冷酷
始まりは、本当にほんの小さなことだった。
連日の残業で疲れていた恭介は、リビングのソファーの上に脱ぎ捨てた上着と脱ぎっぱなしの靴下をそのままにして転がっていた。普段なら笑って片付けてくれるカナだったが、デパートの催事準備で立ちっぱなしだった彼女もまた、心身ともに限界を迎えていた。
「恭介さん、脱いだやつ、ちゃんと洗濯かごに入れてっていつも言ってるよね?」
「……後でやるよ。今、マジで疲れてんだ」
「後でって言っていつもそのままじゃない! 私だって今日すごく疲れて帰ってきてるんだけど!」
「じゃあ放っておけばいいだろ! 別に今すぐやんなくてもいいだろ!」
カッとなった恭介の強い言葉に、カナの顔が引きつった。言い返そうとした口をギュッと結び、カナは脱衣所に駆け込んでドアをバンと強く閉めた。
そのまま二人は口を利くことなく、背中を向け合ったまま重苦しい夜を明かした。
◇
翌朝。恭介は今日から2泊3日の出張だった。
目覚まし時計の音で起きたものの、リビングには嫌な緊張感が漂っている。カナは黙々と朝食の皿を洗い、恭介は無言で出張用のキャリーケースに荷物を詰め込んだ。
「ごめん」の一言が、どちらの口からも出ない。
靴を履いた恭介が玄関のドアノブに手をかける。振り返りもせず、低い声で言った。
「……行ってくる」
カナは背中を向けたまま、シンクの水音に紛れさせるように小さく答えた。
「……いってらっしゃい」
一度も目を合わせないまま、パタンとドアが閉まる音が廊下に響いた。
部屋に取り残されたカナは、静まり返った部屋でぽつんと立ち尽くしていた。玄関の方をじっと見つめ、ギュッと胸のあたりを掴む。
◇
出張初日。
恭介はキャリーケースを引いて新幹線に乗り込み、福岡へと向かっていた。胸の中には、今朝カナと目を合わせずに飛び出してきたことへの後悔とモヤモヤが重く居座っている。
今回の出張で同行するのは、フリーのデザイナーとして独立している佐藤レイカだった。実は若い頃に同じ会社で働いていた元同僚で、今回大きなプロジェクトで久しぶりに現場を共にすることになったのだ。
気心が知れているどころか、実を言えば昔、お互いに若気の至りで一度だけ一夜を共にした過去がある。
昼過ぎに合流した二人は、予定されていたクライアントとの打ち合わせや店舗視察などの業務をスムーズにこなしていった。レイカの手際の良さと相変わらずのセンスに助けられ、仕事は予定よりも早めに終了した。
宿泊先は、中洲にあるビジネスホテルだった。もちろん部屋は別々に取ってある。
「恭介、せっかくだし中洲で美味しいものでも食べに行かない?」
チェックインを済ませた後、レイカに誘われるまま夜の街へ繰り出した。
提灯の光が川面に揺れる中洲の居酒屋で、新鮮な刺身や名物料理をつつきながら酒を酌み交わす。昔の職場の失敗談や当時の上司の愚痴など、懐かしい思い出話に花が咲き、酒が進んだ。
「もう一軒行こうよ」
二軒目に選んだのは、通り沿いにあった落ち着いた雰囲気のワインバーだった。グラスを傾けながら当時の熱い仕事論を語り合い、思わず大きな声で大笑いしてしまう。ふと周りを見渡すと、静かにジャズが流れる店内でお客たちが穏やかに歓談しており、自分たちの声が少し浮いていることに気づいた。
「あ、ちょっと盛り上がりすぎちゃったね。店変える?」
「そうだな、ここ静かだし、遠慮して出よう」
「じゃあさ、コンビニで酒とおつまみ買い込んで、恭介の部屋で飲もうよ! まだ話し足りないし」
「まあ、それなら気兼ねなく飲めるか」
二人はコンビニで缶チューハイやハイボール、手軽なおつまみを大量に買い込み、恭介の部屋へと向かった。
ホテルの部屋に入り、ベッドの縁や椅子に腰掛けて再び乾杯する。酒が回るにつれて、会話はさらに昔のプライベートな話題へと踏み込んでいった。
「そういえばさ……昔、一回だけホテル行ったことあったよね」
缶ハイボールを傾けながら、レイカがふっといたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「……あぁ、あったな。若かったよ、お互い」
「ふふ、今もこうやってホテルで一緒にいるけどね」
意味深に微笑むレイカ。熱帯夜の中洲は湿気が高く、街を歩き回ったこともあってじんわりと汗をかいている。カナとの喧嘩のモヤモヤと酒の酔いを拭い去りたくて、恭介は立ち上がった。
「……俺、ちょっとシャワー浴びてきていいか?」
「うん、どうぞ。ゆっくりしてきてー」
浴室に入り、冷たい水と温かいシャワーを交互に浴びる。頭を冷やそうとしたものの、酒で火照った体と脳はうまく冷え切ってくれなかった。
「ふぅー、さっぱりしたわ」
Tシャツに着替えバスタオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、レイカが缶を片手にソファでくつろいでいた。
「あ、いいなー。私も浴びようかな」
「自分の部屋戻って浴びろよ」
「いいじゃないの。まだ飲むんでしょ? 部屋戻るの面倒だし、シャワー借りるね」
レイカは悪びれもせず立ち上がると、バスルームへと消えて行った。
しばらくして、湿気を含んだ甘い香りと共にレイカがシャワーから上がってきた。
「はぁー、スッキリした! さて、飲も飲も!」
そこから再び、お酒を飲みながらのトークが再開した。仕事への熱い想いやこれからの展望を語り合ううちに、長旅と移動の疲労がどっと押し寄せてくる。恭介は座っているのも疲れてしまい、シングルベッドの上にゴロンと横になった。
するとレイカも「私も疲れたー」と言って、恭介の隣にそのまま倒れ込んできた。
「おい、狭いだろ」
「いいじゃないの。減るもんじゃないし、昔からの知った仲なんだからさ」
狭いベッドで並んで上を向き、天井を見つめながら会話を続ける。かなり酔いが回っているレイカはお喋りが止まらず、身振り手振りを交えながら楽しそうに話し続けていた。
しかし、ふっと会話の合間に沈黙が訪れたときだった。
レイカがゆっくりと横を向き、恭介の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「……どした?」
「……ん?別に?」
レイカの顔が、恭介のすぐ目と鼻の先にある。酒の匂いとシャンプーの甘い香りが混ざり合い、恭介の鼻腔をくすぐった。濡れたようなレイカの瞳が、恭介をまっすぐに見つめている。
引き留める理性よりも、カナと喧嘩して傷ついていた自尊心と、酒による麻痺が勝った。
どちらからともなく顔が近づき、深く唇を重ね合わせた。
一度重なった唇は離れることなく、恭介の手は自然とレイカの服の裾へと伸び、脱がし始めようとする。レイカもまた拒むことなく、自ら体を少し浮かせて服を脱ぎ捨てる姿勢に入った。
中洲の夜の熱気が、重苦しく部屋の中に満ちていこうとしていた。
そして、次の日もまた同じことが繰り返された。
◇
恭介からの連絡は、LINEの一通すら入っていなかった。
スマートフォンの画面を何度も確認しては、ため息をつく。だが、カナの胸にあるのは寂しさだけではなかった。
(……なんで私から連絡しなきゃいけないの? 散らかしたのは恭介さんだし、先に逆ギレしてきたのも恭介さんじゃない。)
仕事を終えたバックヤードで、後輩の男性社員・岡本が声をかけてきた。
「カナさん、これからみんなで居酒屋行きますけど、カナさんも行きません?」
普段なら「恭介さんの晩ご飯作らなきゃいけないから」と速攻で断るカナだったが、今日は恭介もいない。それに、昨日からの喧嘩のモヤモヤが胸に渦巻いていて、とても一人で静かな部屋に帰りたくなかった。
「……うん、行く! 」
「えっ、カナさんが来るなんて珍しいですね!」
居酒屋に到着すると、職場のメンバーで大いに盛り上がった。
「カナさんが飲み会に来るなんて激レアじゃないですか〜!」
「私だってね、パァーッと飲みたい時くらいあるわよ!」
美味しい料理とお酒に囲まれ、カナはいつになく杯を重ねた。酒が回るにつれて、胸のモヤモヤが少しずつ麻痺していくような気がした。
やがて時間が経つにつれ、終電や家庭の都合で一人、また一人とポツポツ帰っていく。気づけば店に残っていたのは、カナと岡本の二人だけになっていた。
「カナさん、この後……もう一軒、少し飲みに行きませんか?」
岡本が少し声を落として、カナの顔を覗き込むように訊いてきた。
「えー……うん、まぁ、いいよ。行こうか」
二人は店を出て、近くの静かなバーへと向かった。
カウンター席に並んで座る。岡本はカナよりも二歳年下で、柔らかく優しそうな顔立ちをしている。決して嫌いなタイプではないし、それなりにモテるだろうなと以前から思っていた。確か、彼には同棲している彼女がいるはずだった。
グラスを傾けながら、職場の同僚の秘密や噂話で盛り上がる。
「ねぇ知ってる? うちの主任の奥さんって、実は隣の店舗の店長だったんだよ」
「えーっ! マジすか!? 全然知らなかったです!」
「ふふ、秘密だよ」
打ち解けた雰囲気の中、カナはふと思い出したように訊ねた。
「そういえば……岡本くん、彼女とはうまくいってるの?」
「まぁ、それなりに……ですね。カナさんは? 上手くいってます?」
「うーん……うちもまぁ、それなりに、だね」
カナが言葉を濁すと、岡本はじっとカナの横顔を見つめ、低く甘い声で言った。
「そうなんですね。それにしても、カナさんって全然老けませんよね」
「何言ってるのよ、もう。昔に比べたらひどいよ」
「いやいや、本当に。いつ見ても綺麗ですよ」
「は? 何言ってるのよ、飲みすぎじゃない? うふふ」
おだてられて悪い気はしなかった。恭介から突き放されたような寂しさを抱えていたカナにとって、岡本のストレートな言葉は心地よい毒のように体に染み渡っていった。
「……そろそろいい時間ですね。駅まで歩きましょうか」
「そうだね」
お会計を済ませ、二人は夜の街へ出た。駅へと続く道を並んで歩きながら、お互いのパートナーへの小さな不満や愚痴をこぼし合う。
街灯の光が届かない、少し暗い夜道を通っていたときだった。
ふいに岡本が足を止めた。
「カナさん」
振り返った瞬間、岡本の顔が間近に迫り、唇が重なった。
「え……」
一瞬、思考がフリーズした。しかし、恭介と喧嘩してできた胸のぽっかりと空いた大きな穴を埋めるように、カナは拒絶することなく静かに目を瞑った。
重なる唇の温もりに、寂しさが爆発しそうになる。カナは衝動に突き動かされるように、自ら岡本の腰に腕を回し、ギュッと抱き寄せてしまった。
岡本の息が荒くなり、カナの耳元で小さく囁いた。
「……ホテル、行きませんか?」
「え……うん」
恥ずかしさと熱っぽさの混ざった声で、返事をしてしまっていた。
二人は足取りを変え、妖しいネオンが揺れるホテル街へと向かって歩き出した。
(私、何やってるんだろう……)
頭の中で警鐘が鳴り響く。でも、抱きしめられたい。優しくされたい。誰かに愛されていると実感したい。恭介への意地と、寂しさと、岡本の優しさに流されていく自分に激しく困惑していた。
徐々にホテル街の建物が目と鼻の先に迫ってくる。
その時、脳裏にハッキリと浮かんだのは、朝「行ってくる」と言った恭介の寂しそうな横顔と、いつもの二人で過ごす温かい部屋の風景だった。
(……ダメ。絶対に、ダメだ)
カナは突然足を止め、岡本の腕を振り払うようにして小さく首を振った。
「……ごめんね。やっぱり、やめよう」
岡本は一瞬目を見開いたが、カナの真剣で固い表情を見て、すぐに察したように息を吐いた。
「……え、あ。はい、わかりました」
それ以上、岡本が追ってくることはなかった。二人は気まずい沈黙のまま駅へと向かい、改札の前で「お疲れ様でした」「気をつけてね」とだけ交わして別れた。
電車に乗り、一人でマンションへと帰る道すがら、カナは何度も胸を撫で下ろした。
(これで良かったんだ……絶対に行っちゃダメだった)
だが、部屋のドアを開け、静まり返ったリビングに足を踏み入れた瞬間、激しい罪悪感がカナを襲った。
一線は越えなかった。ホテルにも行かなかった。 でも、他の男とキスをした。それも、寂しさのあまり自分から相手の腰に手を回し、抱き寄せまでしてしまったのだ。
「最悪だ……私……」
カナはリビングの床に崩れ落ち、顔を覆った。
◇
夜20時を回った頃、静まり返った部屋にガチャリと玄関の鍵が開く音が響いた。
恭介の帰宅だった。
(あ! 帰ってきた!)
カナの胸が一瞬跳ね上がった。無事に帰ってきた安堵と嬉しさが込み上げたのも束の間、すぐに喧嘩の苛立ちと、昨夜キスをしてしまった猛烈な罪悪感が複雑に絡み合い、心をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
スーツケースを引きずりながらリビングに入ってきた恭介の表情は、暗いというよりは、どこかすっぽりと感情が抜け落ちたように冷ややかだった。出張先でレイカと一線を越えたことに対する悔恨や罪悪感すら、すでにどこかへ吹き飛んでいる様子だった。ただただ完全に冷めてしまっていた。
「……ただいま」
カナは視線を合わせないまま、ポツリと返した。
「……おかえり」
それ以上、どちらからも言葉を発しようとはしなかった。
恭介は面倒くさそうにさっさと自分の荷物の片付けに取り掛かり、カナは逃げるようにキッチンへ向かって夕食の準備を始めた。重苦しい沈黙が二人を包み込む。
ふとダイニングテーブルの上を見ると、恭介が置いたのであろう出張先のお菓子の箱が、適当にぽつんと乗せられていた。形式的な義理だけで買ってきたのが透けて見えるような置き方だった。
「……できたよ」
器を並べ終えたカナが小さく声をかける。
「……おう」
テーブルを挟んで向かい合い、箸を進める。以前なら「出張どうだった?」「今日こんなことがあってさ」と会話が弾んでいたはずの時間が、今はカチャカチャと食器が触れ合う無機質な音しか聞こえない。
カナはキスをしてしまった罪悪感を抱えつつ、恭介のどこか他人事のような冷め切った視線に必死で耐えていた。一方で恭介は、申し訳なさそうにする素振りすら一切なく、ただこの時間が早く終わればいいとでも言いたげな無関心な態度で、黙々と料理を口に運んでいた。
食べ終えると、恭介は皿を片付けることもせず、無言で自分の部屋へと引っ込んでしまった。カナは残された皿を洗う手をとめ、ため息をつきながら自分の部屋へと戻った。
ベッドに横たわり、天井を見つめながらカナは拳をギュッと握りしめる。
(なんなのよ、あいつ……! 2日も連絡してこなくて、帰ってきたらあんな態度……! 何も言うことないわけ!?)
自分が犯した過ちの痛みに耐えながらも、あまりにも冷淡で自分に関心を示さない恭介の態度に、カナの胸の中でフツフツと不満と苛立ちが再び燃え上がり始めていた。
カナはこういう時、昔から我慢ができないタイプだった。
胸の奥で渦巻く罪悪感と寂しさ、そして目の前の恭介の冷め切った態度に対する苛立ちが限界を迎え、一気に弾けた。
ドカドカと激しい足音を立てて廊下を歩き、恭介の部屋の前へ向かう。ノックもせず、勢いよくドアを乱暴に開け放った。
「なんなの?」
ベッドの上で面倒くさそうにスマホを眺めていた恭介が、冷めた目で顔を上げた。そこに申し訳なさや葛藤の色は一切なかった。
「……あ? 何が?」
「その態度よ。どういうつもり?」
「普通だけど?」
「普通じゃないでしょ! 何その冷たい言い方! ずっとウジウジして、全然男らしくないよ!」
恭介はフッと鼻で小さく笑うと、心底呆れたようにスマホを置いた。罪悪感どころか、目の前で感情的になっているカナの姿そのものに冷めきっていた。
「はいはい……うるせーな……」
恭介は気怠そうに吐き捨てると、ベッドから立ち上がった。
「真剣に話してるんだけど!」
「めんどくさいな。ちょっと外出てくるわ」
恭介はカナの存在を鼻から無視するようにクローゼットを開け、外出用の服に着替え始めた。話し合いに応じる価値すらないと言わんばかりの態度に、カナの堪忍袋の緒が切れた。
「待ちなさいよ!」
ガシッと恭介の腕を強く掴んで引き留める。
「……なんだよ」
恭介は眉ひとつ動かさず、冷ややかな視線でカナの手元を見下ろした。
「このままでいいと思ってるの!?」
「……別に、いいよ」
何ひとつ執着を感じさせない恭介の平然とした声に、カナの息が止まった。頭に血が上り、思ってもみない激しい言葉が口から飛び出していた。
「……は? じゃあ、もう私達終わるんだね!?」
恭介は振り払うことすら面倒だというように腕からカナの手をすっと滑り落とし、感情の籠もっていない声で短く返した。
「……そうかもな」
「……っ!」
元はといえば、ただの「脱ぎっぱなしの服」というほんの些細な喧嘩だったはずだった。それがお互いのすれ違いと過ち、そして恭介の完全に冷めきった態度によって、修復不能な決定的な亀裂へと姿を変えていく。
カナは悔しさとショックで涙を浮かべながら、血の通っていないような恭介の顔を鋭く睨みつけた。
「ったく……ダルいな」
恭介は頭を掻きむしると着替える気力すら失い、そのまま脱衣所へ向かってドアを閉めた。これ以上カナのヒステリックな声を聞くのも、不毛な押し問答に付き合うのも心底面倒くさかった。
浴室に入り、勢いよくシャワーをひねる。温かい水流が頭から落ち、体表面の汗を洗い流していく。だが、胸の奥にこびりついた冷え切った冷徹さは、どれだけ湯を浴びても温まることはなかった。
その時、バンッと大きな音を立てて浴室のドアが開いた。
湯気の中に立っていたのは、服を着たまま、怒りと悔しさで肩を激しく上下させているカナだった。
「なんだよ……入ってくるなよ」
恭介は顔の水を拭いもせず、心底鬱陶しそうにカナを見返した。
「どういうつもりか聞いてるの! 私たちは終わるんだよ!? 本当にいいの!?」
濡れた足元も気にせず踏み込んできたカナの叫びが、狭い浴室内に響き渡る。自分を引き留めてほしい、焦ってほしいという執着が透けて見える言葉。だが、今の恭介にはその必死さすらも、重苦しく鬱陶しいものにしか感じられなかった。
「……あぁ、わかったよ」
感情の欠片もない、短すぎる承諾。
「わかったって何よ!? なんでそんな他人事みたいなの!?」
カナの金切り声を取り合わず、恭介は無言でシャワーのコックを締めた。水音が止み、急に静まり返った浴室で、恭介はカナの脇をすり抜けて脱衣所へと出て行った。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
カナを無視し、恭介はバスタオルを手に取ると、淡々と濡れた髪と体を拭き始めた。タオル越しに響く己の息遣いだけが、やけに静かに聞こえる。
その時だった。
半開きになった浴室のドアの向こうから、ヒック、と歪んだ息の音が漏れ聞こえてきた。
「……っ……ヒック……うぁ……」
ポタポタと床を叩く水滴の音に交じって、溢れ出したカナの激しい泣き声が脱衣所まで響いてくる。
タオルで顔を拭う恭介の手が一瞬だけ止まったが、振り返ることも、声をかけることもなかった。ただ冷めた眼差しで脱衣所の鏡に映る自分を見つめながら、静かにタオルを首に掛け直した。
◇
どれくらい泣いていただろう。
涙も枯れ果て、温もりを失った浴室で泣き疲れたカナは、重い体を起こした。足元は濡れ、服の裾もシャワーの水滴を吸って湿っている。
バスタオルで雑に体を拭き、着替えてからリビングへと戻った。
だが、明かりのついたリビングに恭介の姿はなかった。
(……恭介さん?)
胸の奥を小さな不安がかすめ、カナは恭介の部屋のドアに近づいた。そっと隙間から中を覗き込んでみる。
ベッドの上にも、デスクの前にも、誰の気配もなかった。部屋は静まり返り、冷えた空気が漂っているだけだった。
そのまま吸い寄せられるように玄関へ向かった。
いつも恭介が履いている、履き古したスニーカーが、そこにはなかった。




