小さな母親
休日の夕方、街が少しずつ橙色に染まり始める時間帯。近所のスーパーは、夕飯の献立を考える家族連れやカップルでほどよく賑わっていた。
「今日はね、ハンバーグにするから」
宣言しながら、カナはテキパキとした手つきで買い物カートを推し進めていく。
同棲生活も板についてきたカナは、最近、そのテキパキ感に輪をかけてどこか頼もしい雰囲気を漂わせるようになっている。
「えーっと、合い挽き肉と、玉ねぎと……パン粉はあるから、あとは……」
ブツブツと献立のメモを反芻しながら、精肉コーナーで真剣な眼差しを肉のパックに向けるカナ。そのすぐ横で、恭介は手持ち無沙汰そうにぶらぶらと歩いていた。
「お、これ美味そうだな」
恭介が足を止め、精肉棚の最上段に置かれた、綺麗なサシの入った厚切りの国産和牛サーロインステーキのパックを手にとった。ズッシリとした重みを確かめるようにじっと見つめていると、横からスッと鋭い視線が飛んでくる。
「買わないもの触らないでね」
一切の無駄がない、短く冷ややかな指摘。
「へい」
恭介は大人しくステーキ肉を元の場所へと戻した。 カナはチラリとそれを確認すると、手際よく手頃な価格の合い挽き肉パックをカートへ放り込み、迷いのない足取りで次のコーナーへと進んでいく。
続いて向かったのは飲料コーナーだった。 ここでカナが朝食用の牛乳とジュースを選んでいる間、恭介は清涼飲料水や炭酸水の棚の前で腕組みをし、深刻な顔で固まっていた。
「……んー」
「ちょっと、いつまで選んでるの? 早く決めなさいよ」
牛乳パックをカートに入れたカナが、じっと宙を見つめてフリーズしている恭介の横顔を覗き込む。
「ルイボスにするか普通の緑茶にするか……あと、この新商品の炭酸水もちょっと気になってて」
「お茶は家にある緑茶のパックでいいでしょ。炭酸水が欲しいなら一本だけにして」
テキパキと指示を飛ばすカナの横で、恭介は「んー……」とまだ未練たらたらな声を漏らしながら、今度は隣のお酒コーナーへとじりじりと移動した。棚にずらりと並んだワインボトルを眺め、一本の赤ワインのラベルを手で撫でる。
「今日は買わないよ。また今度ね」
恭介が口を開く前に、先回りしたカナのシャットアウトが飛んできた。
「まだ何も言ってねぇだろ」
「買おうとしてた顔だったでしょ。今日はハンバーグなんだから、ビールがあるからそれでいいでしょ。はい、レジ行くよ」
恭介の思考を完全に読み切っているカナは、すれ違いざまに恭介の腕をかるく引き、レジへと向かって歩き出す。買い物を終え、会計を済ませた後も、恭介の足取りはどこか重たかった。
買い物袋をひとつ手に提げた恭介は、前を行くカナの後ろを、だらだらと足を引っ張るようにして歩く。
「ちょっと、早くしてよ。もう帰るよ」
振り返ったカナが、腰に手を当てて呆れ顔で恭介を待つ。その立ち姿といい、言い放つ言葉のキレといい、恭介の頭の中にひとつの確固たるイメージが浮かび上がっていた。
「母親みたいなことばかり言うなよ」
買い出し袋を持ち直し、恭介が小さく文句を言うと、カナは即座に言い返した。
「恭介さんがちゃんとしないからでしょ」
「してるだろ」
「どこがよ。お肉は余計なもの触るし、お茶ひとつでいつまでも迷うし、買わないワインをじーっと見てるし。子供と一緒じゃない」
ズバズバと切って捨てられる。
「男にはロマンってものがあるんだよ」
カナは小さく息を吐いて、呆れたように手を開いてみせた。
「はいはい、わかったわかった。いくよ」
「……ほら」
恭介はハッとしたように指を指した。
「いまの『はいはい、わかったわかった』とか、それが母親みたいだって言ってるんだよ」
完全に子どもをあしらう時のトーンだった。だが、カナは恭介の指摘に怒るでもなく、照れるでもなく、フッと鼻から息を抜いて小さく笑った。
「母親でもなんでもいいよ。はい、いくよ」
「ちっ」
すれ違いざま、恭介の口からごく小さな舌打ちが漏れた。 歩みを止めたカナが、繋いだ手にキュッと力を込めて振り返る。その目は明らかに「逃がさない」と言っていた。
「ん? 舌打ちしたの? どうして?」
「いや、別に」
「別にじゃないでしょ? なんで? ワイン買ってもらえなかったから?」
「いや」
「じゃあ、なんでだろう?」
「……」
恭介が答えに詰まって気まずそうに横を向くと、カナはふっと満足そうに口元を緩めた。恭介が「子供扱いされたこと」に地味に拗ねているのも、その裏にあるプライドも、カナにはすべてお見通しだった。
「さ、早く帰るよ」
カナは繋いだ手にくいっと力を込め、まるで甘える子供の手を引っ張るように恭介を先導して歩き出す。
恭介は数歩後ろを歩きながら、繋がれた手のぬくもりをぼんやりと見つめた。普段の買い物や生活の段取りにおいては、カナが主導権を握って仕切ってくれている方が驚くほどスムーズに、円滑に回る。献立に頭を悩ませることもなければ、スーパーの棚の前で無駄に時間を浪費することもない。俺は余計な口出しをしないほうがいいな
恭介は密かにそう納得していた。 自分が妙なこだわりや男のプライドを出して引っかき回すより、カナのペースに大人しく乗っかっている方がお互いにとって一番快適なのだ。
「ねぇ、聞いてる? 」
前を歩くカナが、振り返りもせずに言った。その声には何の嫌味もなく、ただ心地よいテンポだけが乗っている。
「はいはい、わかってますよ」
「『はい』は一回!」
「はい」
恭介は口元を少しだけ緩め、繋いだ手に優しく力を込め返した。
帰宅して買い物袋をキッチンへ置くと、静かな部屋にスーパーの余韻が残っていた。
恭介は上着を脱ぎながら、ソファに腰を下ろしてぽつりと言った。
「……ほんとに言い方とかお母さんみたいになってきてないか?」
「そんなことないよ。2人ともダラダラしてたらダメでしょ?」
カナは冷蔵庫にパックを手際よく詰め込みながら、振り返りもせずに答える。
「まー、そうだね」
「普通にしてるだけだよ」
カナはどこ吹く風といった様子で、エプロンの紐をキュッと結んだ。恭介はそんなカナの背中を眺めながら、ふと思いついたように話題を変える。
「あ、そういえば、嫁にパパって呼ばれてるな連れがいるわ」
「あー、子供を持つとそういうのあるね。奥さんのことをママって呼んだり」
手を動かしながら、カナが頷く。
「パパー、これお願い、みたいな」
「うんうん」
「俺はやだけどな」
不快そうに眉をひそめる恭介に、カナは手をとめてクスッと笑った。
「なんでよ、パパ、いいじゃない」
「やめろよ」
恭介は脱いだ上着とシャツを手に持つと、どこかわざとらしい笑みを浮かべ、キッチンに立つカナへ声をかけた。
「ママ、これどうするの?」
意地悪なからかいを込めた一言に、カナはパッと振り返った。怒るどころか、余裕たっぷりの表情でニコッと微笑む。
「うん? それは洗濯機でしょ」
少しも動じず、当然のように返されてしまい、恭介は肩透かしを喰らった格好になった。
「なにか文句ある? ほら、洗濯機に入れたら手洗ってきてね。ご飯できちゃうよ」
「はいはい」
エプロン姿で手際よくフライパンを振るカナの背中に、恭介は苦笑いを漏らすしかなかった。
カナの手の上で転がされるこの感じは、やっぱりどこか悔しい。
「隣のおばちゃんは、おばちゃん、だろ? カナだっておばさんじゃん」
洗濯カゴに服を放り込みながら、調子に乗った恭介がぼそりと呟く。
「ん? なんて?」
フライパンを動かす手がピタリと止まった。 ゆっくりと振り返ったカナの笑顔からは、一切の目が笑っていなかった。声のボリュームと、背後に見えないオーラを背負った圧力に、恭介の背筋に冷たい汗が伝う。
「い、いや、カナはお姉さんだな」
生命の危険を察知した恭介は、光の速さで前言を撤回した。
「なーに?聞こえなかったから、もう一回言ってみて?」
「カナはおばさんというよりお姉さんだな。うん、お姉さんだよ」
恭介がわざとらしく自分に言い聞かせるように大きく頷くと、カナは満足げに眉を下げて、ニカッと満面の笑みを浮かべた。
「そうだよね! じゃあ、お姉さんのために箸とか出してくれる?」
恭介は素直に食器棚へ向かい、二人分の箸とランチョンマットを取り出した。
先ほどまでの「おばさん」発言で冷や汗をかかされたものの、こうして上機嫌に鼻歌を口ずさみながら料理の仕上げをするカナの後ろ姿を見ていると、自然と口元が緩んでしまう。
テーブルの上に手際よく箸を並べ終えると、ちょうど良いタイミングでジューシーな肉汁の香りが部屋いっぱいに広がり始めた。
「はい、お待たせ! 特製ハンバーグ出来上がり」
カナがアツアツの皿を運んできて、恭介の目の前にポンと置く。
「おー、美味そう!いただきます」
手を合わせて箸を伸ばす恭介を、カナはどこか誇らしげに、そして優しく目を細めながら見つめていた。仕切られたり怒られたりしながらも、結局はこの居心地の良さにすべてを持っていかれてしまう。恭介は目の前のハンバーグを口に運びながら、これからもこの「可愛いお姉さん」の手の上で転がされていくのだろうな、と静かに確信していた。
食卓でジューシーなハンバーグを頬張りながら、カナがふと思い出したように箸を止めた。
「そういえばさ、恭介さんってさんまとか食べるんだっけ?」
「いや、どちらかというと嫌いかな」
ハンバーグを口に運んでいた恭介が、即座に首を振る。
「えー、美味しいのに。体にもいいのよ? なんで?」
「骨があるじゃん」
「え? どんな魚にだって骨はあるでしょう?」
呆れたように目を丸くするカナに、恭介は至極真面目な顔で言い返した。
「いや、取るのが面倒だし、うまく取れないんだよ。だから怖いだろ」
ノドに刺さったらどうするんだ、と言わんばかりの恭介の理屈に、カナは一瞬ポカンとした後、吹き出すのを耐えるように口元を押さえた。外では頼れる大人の男として振る舞っている恭介が、まさか「魚の骨がうまく取れなくて怖い」なんて理由で敬遠していたとは思いもしなかったのだ。
「ふふ、なにそれ。子どもみたいなこと言って」
「子どもじゃねぇよ。面倒なんだから、それなら食べなくていいよ」
開き直る恭介を見て、カナの胸の奥から湧き上がってきたのは、呆れを通り越した愛おしさと、手のかかる男を甲斐甲斐しくお世話したいという強い「母性」だった。
「んもう、私が取ってあげるから、明日買ってくるね」
「……え?」
「私がきれいに骨を取って、身だけにしてあげるから。それなら食べられるでしょ?」
胸を張って頼もしく言い切るカナに、恭介はぐうの音も出ない。
「いや、そこまでしてもらわなくても……」
「ダメ。旬のものはちゃんと食べないとダメよ。ほら、付け合わせのブロッコリー残さないで食べること」
「ちっ」
「舌打ちしない!」
ビシッと人差し指を突きつけられ、恭介は思わず口をつぐんだ。
外では何食わぬ顔で大人をやっているはずなのに、家の中に一歩入ればこのザマだ。魚の骨が面倒だと言えば骨を取ると言われ、皿の端に追いやった緑色の野菜は逃さず見咎められる。
「……ブロッコリーくらい後で食うよ」
「絶対残すつもりだったでしょ。目線が『どうやって残そうか』って言ってたよ」
恭介は大きな溜息をひとつ吐き出すと、観念してブロッコリーを箸でつまみ、口の中へ放り込んだ。モグモグと噛み下しながら、目の前で嬉しそうに目を細めるカナを睨みつける。
「ほら、食べた」
「はい、よく出来ました」
口の中に広がるブロッコリーの青臭さ。そして、部屋を満たす香ばしいソースの匂い。カナの手の上で転がされ、甲斐甲斐しく手懐けられていく。
「明日、スーパーで一番立派なさんま買ってくるからね。楽しみにしてて」
恋人同士だった頃は、格好悪いところを見せまいと互いに少しだけ背伸びをしていた。けれど、同じ屋根の下で暮らし、日常を重ねていくうちに、いつしか互いの不器用さも手のかかるところも全部包み込めるようになっていた。
胸を跳ねさせるためだけの「恋人」から、日々の暮らしを共に支え合い、互いを慈しむ「家族」へ。
目の前で満足そうに微笑む『小さな母親』のぬくもりに身を委ねながら、恭介はこの心地よい手の上で、これからもずっと転がされていくのだろうと穏やかに確信していた。




