冷酷2
ガチャリと、静まり返った玄関に鍵が回る音が響いた。
暗闇の中で目を冴えさせていたカナが、ベッドサイドの時計に目をやる。デジタル数字は、午前3時を過ぎたところを指していた。
カナは弾かれたようにベッドを抜け出し、リビングを突っ切って玄関へ向かった。
そこには、酒と夜風の匂いを纏い、靴を脱ごうとしている恭介の姿があった。どこで何をしていたのか、相変わらず冷え切った瞳でカナを見上げてくる。
「何してるのよ! 何も言わずに出ていって……!」
カナの叫び声にも、恭介は眉ひとつ動かさなかった。億劫そうに息を吐き出し、靴を揃えながら淡々と言い放つ。
「……言う必要あるのか?」
その他人事のような、バカにしたような一言が、カナの中で張り詰めていた何かをぷつりと切った。
視界が真っ赤に染まる。次の瞬間、カナの右手が空を切り、恭介の頬へと吸い込まれた。
バチンッ!
静まり返った玄関に、乾いた痛烈な音が激しく響き渡る。恭介の顔が大きく横へと持っていかれた。
「いい加減にしてよ……ッ!」
振り上げた手が震える。頬を赤く染めた恭介は、叩かれた箇所に手を当てることもせず、ただ冷めた眼差しでカナを睨み返した。その血の通っていない瞳を見た瞬間、カナの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
「……そんなに私のことが嫌なら、私が出ていけばいいんでしょ!?」
悔し涙がボロボロと溢れ出す中、自室へと駆け込んでいった。
泣きながら雑に服を着替え、財布とスマートフォンだけをひったくるように手に取った。
カナは乱暴に玄関のドアを開け放ち、夜の闇の中へ飛び出していった。パタン、と重い金属音が響き、鍵がかかる音もないまま静寂が戻ってくる。
暗い廊下に、恭介は一人ポツンと取り残された。
頬の火照りと共に、深夜の冷たい空気が玄関から流れ込んでくる。カナの激しい感情の嵐が去った後の部屋は、気味が悪いくらい静まり返っていた。
◇
翌朝。
恭介が重い目を開けると、いつものようにカナが朝食を作る音も、トーストの香ばしい匂いも一切なかった。隣のベッドはきれいに整えられたままで、カナが帰ってきた形跡はない。
「……ハァ」
深くため息をつき、恭介は一人でキッチンに立った。手早く自分の分の簡単な朝食を作り、喉に押し込むようにして平らげると、急いでスーツに着替えて会社へと向かった。カナの不在から目を背けるように、ただ淡々と朝のルーティンをこなした。
夕方、仕事を終えた恭介は重い足取りでマンションへ帰宅した。
鍵を開けてリビングに入ると、真っ先に目に入ったのは綺麗なキッチンだった。
今朝、自分が使いっぱなしにしてシンクに置いていったはずの皿やフライパンが、きれいに洗われて水切りラックに並べられている。食卓の上に置きっぱなしだった出張のお土産の箱も片付けられていた。
日中の間に、カナが一度部屋に戻ってきて片付けをしたのだ。
生活感だけがきれいに整えられ、人の気配だけが削ぎ落とされたリビング。恭介は鞄を持ったまま、ぽつんと立ち尽くした。
◇
ピンポーン。
部屋にインターホンの電子音が高く響き渡った。
(帰ってきたのか……?)
恭介は一瞬だけ淡い期待と緊張を胸に抱き、モニター画面に視線をやった。しかし、そこに映っていたのはカナではなく、彼女の親友であるサツキの姿だった。
恭介は通話ボタンを押し、少し戸惑いを含んだ声で問いかけた。
「……カナはいないよ?」
『うん、知ってる。ちょっと開けてほしいんです』
画面の中のサツキは、怒っている様子もなく落ち着いた表情をしていた。恭介は短く「あぁ」と応じ、オートロックの解除ボタンを押した。
数分後、玄関のベルが鳴った。
ピンポーン。
ガチャと鍵を開けてドアを引っ張ると、そこには手提げ袋を持ったサツキが立っていた。
「こんばんわー。入ってもいいですか?」
「あぁ、どうぞ……」
靴を脱ぎ、慣れた足取りでリビングへ入っていくサツキの後に続く。恭介は少し居心地の悪さを感じながら、もう一度念を押すように言った。
「カナはいないよ?」
「うん、大丈夫。カナはうちに来てます」
「……そうだったんだ。迷惑かけてごめん」
「ううん、全然大丈夫。とりあえず、飲も!」
サツキは手に提げていた袋から買ってきた缶チューハイを取り出すと、テーブルの上にポンと置き、手慣れた様子でプルタブを開けた。
「で、恭介さんはどうするの?」
缶を傾けながら、サツキが真っ直ぐ視線を投げてくる。
「ん? どうするって?」
「このまま別れるんですか?」
「……特に考えてないけど」
恭介が気怠そうに答えると、サツキはふっと口角を上げた。
「じゃあ、私と付き合うとか?」
「え?」
呆気にとられる恭介を見て、サツキは大声で笑った。
「あはは、冗談ですよ!」
重苦しい雰囲気に呑まれないよう、彼女なりに気を遣って場を和ませようとしているのが伝わってきた。サツキは真面目な顔に戻ると、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「カナにここに帰るように言うから、優しく迎えてあげて欲しいんです」
「あぁ……うん」
「お互い言いたいことはあるだろうけど、そこはなんとか! ね!」
「……うん」
「それにさ、カナに帰ってもらわないと私が男を呼べないでしょ? あはは!」
カラカラと笑うサツキの明るさに、恭介の頑なだった心も少しずつ毒気を抜かれていく。
「だから、恭介さんも広い心でカナを受け入れてほしいです!」
「……あぁ、わかった」
「たぶん、帰ってきたらカナは謝ると思うから。恭介さんも優しく! よし、これで解決ですね!」
自分の分のお酒をサッと飲み干すと、サツキはパンと膝を叩いて立ち上がった。
「飲んだし帰ろーっと。それじゃ、また。今度改めてまた来ますね。あ! このことはカナには内緒で」
「うん、ありがとう」
玄関まで見送り、ドアが閉まる。サツキの去った後の静寂の中で、恭介は一人深く息を吐き出した。
夜22時を回った頃、静まり返った部屋にガチャリと玄関の鍵が回る音がした。
カナだ。
リビングのドアがゆっくりと開き、カナが入ってきた。いつもなら真っ直ぐ恭介を見るはずの瞳は終始下を向けられ、小さく肩を落としている。
「……ただいま」
蚊の鳴くような声だった。恭介は意識して息を整え、極めて冷静さを保ちながら短く返した。
「……おう、おかえり」
感情を荒立てず、いつものトーンで接する恭介に、カナは驚いたように一瞬だけ視線を上げた。そして、意を決したように固く唇を結ぶと、深く頭を下げた。
「……あの……ごめんなさい」
「ん?……うん。俺のほうも、ごめんな」
サツキにこっぴどく説得されたか、あるいは説教でもされたのだろう。素直に謝ってくるカナの姿に、恭介もまた落ち着いた声で応えた。
カナは鼻をすする音を立てながら、不安そうに恭介の顔を伺う。
「……私、ここにいてもいい……?」
「おう。カナの家でもあるんだから、当然だろ」
その言葉を聞いた瞬間、カナの瞳から一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。緊張の糸が切れたように胸をなでおろし、溢れそうになる感情を押し殺しながら小さく頷く。
「……ありがとう……」
カナは小さく鼻をすすると、「お風呂入ってくるね」と言って脱衣所へ向かった。
パタンとドアが閉まり、しばらくするとシャワーの水音がリビングに微かに聞こえ始めた。
恭介は一人ソファに腰掛け、静まり返った部屋で天井を見つめていた。サツキのおかげで最悪の破綻は免れたものの、胸の奥につかえた重い塊は消えてくれない。
ふと、水音に交じって浴室から微かにヒック、ヒックと歪んだ息の音が漏れ聞こえてきた。
カナの泣き声だった。
シャワーの水音に重なるカナのすすり泣く声を聞きながら、恭介は静かに目を閉じた。
(……一時の気の迷いだったんだ)
出張先のあの一夜も、カナが胸に抱えているであろう葛藤も、すべてはすれ違いの中で追い詰められた一瞬の過ちに過ぎない。今さらそれを掘り返して傷を広げる必要なんて、どこにもなかった。
大切なのは、こうしてお互いが大切な場所へ戻り、再び向き合うことを選んだという事実だけだ。
しばらくして、お風呂から上がってきたカナは、少し目を赤くしながらも穏やかな表情を浮かべていた。
「上がったよ」
「おう。温まったか?」
「うん。……ちょっと長くなっちゃってごめんね」
「気にすんな」
恭介は優しく微笑むと、ソファーの隣をぽんぽんと叩いた。カナは少し照れくさそうに笑い、恭介の隣にちょこんと腰を下ろした。
言葉にして確かめ合う必要も、互いの秘密を暴き立てる必要もない。
些細な意地張りから始まり、嵐のように吹き荒れたすれ違いは、サツキの温かい介入と、二人の絆によってようやく凪を迎えた。少し遠回りをしたけれど、二人はまた、いつもの温かな日常へと歩み出し始めていた。




