フォトジェニック
食卓から立ち上る湯気の向こうで、不意に澄んだ電子音が響いた。
「カシャ」
「……ちょっと、恭介さん。最近いつも写真撮ってない?」
カナは、箸を止めて向かいに座る恭介をじっと睨みつけた。手持ちのスマホを片手で構え、何食わぬ顔で画面を覗き込んでいる恭介は、視線すら上げずに淡々と答える。
「あぁ、そうだね」
「そうだね、じゃなくて。どうして? 私の料理もいつも撮るよね?」
「うん。残しておきたいからかな」
「今更?」
「遅いぐらいだったわ」
さらりと返された言葉に、カナの胸がトクと跳ねた。 恭介という男は、普段から感情を大きく表に出さない。不器用で、無口で、思っていることの半分も言葉にしてくれない癖に、時折こういう不意打ちのような台詞を素知らぬ顔で投げてくる。
「盛り付けも気を遣うわ……」
動揺を隠すように照れ隠しの文句を口にした瞬間、目の前で再びレンズがこちらを捉えた。
「カシャ」
「ちょっと!」
「いいじゃん。あとで見返せるだろ?」
「もう……せめて撮るなら言ってよ」
文句を言いながらも、カナの頬はほんのりと赤く染まっていた。
最初はそんな風に、不意にスマホを向けられるたびに身構えたり、恥ずかしがったりしていたカナだったが、人間の慣れというのは恐ろしいもので、日が経つにつれてその感覚は急速に麻痺していった。
数週間もすれば、恭介がスマホを構えた気配を察知しただけで、カナは自然とカメラ目線を作るようになった。
リビングの白い壁を背にしてニコッと首を傾げてみせたり、わざとらしく頬を膨らませてあざとく怒った顔を作ってみせたり。 新しい服を買った日などは、その調子乗りっぷりに拍車がかかった。
「恭介さん見て見て! このワンピ、後ろの切り替えが可愛くない!?」
部屋の中で一人ファッションショーを始めたカナは、くるりと一回転してモデル気取りでキメポーズを作ってみせる。
「カシャ」
「ちょっと見せて! 今の可愛く撮れた!?」
恭介の腕に飛びつき、画面を覗き込む。そこには、ライトの下で上機嫌に笑う自分が写っていた。 恭介は「はいはい」と苦笑しながらも、カナがポーズを変えるたびに素直にシャッターを押し続けている。
「そんなに写真撮るのが好きなら、本格的な一眼レフとか買えばいいのに。もっと綺麗に撮れるんじゃない?」
ソファに並んで座り、恭介のスマホのアルバムを遡りながらカナが尋ねると、恭介は画面をフリックする手を止めずに短く答えた。
「でも、本格的なカメラだとちょっと大袈裟だから、これくらいでいいんだよ」
重たいレンズを構えられて身構えるような写真ではなく、ただ同じ空間で息をして、同じ景色を見ているそのままの距離感。それを残したいのだという恭介なりのこだわりが、その短い一言に詰まっていた。
「ふーん……」
カナは恭介の横顔を盗み見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
アルバムの中には、特別な旅行の写真だけではなく、焦げた玉子焼き、買い物帰りの後ろ姿、テレビを見て爆笑している間抜けな顔、うたた寝している無防備な顔――カナ自身すら気づいていなかった「日常の切り片」が、敷き詰められている。
「写真を見るとその時のことを思い出すだろ? それがいいんだよな」
「あ、わかる。そうだね」
昔の写真を指で広げながら、カナも小さく頷いた。 この穏やかで愛おしい日々が、恭介のスマホの中に着実に積み重なっている。その事実だけで、胸がいっぱいになる心地がしていた。
――そう、あの余計な一言さえなければ。
画面をスクロールしていた恭介が、ふと何気ない風を装って、ぽつりと呟いたのだ。
「でも、こんなに写真撮って、もし何かあった時に消すのが面倒だな」
ピキッ、と部屋の空気が凍りついた。
カナの指先が止まり、ゆっくりと首が恭介の方へと向く。
「は? 何かってなに?」
恭介は自分の発言の危険性にまったく気づいていないご様子で、能天気に言葉を続けた。
「もし別れた時とか、全部消さないといけなくなるじゃん」
その瞬間、カナの頭の中で「ぶちん」と何かが切れる音がした。
「あ?」
温度のいっさいこもっていない声が漏れたと思うと、次の瞬間にはカナの全身から激しい怒気があふれ出し、顔が一気に沸騰した。
「なに? 今、何の時消さないといけないって言った!?」
怒声がリビングの天井に響き渡る。声が裏返りそうなほどの勢いに、恭介は「あ、やばい」という顔をして思わず肩を跳ねさせた。
「いや、なんでもない……例え話というか、もしもの話で……」
「例えでも変なこと言わないでよ、まったく!!」
立ち上がらんばかりの勢いで恭介を睨みつけるカナの目は、ガチで怒っていた。血走らんばかりの眼光と、いつもより三割増しの大きな声。恭介は完全に気圧され、身を引いた。
「ご、ごめん、ごめん……悪かったって」
「謝って済むと思ってるの!? もう写真フォルダを全部私の写真にしなさい。わかった!?」
「お、おう……」
冷や汗をかきながら頷く恭介から、カナは容赦なくスマホをひったくった。
「まず待ち受けからね。見せて」
過去の大量の画像の中から自分のお気に入りの一枚を探し始めた。 スクロールする手がピタリと止まる。
「あ、これがいいな。これ待ち受けにして」
カナが突きつけてきた画面に写っていたのは、バッチリメイクをしてカメラに向かってニコッと完璧な笑顔を浮かべているカナの画像だった。
恭介は露骨に嫌そうな顔をして、眉をひそめた。
「なんでだよ。外で恥ずかしいだろ」
「ね! わかった? これを待ち受けにして」
言葉の内容は問いかけだが、声のトーンと目力は完全なる脅迫だった。「拒否権はない」と全身で主張してくるカナの圧に、恭介はぐうの音も出ない。
「お、おう……」
恭介は諦めたようにスマホを受け取ると、画面を操作して、指定されたカナの満面ショットをロック画面とホーム画面の両方に設定した。
「見せて」
差し出された画面を確認し、カナは満足そうに「うん、よし」と小さく頷いた。
ガチ切れしていた時の鬼のような表情はどこへやら、カナはご満悦な様子でスマホをテーブルの真ん中にポンと置いた。
その直後だった。
――ピコン。
静かな室内に、メールの受信音が鳴り響いた。
暗転していたスマホの画面がパッと明るくなり、ディスプレイいっぱいに、化粧をしたカナの弾けるような笑顔が浮かび上がった。
テーブルの上で輝く自分の笑顔をチラリと見たカナは、フンと鼻を鳴らして誇らしげに胸を張る。 一方で、恭介はそれを見つめながら、頭を抱えるように深々と溜息を吐くのだった。
数日は我慢した。でも、このままじゃ恥ずかしすぎる。
仕事先でちょっと時間を確認するだけで、画面いっぱいに広がるカナの満面の笑み。レジで支払いをしようと画面を開くたびに、隣の人に見られているような気がして生きた心地がしない。
耐えかねた恭介は、ついに閃いた。
スマホの写真編集アプリを開き、待ち受けに指定されたカナの写真を表示する。 ペンのサイズを選び、黒色をタップ。恭介は真剣な目つきで画面に指を走らせた。
まず、繋がった立派な両眉。 鼻の下からは、勢いよくはみ出た極太の鼻毛を二本。 仕上げに、両頬へ渦を巻いた模様を描き足す。
完璧だ。
恭介はニヤリと口角を上げると、その「傑作」を待ち受け画面に設定した。
夕方、帰宅した恭介は、何食わぬ顔でテーブルの上にスマホをポンと置いた。 「ただいまー」と短く声をかけ、カバンを持ったまま自分の部屋へと向かう。
部屋のドアを少しだけ開け、壁に背をもたれさせながら、恭介は今か今かとその時を待った。時計の針が刻む音が、やけに耳につく。
数分後、静かなリビングから、かすかにメールの通知音が聞こえた。
――ピコン。
その直後だった。
「はぁぁぁぁーーー!?」
壁を突き破らんばかりの、カナの絶叫が家中に響き渡った。
(くはははははは!)
恭介はたまらず声を押し殺して大爆笑した。狙い通りのリアクションに、笑いが止まらない。
「ちょっと!! 恭介さん!! すぐ来なさい!!」
激怒したカナの怒声が飛んでくる。 恭介は必死に笑いを噛み殺すと、わざとらしくフッと息を整え、とぼけたふりをして部屋を出た。
「なんだよ?」
「なんだよ、じゃないわよ!! どういうことよ、これ!?」
テーブルの横で仁王立ちしたカナが、鬼の形相でスマホの画面を突きつけてくる。
そこには、繋がった眉毛に太い鼻毛、両頬に渦巻き模様を描かれながらも、元が笑顔なせいで絶妙に間抜けた表情を浮かべたカナの顔が、誇らしげに光り輝いていた。
「っ……ふ……あははははは!!」
「笑い事じゃないでしょ!! ちょっと、聞いてるの!?」
腹をよじらせて爆笑する恭介の横で、カナの怒気は増すばかりだった。顔を真っ赤にし、息を荒らげて仁王立ちしている。
このままではマジでヤバい――。
本気で身の危険を感じた恭介は、とっさに笑いを噛み殺すと、一歩踏み込んでカナの華奢な体を勢いよく腕の中に抱き寄せた。
「っ……ちょっと、やめてよ!」
突然のことに驚いたカナが、恭介の胸の中でジタバタと暴れる。恭介はその体にしっかりと腕をまわし、頭頂部に顎をのせるようにしてギュッと力を込めた。
「ごめん。ちょっとイタズラしただけ。反省してます」
耳元で低く囁かれた謝罪の言葉に、カナの抵抗がほんの少し弱まる。だが、怒りが完全に収まったわけではない。
「くだらないことしないでよ……ほんと、子供なんだから」
胸元から聞こえるカナの声には、まだ不満がたっぷりと燻っていた。恭介はくすりと小さく笑うと、腕の中の温もりを感じながら、胸元に埋もれた頭を優しく撫でた。
「でもさ、これはこれで可愛いと思うけど」
「そんなわけないでしょ! 」
バッと顔を上げたカナが、恭介の胸を拳で叩く。
「いや、元が良いからさ。何描いても愛嬌あるんだよ」
「嘘ばっかり! 」
文句を言いながらも、抱きしめられたままのカナの口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。




