完全支配
夕暮れの街並みは少しずつ橙色から群青色へと溶け込んでいた。
「恭介さん、歩くのちょっと早い」
となりに並ぶカナが、少しだけ歩幅を狭めながら恭介の袖口を軽く引っ張る。いつもの、少し甘えるような声。恭介は「あ、悪い」と歩調を緩め、ふたりで並んで歩道を歩いていた。穏やかで、何の変哲もない日常のひとコマだった。
だが、その平穏は、歩道の向こうから歩いてくる一人の女性によって一瞬で砕け散った。
すれ違の数メートル手前で、恭介の足が鈍くなる。
凛だった。
グランピングのあの熱い夜以来――髪型が少し変わり、大人びた雰囲気を纏っているが、見間違えるはずもない。
向こうも恭介に気づき、一瞬だけ目を見開く。
お互いの口元から、声にならない「あ」が漏れた。
次の瞬間、凛の視線が恭介の隣にいるカナへと滑る。すべてを瞬時に察したように、凛は崩すことのない大人の余裕を見せると、ニコッと小さく笑い、事務的な会釈をした。
恭介も咄嗟に、何事もないフリをして軽く首を振って応える。そして、一秒でも早くその場を離れたい一心で、そのまま前を向いて歩き続けた。
(……よし、これでやり過ごせた)
恭介が密かに胸を撫で下ろし、数歩踏み出した、その直後だった。
隣を歩いていたはずのカナの足音が、途絶えた。
カナは恭介のことなど目に入っていないかのように、くるりと体を翻し、通り過ぎたばかりの凛の背中をじっと見つめていた。
そして――遠ざかりかけていた凛もまた、ふと足を止め、振り返ったのだった。
カナだけが足を止め、凛の背中を射抜くように見つめている。そして凛もまた、自分を見つめるカナの視線に気づいて振り返った。
夕闇が迫る街角で、すれ違った二人の女の視線がまっすぐに交差する。
凛の浮かべる大人の余裕と、カナの静かな眼光。時間にすればわずか二、三秒。だが、息が詰まるような濃密な沈黙が、二人を繋ぐ空気の中に生じた。
凛はもう一度だけ静かに微笑むと、今度こそ振り返ることなく街の雑踏の中へ消えていった。
カナはゆっくりと恭介の方へ向き直った。その瞳からは、さっきまで浮かべていた甘い光が跡形もなく消え去っていた。
何も言わず、カナは恭介の隣に戻り、再び歩き出す。
手は繋がない。歩幅も合わせない。
カナの小さな肩から漂う静かな冷気が、恭介の背筋をじわじわと凍らせていった。
アスファルトを踏みしめる二人の足音だけが、やけに大きく響いていた。
恭介は前だけを向き、必死に平静を装って歩き続けていた。振り返らなかったのは正解だったはずだ。余計な未練も関心もないとアピールできたはずだった。
だが、あの瞬間にカナだけが足を止め、二人で見つめ合っていた光景が頭から離れない。
心臓が嫌なリズムで跳ね上がり、脇の下を冷たい汗が伝う。何でもないフリをして「今日の晩飯、何にする?」とでも話しかけようとしたが、喉が引きつって声にならない。
不意に、カナの足がピタリと止まった。
街頭の街灯が、カナの影を路上に長く落としている。恭介も慌てて足を止めた。
「……知り合い?」
前を向いたまま、カナが低く静かな声で問いかけてきた。怒鳴るでもなく、感情を荒らげるでもない。だからこそ、その声は不気味なほど重かった。
「え? あぁ……うん」
できるだけ自然なトーンを装い、恭介は生唾を飲み込んだ。
「ん? 誰?」
「前に、一緒に仕事したことある人だよ」
「……へえ」
カナがゆっくりと振り返る。街灯の光を反射するその瞳には、さっきまでの柔らかい温もりは微塵もなく、男の嘘を絶対に逃さない冷酷な光が宿っていた。
「仕事関係の人だったら、普通に話とかするよね?」
「……カナが一緒だったから、気を遣って遠慮したんだろ。俺もそのまま歩いてたし」
「それもおかしよね?」
首を少し傾げながら、カナが攻め立てる。言葉のナイフが、恭介の薄い言い訳を正確に切り刻んでいく。
「恭介さんはまっすぐ歩いてたのに、なんであの子は振り返ったのかな? 私が振り返ったら、あの子も振り返って私を見たの。」
「……たまたまだろ。気になったんじゃないか?」
「たまたま、ね」
カナが一歩、恭介へと歩み寄る。逃げ場を塞ぐように至近距離で立ち止まり、じっと恭介の目を見上げてきた。
「あの子、誰?」
「だから……前に仕事を一緒にした人だって」
一瞬の静寂。夜の冷たい空気が二人の間に停滞する。 カナは小さく、短く息を吐くと、一段低い声でゆっくりと念を押した。
「もう一度、聞くよ? あの方、誰?」
『あの子』から『あの方』へと言い直された言葉の重みに、恭介の背筋にゾクリと寒気が走る。ごまかしが一切通用しない境界線を超えてしまったことを、恭介は痛感していた。
「……本当に、仕事で関係した人だよ」
絞り出すように答えた恭介に対し、カナは表情一つ変えずに言った。
「ふーん」
それ以上は何も追及せず、カナはくるりと背を向け、再び歩き出した。
追及が止んだわけではない。ただ、問い詰める段階から「判定」を下す段階へ移行しただけだ。手も繋がず、歩幅も合わせないまま、二人は氷のように冷え切った沈黙を引きずって家路を辿った。
玄関のドアがカチャンと重い音を立てて閉まった瞬間、部屋の中に張りつめていた緊張が一気に弾けた。
靴を脱ぎ捨て、上着を脱ごうとした恭介の背中に、カナの声が突き刺さる。
「恭介さん、あの子と何かあったよね? ヤってるよね?」
「は、はぁ!? な、なに言ってんだよ! そんなわけないだろ!」
あまりにも突飛で容赦のない言葉に、恭介の声が大きく裏返った。動揺を隠すようにあからさまに苛立った仕草で上着を脱ぎ捨て、ソファへ乱暴に投げつける。
だが、背中にはびっしりと嫌な汗が滲み出ていた。
「隠し事?」
カナは静かな声のまま、恭介の逃げ道を塞ぐように問いを重ねてくる。
「めんどくさいこと言うなよ」
「あの子、私より若いよね?」
「……たぶん、そうかな」
「ふーん。良かった?」
「なにが?」
「私より良かったかって聞いてるの」
淡々としたトーンでありながら、ナイフのように鋭い言葉が恭介の胸を深く抉る。
「は? そんなことしてもいないのに、わけわからないこと言うなよ!」
恭介は語気を強めて言い返したが、必死につくった怒りの表情とは裏腹に、心臓は早鐘のように打っていた。グランピングの夜、熱い肌の重ね合い、あの淫らで濃厚な時間――脳裏に焼き付いた記憶を必死に押し殺そうとすればするほど、カナの放つ冷ややかで威圧的な視線が重くのしかかってくる。
「気持ち悪い。もう私のそばに来ないで。ほんとに気持ち悪い」
カナの口から漏れ出たのは、感情のない、冷え切った拒絶だった。
「なんでだよ。濡れ衣だろ」
「他の女の人とそういうことした後に、私に近寄らないで」
「考えすぎだろ!」
恭介は必死に強い言葉を返し、平然を装おうとした。だが、声のどこかに混ざる微かな揺らぎを、カナは見逃さない。
「はぁ……冤罪だな。そんなに言うなら、もうそれでいいよ…」
本当のことがバレる怖さと、これ以上追及されることへの焦りが、最悪な形の開き直りとなって口をついて出る。
「ほらね」
「そうやって決めつけるなら、もうそれでいいわ。はいはい」
投げやりな態度を崩さず、恭介はソファへ腰を下ろし、逃げるようにポケットからスマホを取り出した。
「『はいはい』って……私、本気で話してるんだけど。そうやって都合が悪くなると子どもみたいに投げ出すの、本当に卑怯だよ」
カナの声は、もう怒りすら通り越してどこか遠い場所から響いているようだった。いつもなら「返事は『はい』一回!」と笑いながら可愛らしく叱ってくれたはずの場所には、アイスピックのように冷たい沈黙だけが残された。
「何度否定しても、無駄なんだろ?」
静まり返った部屋で、恭介は絞り出すように声を張った。
「だって、そうなんだから、仕方ないでしょ?」
「自分の考えが絶対正しいと思うなよ…」
「思ってないよ。事実を言ってるだけ」
「だから……事実じゃないだろ……」
必死に声を落とし、平然を装おうとする恭介。しかし、一瞬の静寂の後、カナはゆっくりと振り返った。その瞳は、逃げ道をすべて塞ぐように恭介を鋭く見つめている。
「ふーん…。じゃあ、最後にもう1度だけ聞くよ? その後に事実がわかったら覚悟してね。あの子と何かあったよね?」
究極の選択を突きつけられ、恭介の喉が詰まる。ここで認めるわけにはいかない。絶対に、墓場まで持っていくしかない――。恭介は覚悟を決め、カナの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「何もない」
息を呑むような沈黙が二人を包み込む。カナは数秒間、恭介の目をじっと見つめ続けた後、小さく、短く息を吐いた。
「わかった。じゃあ、それを信じるからね」
感情の読めない声でそう言うと、カナは上着をハンガーにかけ、黙々と室内を片付け始めた。許されたわけでも、疑惑が晴れたわけでもない。「信じる」という言葉の裏に隠されたずっしりと重い警告に、恭介の背筋には冷や汗が吹き出していた。
「信じるからね」と言い残したカナは、その後、恭介と一切の言葉を交わさなかった。
リビングに漂う沈黙の重さに耐えかね、恭介は逃げるように「……先にお風呂、入るよ」と声をかけた。カナは背中を向けたまま、短く「ん」とだけ返し、洗面所の掃除を黙々と続けていた。
服を脱ぎ捨て、浴室に入る。熱いシャワーを頭から浴び、顔を洗っても、胸の奥につかえた冷たいプレッシャーは一向に消えなかった。あのすれ違いざまの光景、リビングでの冷酷な問い詰め、そして「信じる」という重い脅迫のような言葉が、頭の中で渦を巻いていた。
(これでいい……嘘をつき通すしかないんだ……)
そう自分に言い聞かせ、目を閉じてシャワーを浴びていた、その時だった。
カチャン、と浴室のドアが開く音がした。
湯気で白く霞む空間に、カナが静かに入ってきた。
「なんだよ……?」
突然のことに、恭介は咄嗟に身体をすくませた。
「ん? いけない?」
「いや、いけないことはないけど……」
戸惑う恭介を気にする様子もなく、カナは服を着たまま、シャワーの横に膝をついてしゃがみ込んだ。
ボトルのノズルを押し、手のひらにたっぷりとボディソープを取る。泡立てる間もなく、カナはその濡れた手のひらを恭介の肩へ直接押し当てた。
「……っ」
ヌルリとした感触とともに、カナの指先が強く肌に食い込む。
首元から胸元、そして腕へ。滑らかな手が、逃げ場を塞ぐような、言い聞かせるような強さで皮膚をなぞっていく。洗われているというより、自分以外の痕跡を強引に削ぎ落とし、自分の匂いで塗りつぶそうとしているかのような生々しい手つきだった。
「……私が1番いいでしょ?」
カナが下から覗き込んできた。その瞳は、まったく笑っていなかった。
「……え?」
「私といる時が、1番いいでしょ?」
胸元をなぞる指先に、少しだけ力がこもる。爪がうっすらと肌を立てるような感触に、恭介の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。
「答えは?」
耳元で低く囁かれ、恭介は息を呑んだ。
自分を想い、自分に執着してくれる姿には、胸が締め付けられるような愛おしさを覚える。しかし同時に、一歩でも間違えればすべてを打ち砕かれそうな、ゾッとするような恐怖が全身を支配していた。
「……うん」
かすれた声でそう答えると、カナの唇がわずかに緩んだ。
「うん。……それでいいの」
短く呟くと、カナは立ち上がり、一度も振り向くことなく浴室を出て行った。
残された恭介は、自分の体に残るカナの手の感触とボディソープの香りに包まれながら、二度と逃れられない深い沼のふちに立たされていることを実感していた。
体を拭き、脱衣所を出てベッドルームのドアを開けると、部屋の灯りは消されていた。
街灯の薄かりだけが差し込む暗がりの中、ベッドの端にカナが座っていた。
「カナ……?」
恭介の足が止まる。
そこにいたのは、いつもの清楚な装いとは全く異なる姿だった。肌がうっすらと透ける黒いレースのランジェリー。普段のカナなら決して選ばないような、官能的で直接的な仕掛け。
だが、彼女の表情には甘さも、男を誘惑するような媚びも一切なかった。ただ静かに、冷ややかに見下ろしている。ただ、圧倒的な主導権を握った女の、生々しい視線だけが落ちてくる。
恭介がベッドの縁に腰を下ろすと、カナは無言のまま恭介の膝の上に跨がり、ゆっくりと自分の体重を乗せてきた。
薄いレース越しに伝わる、熱い肌の温もり。
カナは恭介の首元に両手を回すと、その喉仏のあたりを指先でじわじわと圧迫するように撫で上げた。逃げ場を完全に塞ぐような重い視線が、暗闇の中で恭介の瞳を捉えて離さない。
「恭介さんはずっと私といるんでしょ?」
静かで、平坦な声。しかし、そこにはどんな叫びよりも重い「決定」が含まれていた。
「……当たり前だろ」
両腕の力を少し強め、恭介の首元に深く顔をうずめた。
「うん、それでいいの」
その声は驚くほど優しく、どこか穏やかですらあった。
ただ、静かに、そして当たり前のように自分を包み込んでくるぬくもり。だが、その純粋すぎる柔らかさゆえに、恭介の胸の奥には一層深い圧迫感が広がっていった。
疑いが完全に晴れたわけでも、許されたわけでもない。
「信じる」と言いながらも、その瞳に宿る熱い炎は、男の嘘を絶対に許さず、二度と自分以外の女へ視線すら向かわせないという静かな決意そのものだった。
その瞳に見たメラメラと燃える炎の余韻が、恭介の背筋を凍らせていく。
静まり返ったベッドルームで、恭介はその燃えるような執着の渦に巻かれながら、二度と逃れられない深い支配の中に身を委ねるしかなかった。




