにはもうなかった。
「困ってる人が目の前にいたら、助けるのが当たり前だろ。それって普通だろ?」
「それは……そうだけど……」
「俺はな……」
恭介の言葉に、本気の怒りと、深い失望の色が混ざり込んでいく。
「カナも、そういう人間であってほしいと思ってる」
「……え?」
「困ってる人がいたら、迷わず手を差し伸べられる。そういう正しさや優しさを持った奴だって、俺はカナのことを信じてる。」
恭介のまっすぐで強い眼差しが、カナの胸を容赦なく射抜く。
「それを……何だよ? 困ってる人を助けただけの行為を、ヤキモチで責め立てるのか? お前、自分が何を言ってるのか分かってんのか!?」
リビングに落ちた恭介の喝破は、どんな怒号よりも重く、深く、カナの心根を打ち砕いた。
「俺は、カナもそういう人間であってほしいと思ってる」
その言葉は、どんな罵倒や暴力よりも重く、鋭く、カナの胸のど真ん中を打ち抜いた。
「カナもそういう人間であってほしい」――。 恭介はただ自分を愛してくれていたのではない。一人の人間として尊敬し、正しく、優しい心を持ったパートナーだと信じていてくれたのだ。困っている人に躊躇なく手を差し伸べられる、誇り高い存在だと期待してくれていたのだ。
それなのに、自分はどうだ。
目の不自由な方を守り、助けた恭介の誇りある善意に対し、「私以外の女に優しくするな」などという、あまりにも小さく、浅ましく、汚い言葉を叩きつけた。
(……私、最悪だ……)
視界が急速に滲んでいく。さっきまで全身を支配していたはずのドロドロとした怒りは、瞬時に跡形もなく霧散していた。
その代わりに胸の奥から急速に押し寄せてきたのは、耐えがたいほどの「恥ずかしさ」だった。
恥ずかしい。自分が、たまらなく惨めで、愚かで、恥ずかしい。
大人になりきれず、理屈も通らないヤキモチを撒き散らし、大切な人の誠実な心を汚そうとした自分の存在そのものが、恐ろしいほどの醜悪さに思えた。
「……え……」
喉から絞り出された声は、情けなく震えていた。
さっきまで恭介を睨みつけていた瞳は、もう真っ直ぐ彼を見返すことすらできない。恭介の瞳の中に映る自分が、あまりにも小さく汚い怪物に見えて、カナはたまらず視線を床へと落とした。
握りしめていた拳から力が抜け、身体が膝から崩れ落ちそうになる。
「……ごめ……なさい……」
消え入るような声が、口から漏れた。
言い訳なんて、1ミリも存在しなかった。恭介の言ったことは100%正しく、自分が口にしたことは100%醜かった。自分の浅ましさを思い知らされ、全身の血が引いていくような感覚と、灼熱のマグマに焼かれるような羞恥心が、同時にカナの身体を痛めつけていく。
「ごめんなさい。そうだと知らなくて……」
さっきまでの激しい怒りはどこへやら、真相を知ったカナはすっかり小さくなり、情けなさそうにうつむいていた。
自分の勘違いで大騒ぎしてしまったこと、そして何より、困っている人を助けた恭介の親切に対して見当違いな嫉妬をぶつけてしまったことへの猛烈な恥ずかしさが、じわじわと押し寄せてくる。
恭介は深く溜息をつくと、少し呆れたような、けれど穏やかな表情でカナを見つめた。
「俺は、カナも困ってる人がいたら助ける人間だと思ってる」
「……うん」
「接客業なんだから尚更だろう?」
「……うん、そうだね」
恭介の真っ直ぐな言葉が、カナの胸にちくちくと痛く刺さる。恭介が自分に寄せてくれていた信頼と、自分の小ささの落差に、顔から火が出そうだった。
「勘違いする気持ちもわかるけど、今日はそういうのじゃないんだ」
「うん、ごめんね……。私のこと嫌いになってない?」
不安そうに覗き込んでくるカナに、恭介は思わず肩の力を抜いた。
「あはは、なるわけないだろ」
拍子抜けするような恭介の笑い声を聞いて、カナはほっと胸を撫で下ろすと同時に、自分のことばかり気にしていた愚かさが急に恥ずかしくなった。
「恭介さん、優しいんだね」
「今気付いたのかよ」
恭介は笑いながらカナの頭をポンと叩いた。
気まずさと気恥ずかしさで真っ赤になった顔を隠すように、カナは恭介の胸元に小さく額を押し付けた。正論で返された恥ずかしさは消えないけれど、この人の持つ当たり前の優しさに、改めて静かに引き込まれていく夜だった。




